花言葉は「強運」_2
ベッド脇に置かれてある目覚まし時計は、所有者が昨晩に指定した通りの時刻――午前六時三十分を迎えた瞬間に、けたたましい電子音を室内に蹂躙させる――その前に、所有者である所の泰助にアラームを停止させられた。
ゆっくりと上体をベッドから起こした泰助の顔は冴えない。眠そうだから、ではなかった。どこまでも気だるそうな――起きた直後でありながら、疲労困憊といったような様子である。
一睡たりともできなければ、そうもなろう。
寝付けないという経験は誰にでもあるだろう。それでも――どんなに寝付けなかったとしても、人間の体力には限度というものがある以上、最終的には眠りに就ける筈である。
しかし、泰助は眠りに就けなかった。ただの一瞬たりとも――うとうととする事すら無かった。
明日に備えて寝なければならないと思い続けて数時間、考えれば考える程に――忘れようとすれば忘れようとする程に目が冴えていくのを実感とし、ついには朝を迎えてしまった。
正直、学校に行きたくはなかった。攻撃される危険性があるとか、警察に捕まる危険性があるからという理由では無く、もっと単純で切実な――疲れているから動きたくないという理由である。夏も盛っているこの時期、一睡もせずに活動するのはリスキーで、ともすれば倒れる危険性も十二分にあり得る。
しかし、それで「学校に行かない」という選択肢は無かった。病気でも患わない限り、親は欠席を許しはしない。眠れなかったと言った所で、それは「あんたがだらしないだけ」だと、一蹴されるだろう。学校をサボってどこかに行くという選択肢もあるが、この状態でどこへ行こうというのか。
どんなに考えた所で無駄だと分かれば、あとはいつ行動に移すかの問題である。両の手で顔を撫でながら、深い溜め息をひとつ吐いた。寝間着から学制服に着替えようとして――ふと、部屋の隅に置かれてあるテレビが目に留まる。
――ニュースを確認するべきか、否か。
昨夜に帰宅してから幾度と無く考えた事だが、結局それは実行されなかった。下手にニュースを見、不安感に駆られて眠れなくなるのを恐れた為だが、結果としては何も変わっていない。否、情報が収集できていない分、状況は悪化していると考えるべきかもしれなかった。
多少の躊躇いはあったが、泰助は床に転がっているリモコンを手に取り、テレビの電源を入れた。こうなってしまった以上、ニュースを確認する事に何のデメリットも無いだろう。
見覚えのある殺風景な光景が画面に映し出される。それが昨日、自分が逃げ込んで――そして全てが始まった場所である、学校近くの立体駐車場である事に疑いは無かった。映像が撮影された時間帯は一見した所わからないが、複数の検察官などが現場を右往左往していた。
しかし、音声のボリュームが小さく――加えて字幕が殆ど無かった為、映像以外の情報が全く入ってこない。リモコンでボリュームを上げようとしたが、その最中に映像が切り替わってしまい、ニュースキャスターが別のニュースを読み上げだしてしまった。
急いでチャンネルを替えてみると、別の局のニュース番組も同じ事件について報道していた。映像に関しては先程と大差ないが、被害者である河田と橘の名前が映し出されている。ニュースキャスターの声に耳を傾けつつ、泰助は着替えを進めた。
自分が事件の現場に居た人間で――事件を起こしたきっかけとなった張本人なのだから、確認すべき事項は自分が現場を去った後の状況だった。誰が二人の遺体を発見したのか。操作はどこまで進展しているのか。犯人を目撃した情報はあるのか――。
石南花の演出としては、アベリアが気絶させた女性に第一発見者になってもらう予定らしかったが、女性が意識を取り戻すまでには少しばかり時間が掛かり過ぎたらしい。死んでいる二人と意識を失っている一人を発見したのは、この立体駐車場の利用客の男性のようだった。発見された時間は、泰助が立ち去ってから間もない頃であり――ともすれば、その男性も女性と同様に殴り倒されていたかもしれない。
――もしかしたら、その男性が自分達を目撃しているのではないのだろうか。
そう考えた途端、心臓が跳ね上がるような感覚を覚えた。着替えを中断して暫しテレビに見入ったが――しかし、そのような情報は無いらしい。他に泰助や石南花、アベリアが目撃された情報は無いらしいが、昨日の今日の段階の情報では油断できないだろう。
捜査の進捗状況については、殆ど進展が無いようだった。河田と橘が刺殺されたのは素人目に見ても明らかではあるが、それでも凶器がけん玉であると特定するのは困難を極める筈である。
進展が無いとなれば、ニュースから得られる情報は殆ど無いという事になる。他のチャンネルに切り替えてもみたが、報道されている内容に大差は無く――大した情報を得られないまま、午前の七時を迎えてしまった。
そろそろ中途半端な状態となっていまっている着替えを済ませなければ、遅刻してしまう。気だるさは相も変わらずだが、のんびりしている余裕は無かった。
睡眠不足と空腹の組み合わせに加えて夏場の炎天下という状況下である。健康的に考えれば確実によくないのは考えるまでもなく分かるだろう。
それは泰助にしても例外なく分かっている事ではあったが、計画性の無さが無謀な行動に移る結果を招いてしまった。石南花とアベリアに巻き込まれたのも計画性の無さが災いしたのかもしれないが、それを今になって悔やんだ所で、どうしようもない事だろう。
そのような次第、通学途中で倒れるのではないかと一抹の不安を覚えながらの移動だったが、何事も無く学校に到着できた。
何事も無く――である。
昨日は絶え間無く不安に駆られ続け――気が触れていてもおかしくないくらいだったというのに、一晩経っただけで幾分か落ち着いてしまっている。早くもこの状況に「慣れ」が生じてしまっているのか、あるいは既に気が触れてしまっているのか。
あるいは、人生に対する「諦め」か――と、漠然とそんな事を思いながら、昇降口に着いた泰助は自分のげた箱の扉を開けた。
そこから取り出した上履きに何らかの細工が施されていない事を確認し、運動靴から履き替える。慣れが生じた――などと思いながらも、行動は昨日までと何ら変わっていなかった。
滑稽だが、笑えない。
教室へ向かわなければならなかったが――しかし、これからクラスメイトと顔を合わせなければならないと思うと、どうしたって足取りは重くなってしまった。状況は変わったもしれない。だが、泰助自身は何も変わっておらず――それは今し方の自身の行動で証明してしまった。
石南花の言う通り――河田と橘を殺した張本人は自分だったしとして、それで強くなった訳では無いのだ。間違ってもそこは勘違いしてはいけない。泰助が殺人犯である事を知らない人間は、当たり前のように今までと変わらぬ接し方をしてくるだろう。そうなれば、普通の人間でありたい泰助には、何も出来ない。
躊躇いはあったが――躊躇いしかなかったが、それでもここで帰れないとなれば前に進む他なく、気が付けば教室のすぐ側まで来ていた。尤も、気が付いたからといって、その後の行動に変わりは無い。他の生徒が何の考えも無しにそうするように、教室に足を踏み入れた。
「…………」
教室内には半数以上の生徒が登校していたが、入ってきた泰助に声を掛ける者は居なかった。至って平常通り――何の異常も無い。
自分の席の方へ向かいながら、河田と橘の席をちらと確認してみたが、そこに座っている人間はおらず――これから先も、暫くは空席のままだろう。
二人の机を蹴り飛ばしたい衝動に駆られたのも一瞬、泰助は教室の隅――自分の席がある所に、漠然とした違和感を覚えた。自分の席が無くなっていたという訳ではない。いつも使用している机と椅子は確かにそこに存在していたのだが――ひっくり返っていなかった。本来あるべき姿だった。
若干の戸惑いを覚えたが、しかしその場で立ち止まる訳にもいかず、自分の席へ歩を進める。一見した所、机や椅子には何の細工もされておらず、その中に入っている教科書類も無事だった。
今日だけ、たまたま何もされなかったと――そう考えるには、些か不自然である。警戒しながら椅子に座るが、やはりどこにも異常は見当たらない。さりげなく周囲を見回してみても、やはり変化はどこにも無かった。それとも、変化が無いように装っているのか。
机がひっくり返っているという展開を望んでいた訳では無い。だが、そうなっていないという事は、即ちそれなりの理由があるからで――河田と橘の死が知れ渡っていると、そう考える方が自然のように思えた。自分の学校、自分のクラスの人間が猟奇殺人に巻き込まれたのだ。知らない方が無理があるというものだろう。
クラスメイトの中に、自分を疑っている人間は確実にいる。それが数人なのか、あるいは全員なのかは分からないが、自分の席が無事なのが全てを証明している。
それでも――疑っていながらも、自分に対して何も行動を起こそうとしないのは、確信の無さか、それとも泰助に対する恐怖か。
疑っている人間からしてみれば、泰助が殺人犯かもしれないという可能性は、十二分に恐怖に値するだろう。このクラスに於いて、泰助をいじめていない人間は一人として居ない。このクラスの、泰助以外の全ての人間が――河田や橘と同様に殺されていても、何らおかしくは無い。
――自分を攻撃する者はいない。でも、誰も攻撃してこなかった頃の日常に戻る事は、出来ないのだろうか。
本鈴が鳴る頃には、クラスの生徒全員が席に着き、各々に授業を始める支度を始めていた。
河田と橘の両名を除いて。
一時限目は始まらなかった。
正確に言うなれば、一時限目は急遽予定が変更され、体育館で全校集会が行われた。ホームルームの際、担任の教師から体育館に集合するよう言われたが、その内容については一言も説明が無かった。それでも、大半の生徒は察しが付いていると思われ――それは泰助にしても同じで、当然の流れだろうと、その程度に思ったくらいである。
はたして全校集会の内容は、河田と橘の件だった。校長が神妙な顔付きで事件の説明と、二人がどの様な生徒だったか等といった話が十数分に渡って続いたが、泰助の耳には一言たりともそれらの言葉は届かなかった。
そんな事よりも、蒸し暑い体育館で長時間に渡って立たされているという現状が何よりの問題だった。自業自得とはいえ、万が一にでも熱中症などで倒れてしまっては、自分を窮地に追い込みかねない。
最後に行われた一分間の黙祷が、何十分にも長く感じられた。
午前中の授業の大半を惰眠に費やしてしまった。
勉強が好きという訳では無いが、決して不真面目でもない泰助としては、普通に――他の生徒がそうしているように授業を受けたかったのだが、しかし一睡も出来なかったツケがとうとう回ってきたらしい。それでも、授業を受けたいという一心で集中し続けたのだが、集中すれば集中する程、教師の解説は泰助を深い眠りへと誘ってしまい、とうとう耐えかねて寝に入ってしまった。
それは完全に無防備となる状態を意味し、いつ誰に何をされてもおかしくない状況だったのだが――しかし、泰助はそのまま、授業が終わるまで眠り続けてしまった。
何かされた事に気付かないくらいに眠りこけてしまっていた、という訳では無い。攻撃を与える隙しか無かった泰助に対して、誰も攻撃を仕掛けてこなかったと――そういう事になる。
机がひっくり返っていなかっただけならまだしも、無防備の状態である自分が昼休みに至るまで一切の攻撃を受けなかったとなれば、偶然では済まされないだろう。
――河田と橘の死が、長きに渡って続いたいじめに終止符を打った。
それは非常に喜ばしい事ではあるが――しかし、そう判断するには些か早計すぎる。昼休みを迎えた泰助は、普段通りに学食へ向かい、普段通りにパンを購入し、普段通りに男子トイレの個室に籠もった。現状、教室で食事を取っても、それを妨害する者は居ないだろう。だが、昨日まで教室で食事する事を避けていた人間が、今日というタイミングで教室に戻ってしまうのは不自然極まりない。
――トイレで食事を取るというスタイルは、恐らく卒業するまで変わらないだろう。
そう覚悟を決めながら焼きそばパンの袋を開けようとしたが、不意にトイレに進入してきた足音に対して身を強ばらせた。足音の数から察するに、入ってきたのは二人――嫌な予感しかしなかった。
昨日のトイレで起こった出来事が、否応無しに脳内でフラッシュバックされる。河田と橘ではないのは明らかであっても、泰助が居るトイレに何者かが入ってきたとなれば、多かれ少なかれ攻撃を受ける可能性はある。
「……でさ、お前はどう思うよ」
いつ何をされてもいいように――尤も、何をされても耐えるほか無いのだが――進入者の言動に耳を傾けていたが、どうやらこのトイレに入ってきた二人の生徒は、単に用を足す為だけの目的で来たらしかった。その声には聞き覚えがあるような気もするし、無いような気もする。もしかしたら、同じクラスの人間かもしれない。
「どう思うも何も、あいつが犯人なんだろ? 昨日、正門の近くで、河田と橘があいつを追い掛けているところを見たって奴もいるし……」
訳も無く声を上げそうになった衝動を、口を塞ぐようにして抑えた。
片方の生徒の質問に対してもう片方の生徒が答えた「あいつ」とは、考えるまでも無いだろう。その会話から察するに、二人は河田と橘、そして泰助を知っている生徒という事になる。同じクラスなのか、同じ学年なのか分からないが――それは問題では無い。
ただ、これら三人の関係性を知っている人間なら、そのような結論に至って当然だろう。分かっている事ではあったが――些か深刻な問題である。
でも――と、質問した生徒が不満そうな調子で口を開く。
「どうやったら、あの弱そうな井々野が二人を殺せるんだよ。一人ならともかく……二人だぞ? 河田と橘がどんだけ喧嘩が強いかってのは、お前だって知ってるだろうが」
「そうだが……まあ、何か凶器でも持ってたんだろ? ニュースでもそんなこと言ってたしよ。それに、井々野みてえなタイプの奴は、キレると何をするのか分かったもんじゃないからな。油断して殺られたんじゃないのか?」
「そんなもんか……?」
「そんなもんだよ。現場に犯人の痕跡が何も無いとかで、捜査は進んでないみたいだけど、そのうちボロが出るだろうよ。それで井々野が捕まるまでは、絶対に関わり合いにならない方がいいな」
「そりゃそうだな。あーあ、あいつと同じクラスの連中は気の毒だろうな。クラス全員が加害者なんだからよ。いつ殺されてもおかしくないぜ」
「ああ、まったくだ」
二人は他にも何か話していたが、用足しが済んだようでトイレから立ち去ってしまい、それ以上の会話は聞き取れなかった。
深い息をひとつ吐きながら袋を開け、焼きそばパンを口に運ぶ。学食の人気メニューのひとつである焼きそばパンは文句無しの美味しさなのだが、しかしその味を堪能している余裕など無かった。
先程の二人の会話が、脳内で延々とリピートされる。
泰助が犯人であると疑っている人間は、少なくない筈だ。他のクラスの生徒にまで知られているくらいなのだ、同じクラスの全生徒から疑われていると――そう思っておいた方がいい。いじめを黙認している教師陣は、言わずもがなだろう。
疑いを抱いている人間は、今はまだ少数だ。しかし、悪い噂は驚異的な早さで広まるというのであれば、学校に居る全ての人間が敵に回るのも時間の問題なのかもしれない。それは考えるだけでも恐ろしい事態である。
明らかに不利な状況に置かれているが、それでも、「情報が無い」という情報に守られている事は確かだ。
泰助を疑ってはいても、その泰助に対して言及する者が居ない。その理由のひとつとて、河田と橘を殺害した手段が不明だという点が挙げられる。寧ろ、その点に尽きるだろう。
どんなに血眼になって捜査した所で、殺人の手段など判明する訳が無い。殺人を実行したのは石南花とアベリアである以上、例え警察が泰助を疑ったとしても、証拠など何ひとつ見付からない。状況証拠すら――有り得ない。
凶器が単純な刃物や銃器であれば、遺体を調べれば解る事ではあるだろう。しかし、アベリアが凶器として使用したのは、一般的には玩具として知られているけん玉――しかも、凶器として使用する為に何かしらの細工が施されているけん玉である。そんな物が凶器であるなどと、誰が解ろうか。
解らないというのは、それだけで不安で――恐怖だろう。故に、泰助に対して無干渉を貫く他ない。河田や橘と同じ目に遭いたくないのであれば、それが最も賢明だと、誰もが考えている。
そう思われている間は――少なくとも警戒されている内は、無事でいられるだろう。どんなに調べられた所で泰助が人を殺した証拠などありはしないのだし、石南花やアベリアとの接点が知られる事も無い筈である。
――自分の身の安全は揺るがない。
何度も結論として導き出されている答えだというのに、しかし確信は全く無く――寧ろ、そう考える度に、言いしれぬ不安感を覚えた。
午前は何も無かったが、しかし、午後になってから状況が一変した――等という展開は無かった。
基本的には午前と何も変わっていない。昨日から状況は一変しているが、その状況は常に均衡を保ち続けられている。唯一、変わった事があるとすれば、惰眠を貪っていた午前に対して、午後は真面目に授業を受けていたのだが――そんなのは、本当に些細な事であるし、それが周りに与える影響などありもしなかった。
放課後を迎えるまで無干渉である。誰にも――ただの一言すら掛けられなかった。
別段、辛いという訳では無い。周りの人間から無視されるのは日常茶飯事で――そうされるのが当たり前のような生活を送っていたのだから、無干渉に対して今更何を思う事も無い。
ただ、無干渉を貫かれる「理由」が気に掛かった。
今までは「嫌悪」や「憎悪」といった理由で避けていたのに対し、今は確実に「恐怖」している。周りの人間にとって、泰助は「避けたい相手」ではなく、「避けなくてはならない相手」となっている。
無論、誰かがそういう事を言った訳では無い。飽くまでも、クラスの雰囲気から、自分なりにそう察しただけである。あるいは、トイレでの会話を聞いてしまったが故に、そう考えるようになってしまったのかもしれない。
そこに居ながらにして自分の居場所が無いような――そんな後ろめたさがあるのは、どうしたって拭いきれなかった。
自分が殺した訳でもない。あの二人は殺されて然るべき奴だったと――自分の中でどれだけ正当化しても、この状況が――この環境が、泰助の精神を苛む。
無干渉という名の非難。
昇降口で靴を履き替える際、念には念を押して、靴に細工が施されていないか確認してみたが――結果は言わずもがなだった。
早く帰ってしまえという、無干渉である。
自分を疑っている人間が常に居る学校内よりも、外に居る方が気が明らかに気が楽で――正門を通過した泰助は、無意識に深い溜め息を口から漏らした。それは今までと何ら変わりない事ではあるのだが、河田と橘の驚異が取り除けたのは大きい。
昨日は、どこに居ようが――何をしていようが、気が気でなかった。状況を鑑みれば致し方ない事ではあるが――それでも、道行く全ての人間が自分を疑っているような錯覚に陥ってしまっていたのは、今思うと情けなく思う。
人殺しとして、情けない――。
認めた訳ではない。自分が殺した訳ではないというのに、人殺しだと認めてしまうのは、冤罪を被るに等しく――有り得ない。そのような称号に、魅力など欠片も無い。
ただし――少なくとも高校を卒業するまでは、常に意識して立ち回らなければならないだろう。認めたくなくとも、周りは既に泰助を殺人犯として認識してしまっている。そこに証拠の有無など関係ない。河田と橘が揃って命を落としたという事実には、この状況を確率させるだけの説得力がある。
自身の疑いを晴らすためには、二人を殺した張本人である所の、石南花とアベリアが捕まればいいだろう。しかし、それは同時に、事件の真犯人である泰助の人生を決定的なものにしてしまう。それよりも何よりも、プロとして働いている二人が警察に捕まる可能性は、限りなくゼロだろう。そうでなければ、泰助は平然と外を歩く事など出来ない。
ならば、泰助が状況に適するしかなかった。疑われている事に気を病むくらいであれば、疑われて当然の人間として腹をくくった方がいい。
尤も、そう考えた所で、そうそう簡単に変われるほど泰助は出来た人間では無い。今の今まで延々と悩み続けている自分自身がよく分かっている事だ。
――石南花とアベリアは、どうして平静でいられるのだろうか。
駅を目指しながらなんとなしに考えたが、しかしそんな事は考えるまでも無い。人を殺している人間として、踏んでいる場数が圧倒的に違うのだ。自ら望んで殺しを行っている人間が、殺人に巻き込まれた泰助と同等である筈など無い。例えそうでなかったとしても――彼らが殺人を望んでいなかったとしても、生活が掛かっているのだ。迷う理由など無い。
その生活を支える一端を担わなければならない。
目先の事だけにとらわれ続けていたが、そろそろ今後の事について考えなければならない。具体的には、二人に払う金を早めに用意しなければならない。河田と橘を「どうにかしてもらう」代償としての、五万円。今後の自分の人生は疎か、人格そのものを根底から覆す金額としては破格だろう。
近い内にお金を回収すると――石南花は言っていた。それが今日なのか、はたまた一週間後になるのか分からないが。とにかく、いつ来られてもいいように、駅前のコンビニATMでお金を降ろしておいた方がいいかもしれない――。
そんな事を取り留めもなく考えていた泰助は、駅へ向かわせていた足をふと止め、その場に立ち止まった。普段は決して立ち寄らない――寧ろ、今までそこにあったのかとすら思ってしまうくらいの小さな電気屋の前だった。
別段、そこで電化製品を購入しようと思った訳では無い。ただ、その店のショーウインドに所狭しと並んでいるテレビの画面に流れている映像が、否応なしに立ち止まらせてしまった。
「え……?」と、思わずそんな声を上げてしまった程度には驚いた。
会見が行われているらしい事は、フラッシュに焚かれながら数本のマイクの前で何かしら喋っているという光景から察せられる。
それだけなら何とも思わない。フラッシュが目障りだと感じたくらいで、構わず歩を進めていただろう。だが、そこに映っている人物に見覚えがあるとすれば、そういう訳にもいかなかった。
今朝がたに於ける全校集会の際に見た校長が、画面の中に居る。
ショーウインド越しではテレビの音声が完全に遮断されており、かつ会見の内容に関するテロップも表示されていない為、何を喋っているのかは分からない。分からないが――会見の内容については、校長の浮かない表情を見れば聞かずとも分かる。否、校長が会見を行っているという時点で、内容などたかが知れているというようなものだ。
テロップは無いが、画面の右上には「きょう午後一時半ごろ」という表示がある。その情報から察するに、この映像は中継では無いのだろう。しかし、今日の午後にこのような会見が行われたという話は全く聞かされていなかった。尤も、生徒への配慮としては、事前のアナウンスなど必要ないだろう。
――俺は一体、何をしているんだ。
暫し画面に見入っていたが、溜め息をひとつ吐きながら、漠然とそんな事を思った。校長が映っているからという理由で思わず足を止めてしまったが、しかし止めた所で、泰助にとっては何の意味も無い。
殺された河田と橘はどういう生徒だったのか。泰助をいじめていたという事実を差し引いても、二人の評判は相当に悪いだろうが、それでも校長は当たり障りの無い事しか喋らないだろう。そんな光景を眺めていて、どうしようというのだ。
時間の無駄だ。そう判断した泰助が歩みを再開するのは早かったが――しかし、その足はすぐに止まってしまった。
止まらざるを得なかった。
上下共に青いジャージを身に纏った金髪の女性――名前も顔立ちも、およそ日本人とは思えないアベリアが、相変わらずの不機嫌そうな表情でアイスキャンデーを咥えながら、泰助の進路上に佇んでいたのだから。
「……あの」
そんな風に、恐る恐るとした調子で――最初に口を開いたのは泰助の方だった。
いつからそこに居たのかは分からないが、少なくとも、電気屋の前で立ち止まった後である事は確かだろう。何が目的でそこに居るのかは――それなりに理由は考えられるが、無言でこちらを見ているとなれば、自分の方から声を掛ける他なかった。
「…………」
しかし、アベリアの無言は変わらず――アイスキャンデーを咥えたまま、眉間に縦皺を刻んでいる。本来、アイスはそのように不機嫌そうな表情を浮かべて食べるものでは無いと思うのだが、それを指摘するのはあまりにも怖い。
彼女とまともに話すのは――まだまともに話せていないのだが――今回が初めてとなるが、どう話を切り出せばいいのか分からない。どうして終始機嫌が悪そうなのか見当がつかないが、下手な事を言って逆鱗に触れるのは避けたかった。無益な殺生を好まない相手だと分かっていても――である。
石南花が相手なら、まだ話せるというものだが――と、そこまで考えて、泰助はふと疑問に思った。ついついアベリアだけに気を取られてしまったが、今日は彼女の相方(なのかは分からないが)である石南花の姿が見当たらない。まさか、逃走経路を塞ぐつもりで――別に逃げるつもりは無いが――背後に居るのだろうかと思って後ろを振り向いてみたが、そこにいるのは道を行き交う通行人のみだった。
「あいつなら、居ないよ」
石南花の所在を尋ねようとしたが、泰助が口を開く前にアベリアが答えてくれた。だんまりを決め込まれるのかと思い、僅かながら不安感に駆られたが、どうやら杞憂に終わったらしい。しかしアイスキャンデーを咥えたままの状態で喋られては、非常に聞き取りづらかった。
それにしても、アベリアよりも年上である筈の石南花を「あいつ」呼ばわりとは。二人の関係性は殆ど分からないが、彼女の人間性の底が知れているというものだ。
尤も、人殺しを生業としている人間に、人間性もへったくれも無いような気はする。
アイスキャンデーを噛み砕いたアベリアは、氷の塊を含んだまま眉間の縦皺を更に深く刻んだ。冷たいものを飲食する際に発生する、アイスクリーム症候群というやつだろう。その仕草が妙に人間臭くて――元から人間以外の何物でもないのだが――違和感のような感覚を覚えた。
氷を飲み下してから、彼女は「ああ、くだらない」と呟くように言ってから、泰助に有無を言わせない間に、続ける。
「あいつの担当は、仕事の話を持ち掛けて、顧客と契約を結ぶ。それだけだからね。アタシの担当はそれ以外――早い話が、雑用係だよ。あんたの殺意として動くのも、あんたから金を回収するのも――正直、面倒臭くて仕方ないけど……アタシにあいつみたいな仕事は出来ないし、あいつにアタシみたいな仕事が出来ない以上、妥協するしかないんだよ」
最初は無口なのかと思ったが、別段そういう訳では無いらしい。石南花がこの場に居ない以上、否応なしにアベリアが一から十まで説明しなければならない、という事情も少なからず噛んでいるのかもしれない。
だから、くだらない――のだろうか。
アイスキャンデーの残りを頬張ったアベリアは、それを味わう様子も無く噛み砕き――飲み込んだ。今回は、アイスクリーム症候群は発生しなかったらしい。
「じゃあ、今日は……金を回収しに来たと……?」
「それもそうだけど、次の仕事の話もある」
答えながら、残ったアイスの棒を捨てようと辺りを見回すアベリアだったが、近辺にゴミ箱は無い。結果、足下に捨てるという、あまり誉められたものでは無い素行に出た。
「次の仕事?」
地面に転がるアイスの棒を見、泰助は彼女の言葉を反芻する。自分が依頼した――依頼せざるを得なかった件については、その日、その場で、彼女が完遂してしまっている。当然ながら、それ以上の仕事を依頼した覚えは無く――依頼するつもりも無い。
自分の与り知らぬ所で妙な話が進行しているのかと泰助は訝ったが――しかし、そういう事では無いのだろうと、思い直す。
人を殺す事で収入を得ているのであれば、五万円という収入は多くない筈である。一人ならまだしも、石南花とアベリアで折半しているとなれば、尚更だろう。泰助の他にも、契約を結んでいる人間が何人か居り――彼女の言う「次の仕事」とは、別の人間から依頼されたものを示しているのだろう。
泰助から金を回収してから、次の依頼をこなしに向かうつもりなのかもしれない。そうでなければ、こんな所で待ち伏せするような真似などせずに、自宅を尋ねてくる筈だろう。
「……面倒だ」
雑踏に紛れそうな小声で呟いたアベリアに対して「え?」と聞き返したが、しかし彼女はそれを無視した。
「あんたと無駄に話すつもりなんて微塵も無いから早々に済ませるけど、お金は用意できてるの? 無理強いはしないけど――アタシとしては、早く回収したいから」
「これから、そのお金を下ろしにコンビニまで行こうかと思ってた所なんだけど……」
「そう」得心したようにアベリアは頷く。「じゃあ、それまで付き合わせてもらうよ」
それは決して無視できる言葉では無かったのだが、しかし泰助に背を向けたアベリアは、勝手に歩き出してしまった。コンビニへ向かうのは飽くまでも自分の用事だというのに、どうして彼女に先行されるのか納得できない。
このまま立ち止まっていれば、あるいは彼女は気付かずに立ち去ってしまうのではないかと思われたが、そうする意味が無い以上、大人しく付いていく他なかった。下手に逃げ出して怒りを買ってしまっては、目も当てられない。
だが――、
「ちょ、ちょっと……」
泰助が歩いていた通りから逸れて、アベリアは小道に入ってしまった。駅前への最短距離――即ちコンビニへの最短距離を通るのであれば、通りから外れる必要など皆無だった。
「どこへ行くつもりなんだよ」
「アタシが遊びに行くとでも思ってるの?」
慌てて追い掛けた泰助に対し、アベリアは歩みを止める訳でも無く、進路を変える訳でもなく、不機嫌そうな調子でそう返した。遊びに行かれるとは思っていないが、先行するからにはそれなりの理由があって然るべきだろう。
「……雑踏が嫌いなんだよ」
意外と小さい理由だった。
「ところで、今は何時だと思う?」
その雑踏から完全に切り離された路地に入ってから暫くしてから、彼女はそう尋ねてきた。無駄な話をしたくないと言っておきながら、無駄とも思える質問を投げ掛けてくる辺り、彼女のいい加減さが伺えてくる。
しかも、質問の内容が「今は何時か」ではなく、「今は何時だと思う」かだ。妙なクイズである。
「今は……午後の三時五十五分、だけど」
そんなクイズに対して、真面目に取り合う必要があるとは思えず、泰助はズボンのポケットから取り出した携帯電話で現在の時刻を確認した。これならば、間違えようが無い。
その答を受けたアベリアは、ジャージの袖を捲り――その下、透き通るまでに色白な腕に巻かれてある腕時計を確認して、頷く。
「そう、今は午後の三時五十五分――いや、六分」
時計を持っているのなら、最初から自分で確認すればいいだろうと――そんな事を思った泰助の方を、意味ありげにアベリアはちらと見遣る。
反抗的な態度を取り続けていたが故、彼女の怒りを買ってしまった――という訳では無いのは、表情を見れば何となく分かった。
「ところで……昨日、アタシがあの二人を殺したのは、何時だと思う」
「何時、って……」
今しがた問われた現在時刻の質問は、この本題への伏線だったらしい。しかし、急にそんな事を問われても、分からない――というのが本音だった。
無論、正確な時間でなければ、分からないでもない。昨日の授業が全て終わったのは今日と同じ時刻で、それから帰宅するタイミングを見計らい続けていたので、確実に午後の四時は経過していたと思われる。
ただし、分かるのはそこまで――河田と橘に追われてから暫くは、時刻を気に掛ける余裕など微塵も無かった。ニュースや新聞を見ても、時刻に関して分かる事があるとすれば、せいぜい死亡推定時刻くらいのものである。
どんなに考えた所で、分からないものは分からないので、
「分からない」と、答える他なかった。
そもそも、殺した時間を泰助に確認して、どうしようというのか。そもそものそもそも、このよく分からない質問を投げ掛けてきたアベリアは、その答えを知っているのだろうか。
「午後四時二分だよ」
知っていた。
今度は時計を見ずに、空で答えられた。
これが人を殺した正確な日時などでなければ、あるいは単なる笑い話で住んだのかもしれないが、笑える要素が全く無かった。尤も、会話の相手がアベリアである以上、どんな話題を振られても笑えない気がする。
この女、今までに殺した全ての人間の死亡時刻を記憶しているのだろうか――?
「つまりさ――あと五分で、あの二人が死んでから二十四時間が経過するんだけど」
「それが……どうしたっていうんだ」
人殺しであるという現実を忘れさせない為の、戒めの言葉だろうか。
「だから、次の仕事の話だよ」
話の流れがまるで見えないという風の泰助を横目で見遣るアベリアの表情は、いつもの不機嫌さに加えて、苛立ちのような色が浮かんでいた。だが「次の仕事」というのは、自分とは関係の無い話であると――泰助の中で結論付けてしまっている以上、彼女がどんなに苛立った所で意味が無い。
故に、面倒だと思いながらも、彼女は説明しようと口を開いたのだが――それ以上の事を知らない方が、泰助にとっては幸せだったのかもしれない。
不幸中の幸いだったかもしれない。
「あんたが次に殺したいと、心の底からそう思っている奴を教えてほしいって事だよ。あんたの殺意としてアタシが代わりに動くと――あいつが言ってただろ」
「な……」
泰助の足が止まった。一拍の間を置いてそれに気付いたアベリアは同様に足を止め、背後を振り返る。
「いや……全く、何を言っているのか、よく分からないんだけど……」
言いながら笑ってみせようとしたが、引き吊っている表情が笑みに変化する事は無く、ただただ困惑するのみとなってしまった。
「よく分からない? アタシは、あんたがよく分からないなんて言う理由がよく分からない。あいつの説明をろくに聞かないで契約を交わしたとでもいうの?」
どこまでも不機嫌そうなアベリアの表情は、分からないというよりも――蔑んでいるような、そんな雰囲気があった。
「聞いていたけど……けど、俺にはもう、殺したい人間なんて、居ない」
そう思っていた人間は、既にこの世から消えた。
あとは石南花から請求された金額を支払い、それで終わりだと――少なくとも泰助はそう考えていたのだが、違うらしい。何もかも、違うらしい。
「人が人を殺す時ってさ」
唐突に言いながら、アベリアはジャージのポケットに手を突っ込み、そこから彼女の得物であるけん玉を取り出した。それで自分を殺すつもりなのかと――微かに身構えたが、しかし彼女は、それを本来の正しき用途――玩具として使いだした。
けん先に刺さっている赤い玉を大皿へ。そこから中皿と大皿の間を交互に――リズミカルに移動させていく。得物としてだけでは無く、玩具としてもけん玉の扱いに手慣れているようだ。うさぎとかめの童謡を歌いながらであれば、それなりに様になっていたのかもしれないが、彼女は歌う代わりに言葉を紡いだ。
「そこには明確な『殺意』があるんだよ。自我のある人間が生きているものの命を奪うには、多かれ少なかれ『殺す』という動作を意識しないといけない。望む、望まないに限らず――ね。そうでなければ、どうして意味も無く同じ種を滅ぼそうとするのか。意味があるから、殺す必要があるから、殺さないといけないから、踏み越えたくない一線を踏み越えるんだよ。それを全く意識しない……息をするように人を殺しているというのなら、そんな奴は既に人間なんかじゃない。鬼か悪魔か化け物か、それとも、それ以上の『何か』かさ。そいつらにとって、人間は同じ種じゃあ、ないからね」
大皿に乗った玉を頭の位置まで高く飛ばし、落下してくるそれをけん先に刺した。その技に満足したように息をひとつ吐いたが、彼女の話はまだ終わらない。
「アタシがあんたの『殺意』として動くと――そういう条件で契約を結んだ。殺意を向ける先が無ければ、それは殺意として成立しない。殺意として存在できない。でも困った事に、アタシは存在してしまっているからね。じゃあ、存在しない筈なのに存在している殺意を存在しないようにする為には、どうしたらいいと思う?」
あんたを殺すのがひとつの手段だね――と、少女はけん玉の赤い玉を泰助に向けながら宣告する。
死刑宣告――ではなく、私刑宣告。
「あんたが死ねば、殺意も何も無くなる。契約は破綻して、アタシは殺意では無くなる。単純な話だよ。
行き場を失った殺意は、最終的に自らの身を滅ぼす。実にドラマチックな展開じゃないか――ってのは、あいつの受け売りなんだけど」
「じょ――冗談じゃない。なんで、そんなの……話が全然違うじゃないか。そんなの、全く聞いてない……」
アベリアと、この場に居ない石南花に対する憤りが泰助の語気を強めたが――それも最初の一瞬だけだった。
「そう。冗談なんかじゃないよ。それに、話が全然違うのも当然だね。あたし達はボランティアで活動している訳じゃ無い。ビジネスで活動しているんだよ。契約してもらいたいのに、契約が破綻した時はあんたを殺すかもしれないなんてトンデモな条件を突き付けた所で、あんたはそれを飲まなかっただろうさ」
「…………」
――当たり前だ。
――そんなのがビジネスであってたまるか。詐欺や恐喝の方が、まだマシだ。
いろいろ思う所はあったが、反論する余裕など無かった。アベリアが殺すと言った以上、何を言ってもそれが覆る可能性など皆無であるとすれば、何も言いたくなかった。
「そう落ち込まないでよ。ひとつの手段だと、アタシは言ったんだ。アタシらだって、出来ればあんたを殺したくは無いんだよ――面倒だし、それよりも何よりも、金が入らない。骨折り損のくたびれ儲けは御免だ。もう少しで金が受け取れるっていう状況なんだから、尚更だよ。
だからと言って、あんたから金を受け取るまで待つ――なんて特例は認められない。アタシらには、アタシらの規則があるからね。そういうのを認めてしまうと、色々とよからぬ事を考える馬鹿がいるんだよ」
その説明からすると、石南花やアベリアの他にも、こういう事をしている人間がいるのだろうか――という憶測は的を射ているのだが、それ以上の事は考えなかった。それが真実であれば、泰助にとっては絶望でしかないのだから。
「猶予としては、二十四時間。この場合の二十四時間っていうのは、殺す対象となった人間が死亡した時刻を開始としての、二十四時間だ。その時間内に次の対象が決まらなかった場合、あんたには死んでもらわないといけない」
携帯電話のディスプレイに表示されている時刻を見、泰助は息を飲む。午後四時ジャスト――あと二分。
「まあ、でも、あんたは運がいい部類だよ。殺したいと思う相手には、今のところ困らないんだから」
困らないくらいに沢山いる。
河田と橘の他に、心の底から殺したい人間など居ないと――言いはしたが、断言は出来なかった。その二人が泰助をいじめている中心的存在である以上、中心の外が――即ち、いじめに荷担していたクラスメイトが存在する。例外はひとりとて存在しない、全員だ。
――でも、
「……でも、無駄に殺す必要は無いって、そういう目をしている」
片方の足で地面を踏みしだく彼女の行動には、露骨に苛立ちが表れていた。
「既に人をふたり殺しておいて、よく言うよ。いや、あんたはまだ何も言ってないけどさ……って、何でアタシがこんな事をフォローしないといけないんだよ」
ノリ突っ込みと言うには、あまりにも笑えない状況である。そもそも、彼女に笑わせるつもりなど毛頭無いのだろう。
「だったら……どうして、せめてもっと早くに教えてくれなかったんだ。どう考えても、こんなギリギリのタイミングで言うような事じゃない」
絶対におかしいと――憤る泰助に対して、アベリアは「そうだね」と、あっさり肯定してしまった。
「別に、昨日の時点で教えてやってもよかったんだけどさ。その時点で本当に殺したい人間が居なかったとしたら、残りの二十四時間余りはあんたにとって耐え難い時間になっただろうね。実際、あんたには殺したい人間が居なかった。この土壇場で思い浮かばなかったんだから、アタシらとしては、もうアウトなんだよ」
たとえクラスメイトの名前を適当に言った所で、泰助が明確な殺意を抱いていなければ却下される。何よりも、自分で「殺したい人間はもう居ない」と宣言してしまったのだから――完全に手遅れである。
「どうしても、それ以上の殺人を避けたいっていうのなら……この場でアタシを殺してみるのも、ひとつの手段だろうね。勿論、それが出来たらの話だけどさ。殺意を押し殺す――試してみるかい?」
喋るだけ喋って――無理難題を押し付けるだけ押し付けて、腕時計をちらを見遣ったアベリアは「時間だよ」と告げた。けん玉を持っていない方の手をジャージのポケットに突っ込み、そこから更にもう一本、けん玉を取り出す。
午後四時二分――私刑執行の時間である。
河田と橘の亡骸が、否応なしに脳内に浮かび上がる。あの二人は、アベリアに対して完全に油断していたが故に殺された。対する泰助は、彼女がけん玉で何をしようとしているのか知っている。油断も何もあったものでは無い。
油断も警戒も迎撃も防御も交渉も逃走も命乞いも何も――あったものでは、無い。
こんな事になるのであれば、こんな連中に関わり合いになるべきじゃなかったと――どんなに悔やんでも先に立たない後悔の念に駆られる余裕は与えられなかった。
「ちょ――ちょっと、待ってくれ……」
「待たない」
何を待ってほしいのかもよく分からないままに発せられた泰助の言葉は、何の意味も成さずに一蹴される。時間稼ぎにすら、ならない。
左右の手にけん玉を構えたアベリアは、相も変わらず不機嫌そうな表情を湛えながら、泰助の方に一歩踏み出し――、
何を思ったのか、踵を返し――泰助に背を向けた。同時に左手に構えたけん玉が、内側から外側に向かって振るわれ、直後に何かが衝突するような音が鳴り響いた。
それがアベリアに向かって飛来してきた「何か」を防ぐ為の動作だったと泰助が察したのは、その「何か」がビルの壁に反射して、地面に転がり落ちたのを見た時である。
彼女の後方で停止した「何か」の正体を確かめるべく、泰助は目を凝らしてそれを見てみたが――ビー玉大の真っ黒な球体であるそれが何なのか、全く判然としなかった。見た目通りビー玉なのではと思えなくもなかったが、しかしその物体は、微かに煙のようなものを立ち昇らせていた。
音も無く、蒸発していくように。
この物体に関しては謎だらけで――謎しかないが、そもそも誰がこれを寄越してきたのか。そんな状況では無いのは明らかで、どうでもいい事ではあったのだが、しかし確認したいという衝動を堪える事が出来ず、アベリアの後方を窺ってしまった。
そこに誰が居るのか、具体的な予想は立てていなかった。少し戻れば人の通りがそれなりに多い道である。どんな人間が居てもおかしくはなかった。
だが、そこに居る人物がビー玉の様な「何か」を飛ばしてきた張本人なのだとしたら。十五メートルほど前方に――路地の出口の辺りで、立ち塞がるようにしてそこに居た少女の姿は、それだけで泰助を訝らせるには充分だった。
小学校高学年か、中学一年辺りか。確実に泰助よりは年下と思われる少女だが、前髪を直線の様に眉の上で真っ直ぐ切り揃えており、後ろ髪も肩の辺りで綺麗に切り揃っているお陰で、何となく顔立ちが幼く見える。
その顔はどこまでも無表情であり、不気味だとすら思えるくらいに一切の感情が読み取れない。それが自分より幼い人間が浮かべる表情なのだろうか。
その髪型も相俟って、まるでこけしみたいだ――と、場違いな事を思った直後、その少女は左手を素早く挙げて「何か」を自身の頭上に飛ばした。間髪入れずに、上体を僅かに捻りながら反らせ、右腕を降り上げる。
泰助の見間違いでなければ、その右手に握られていたのは、一般的には正月の風物詩として知られている羽子板という玩具で――、
降り下ろされたそれが軽快な音を立てて「何か」を弾き飛ばしたのと、アベリアが先程と同様にけん玉を振るって飛来してくる「何か」を弾き飛ばしたのは、ほぼ同時のように見えた。同時のように見えただけであって、実際には同時では無いのだが、その速度を泰助の目では捉えきるのは不可能だった。
先刻と同様に「何か」がビルの壁に反射して、地面に転がり落ちる。それがビー玉大の黒い球体である事も、そこから白い煙が微かに昇っているのも、先刻と同様だった。
気が付けば、一個目の玉はどこにも見当たらない。完全に停止していた所を見ていたのだから、勝手に移動するという事も無い筈だと、泰助は思う。しかし、実際に消滅してしまっている。跡形も無く、霧散してしまっている。
「くだらない」
自分が弾いた黒い球体を一瞥し、アベリアは泰助に対して言った時と同じ調子で、吐き捨てる。
「よりによって同業者に殺されそうになるだなんて、今の今まで思ってもみなかったけどさ。こういう事もあるんだ。あいつから話を聞いた時はくだらないって思ったけど、なるほど。本当に、くだらない」
――同業者……って?
聞き間違えたという訳では無い。その言葉の意味する所は、その言葉を使用する機会が殆ど無くとも分かっている。それでも、泰助はそう思わざるを得なかった。
――こんな年端もいかない子供が、人を殺しているなんて。
現実逃避もいいところの思考である。先刻に於ける一連の動作を見ていれば、彼女の言葉の真偽など考えるまでもなかった。
詰まるところ、泰助は自分に都合のいい解釈をしたかった。只でさえどうしようもないというこの状況下で、石南花が言う所の「私刑人」が更に増える等と――これを最悪と言わずして、何と言おうか。
しかし――と、思い直す。
少女は確実にアベリアを殺しに掛かっていた。その攻撃に一切の躊躇いが無かったのは考えるまでもない。彼女が口を開いてからは攻撃の手を止めているが、黙っていたならば第三の攻撃が飛んできていたに違いないだろう。
何が目的でアベリアを襲うのか。それは泰助の知る所では無いが、上手く事が運んでくれれば、もしかしたら少女がアベリアを殺してくれるかもしれない。殺されるのを、回避できるかもしれない。
「で……」と、攻撃を二度阻止されたにも関わらず、依然として無表情のまま口を閉ざしている少女に対して、アベリアは口を開く。
「あんた、誰に頼まれてアタシを殺しに来たんだ? アタシを知っている人間となると、そうそう限られてくると思う筈だから、やっぱ同業者の誰かという事になるのかな。恨みを買うような覚えは……あいつなら、数え切れないくらいあると思うけど」
「……少し勘違いしているようなので、訂正させてもらってもいいでしょうか」
漸く口を開いた少女の声音は、その見た目を裏切らない程度に幼さを残しており、その雰囲気を裏切らない程度に感情が無かった。
「訂正?」
アベリアの声音には明らかに苛立ちが表れていたが、彼女の後ろに居る泰助に、その真偽の程は分からない。
「私が殺しにきたのは、あなたなんかではありません。あなたの後ろに居る人――井々野泰助です」
「……は」
少女の口から出てきた名前は泰助のものだったが、それが自分の名前であると気付くのに、一拍の間を要し――アベリアに奇異の視線を向けられてから、間の抜けた声を上げてしまった。
「どうして……」
――どうして自分の名前を知っているんだ。
とりあえず抱いてしまった疑問だが、その答えは考えるまでも無いだろう。誰かが――心の底から泰助を殺したいと望んでいる人間が、少女に仕事を依頼したのだろう。
河田と橘をどうにかしてほしいと頼んだ、泰助のように。
ならばこの場合――考えるだけ無駄であるとしても、少女の事に関して考えるべき事があったとすれば、少女に仕事を依頼した人物は何者なのか、だろう。
「分かりませんか?」
ここで少女は、初めて泰助に対して口を開いた。
「あなたみたいな人が殺意を抱かれるほど恨まれているとしたら、可能性は限られていると思うのですが」
今までどんなに疎まれる事があったとしても、殺意を抱かれるような覚えは無かった。死ね――という言葉を浴びせ掛けられる事は日常茶飯事だが、それは言ってしまえば単なる悪口で、死んでほしいとは思っても、殺人という犯罪を犯してまで死んでもらおうとする人間はいなかった。
今にしたって、それは変わらない。寧ろ、状況は改善されているくらいだろう。泰助を疑っている人間は、皆が皆、泰助を恐れているのだから。
その状況下に於いても、泰助対してに殺意を抱いている者が居るとしたら、それは確かに数が限られるだろう。限られるが――如何せん、判断材料が少ない為に、特定まで至らない。
「分からないというのであれば、それでも構いません。どうせあなたが殺したという訳では無いのですから、あなたが恨まれるのは筋違いだと――恨まれる覚えなど何も無いと、そう捉える事も出来るでしょう。だからといって、情報を提供するつもりなどありません。有無を言わせずに、アベリアさんもろとも死んでもらおうと思っていたのですから」
こうして話しているという状況は、少女の思う所では無いらしい。
「……あたしは名乗った覚えは全く無いんだけどね。それだけ有名になってきたって事かい」
同業者というワードが先行して、この二人は知り合いなのだろうと泰助は踏んでいたのだが、アベリアの言葉から察するに、初対面なのかもしれない。一体、どれだけの人間が、彼女らと同じような仕事をしているのだろうかと――考えるだけでも嫌気が刺す。
「有名かどうかは知りませんけど、お婆ちゃんから話はよく聞かされていました。問題児が抱える問題児……らしいですよ、あなたは」
「……あいつとアタシを一緒にされるのは、心外なんだけど。柳の婆さんも、随分と人を見る目が無いんだね。老眼なら、仕方ないか」
今の今まで喋るこけしの如く無表情だった少女の眉が、微かに震えた――ような気がした。距離が開けている泰助の位置では、本当に気のせいでしかなかったのかもしれないが、逆を言えば、今の今まで表情に全く変化が無かったからこそ、ほんの些細な変化に気付けたのかもしれなかった。
変化としては些細も些細で、客観的に見れば気にも留めなかったかもしれない。しかし、泰助はそれを気に留めてしまった。少女の逆鱗に触れたかもしれないという事実に恐怖した。柳という名前をどこかで聞いたかもしれないという朧気な記憶など、すぐに霞んで消滅してしまった。
「事の序でに商売敵を消す事にさほど興味はありませんでしたが……お婆ちゃんを侮辱するようであれば、あなたを殺すには充分な動機となります」
逆鱗に触れたかもしれないが――少女の声音に変化は微塵も無かった。素直に怒ってくれた方が、まだ怖くないというものである。
「なんだ。当てずっぽうで言ってみただけなんだけど、当たってたんだ。当てずっぽうっていうか、アタシが知っている婆さんっていったら、それくらいしかいないんだけど。そうするとアンタは……誰だっけな。やっぱり思い出せないね」
「……あざみ、です」
なるほどねえ――と、右足で地面を踏みしだきながら、アベリアは得心したように頷く。漸く明らかになった少女の名前だが、彼女にとってはどうでもよさそうだった。
「仕事の序でに商売敵を消すという算段は、嫌いじゃあないよ。アタシは仕事以外で人を殺すなんて面倒な事はしないけどさ。あんたのやり方にとやかく言うつもりは、無い」
踏みしだいていた足を止め、感触を確かめるように両の足で地面を踏み締める。臨戦態勢に入ったのだと――泰助は判断した。
――もしかしたら、これは大きな好機かもしれない。
「でも、アタシだって大人しく殺されてあげる程のお人好しじゃあ、ないからね。売られた喧嘩は買ってあげるよ。同業者として……どっちが強いのか、気になるし」
「確かめるまでも無いと思いますが」
「そうだろうね。身内を侮辱された程度で逆上するようなガキじゃあ、たかが知れてる」
「…………」
何も答えない代わりに、少女――あざみは、羽子板を持っていない左手を徐に後ろへ回した。よくよく見てみると、ウエストポーチを身に付けているらしく――再び姿を現したその手には、そこから取り出したらしい黒い球体がいくつか握られていた。羽が付いていれば、そのまま羽子板の羽として使えそうな、黒い球体である。
「あの……さ」
アベリアの後ろ姿に向かって、泰助が口を開いた。
酷いタイミングである。お互いが無言で向き合う中――一触即発という状況下で、である。空気を読まないその言葉に彼女が反応するような事は無かった。それを無言の肯定を捉えたのか、それとも何も考えていないのか、泰助はそのまま続ける。
「お前の言う時間はとうに過ぎていて……本当なら俺はもう殺されていて然るべきなんだと思うけど……それでも、今の俺に、本当に殺したい相手がいたとしたら、次の仕事を受けてくれるか? それはお前にとって、決して悪い話じゃ無いと思う」
「言った筈だよ。例外は無い、って」
あざみを見据えたまま、彼女は一蹴する。先程までの泰助であれば、恐れをなして沈黙していた所だったが、しかし今回は引き下がらなかった。
「お前を殺そうとしている奴を殺してくれ。仕事以外で殺しをしたくないって言うんなら、仕事にすればいい。邪魔な奴を始末できて、それで金を得られるんなら、お前にとっては悪くない筈なんだ」
このまま放っておけば――アベリアがあざみを殺したとしても、あざみがアベリアを殺したとしても、その次に殺されるのは泰助だ。
ならば、干渉するしかない。
稼ぐだけ時間を稼いで、その間に解決策を捻出するしかない。アベリアの言葉を信じるのであれば、あざみの死を確認した瞬間から、再び二十四時間の猶予が与えられる筈である。それだけ時間があれば、どうにかなるかもしれないと――そう考えてしまうのは些か楽観的だが、今の泰助にはそれで精一杯だった。
最悪、警察署に駆け込むという選択肢もあるだろう。こうなってしまった以上、寧ろ最善と言うべきかもしれない。なりふりかまってなど、いられない。
「アタシは同じ事を言うのが嫌いなんだよ」
例外は、無い。
考える意味など全く無かった。これほどまでに「全く」という言葉が相応しい状況というのも無いだろう。電卓で1と1を足して3以上の計算結果を求めているようなものである。そういうものだと決まりきっている以上、何をした所で――何を提案した所で、彼女のルールが曲がるような事は、無い。
かくなる上は、この二人が殺し合っている間に逃走を図る他ない。その殺し合いがいつまで続くのか分からないが――一瞬で終わるのかもしれないし、延々と続くのかもしれないが――始まってから逃げ出してしまえば、二人ともそう簡単に追い掛けるような真似は出来ない筈である。
そうと決まれば、泰助にはもう何も言う事は無かった。始めるならさっさと始めてしまえ――と、アベリアの背中を見遣る。
「……ああ」
しかし、何を思ったのか――何かを思い出したのか、臨戦態勢を崩した彼女は、自身の腕に巻かれている腕時計を見、気の抜けた声を上げた。
「そういえば、アタシの時計は時間を五分早めてるんだった。いつも五分前行動を心掛けてるからね。で……腕時計が示している時刻は午後の四時五分だけど、ここから五分巻き戻したら、今の時刻は四時丁度、か」
そんな馬鹿な――と、泰助は携帯電話を取り出した。そう思った通り、現在の時刻は四時丁度などでは無い。四時五分だった。
携帯電話の時計は意図的に設定しなければ、普通に使用している分には時間がずれる事など皆無である。だとすれば、疑うべきは彼女の時計――彼女の、言葉だろう。
例外は無いが――制限時間内であれば、例外も何もあったものでは無い。それはただの、仕事の依頼だ。
「……あまり誉められたものではありませんね。あなたみたいな人が私よりもキャリアが上だと思うと、悲しくなります」
悲しさなど微塵も無さそうな表情で、あざみは言う。
「だったら、当初の予定通りに殺せばいいだろう。でも、あんたを殺すのがアタシの仕事となった以上、アタシは全力であんたを潰すよ」
右手のけん玉を、あざみに対して突き付けるように前へ差し出す。ゆっくりと、緩慢な動きで。
「掛かって来なよ」
「行きません」と、アベリアの挑発的な言葉を短く一蹴し、あざみは左手に握っている黒い玉をひとつだけ頭上に放り投げた。
そこから先の展開は先刻と殆ど同じである。放り投げたそれを、左手に構えた羽子板で弾き飛ばし――間髪入れずにアベリアがけん玉で弾く。唯一違ったのは、けん玉で弾いた後、壁に反射した玉が泰助の方に目掛けて飛んでいき、足に掠るような形で後方へ消えていった。
背筋に寒気が走るのを実感とする。跳弾とはいえ、当たっていれば馬鹿にならない威力だった筈である。反応できない速度だった為に身じろぎひとつ出来なかったが、なまじ動いていたら直撃していたかもしれない。
あざみの羽子板を凝視してみるが、しかしどこまで観察してみても、その羽子板は何の変哲も無い羽子板にしか見えない。見えないだけであって、無論、アベリアのけん玉と同様に、なんらかの細工は施されてある筈である。
「そいつが気に入ってるみたいだけど」アベリアはけん玉で羽子板を指し示す。「それで玉を飛ばしてくる限り、あんたに勝機は無いよ。中距離から遠距離があんたの間合いみたいだけど、アタシに飛び道具の類は通用しない。そういう風に、訓練されてるから――」
言い終える前に、あざみは第二波――最初の攻撃から数えれば第四波となる攻撃を繰り出してきた。そうした所で、先程までそうされたように防がれるのが関の山だろうと思ったが、しかし、放り投げられた玉は一つでは無く、二つだった。
同時に弾き飛ばされた二つの玉が別々の軌道を描き、それぞれにアベリアの身体を貫かんと襲い掛かる。泰助からしてみれば、それは充分に絶望的な状況であるが、彼女は顔色ひとつ変えずに両手の手に構えた二つのけん玉を、内側から外側に向けて同時に振るった。
それぞれのけん玉で弾き返された黒い玉は、壁に反射した後に地面に転がり落ちる。足下で煙を立ち昇らせるそれを踏みつけながら、アベリアは溜め息を吐いた。
「人の話を最後まで聞かない奴は嫌いだ」
「一を聞いて十を知るというやつです」
ウェストポーチに手を伸ばしたあざみは、そこから更に玉を補給する。
「一どころか九あたりまで喋ってたよ」
「飛び道具の類は通用しない、ですか。するとあなたは近距離戦を専門としているという事でしょうか。それならば、中距離や遠距離の攻撃に対抗する術はあって然るべきでしょう。現に、今のところ私の攻撃は全て完封されてます」
尤も、そんな事はあまり関係ないんですけど――と、言いながら、あざみは黒い玉を放り投げる。今度は更に数が増え、三つ。
「あなたのけん玉で、三発の玉を同時に防げますか?」
降り下ろされた羽子板は、三つの玉を同時に弾き飛ばす――瞬間、アベリアは左手に持つけん玉を降り上げる。けん先に刺さっている赤い玉を前方に飛ばし、三つの玉の内の一つに衝突させた。
しかし、黒い玉の弾速が(泰助の)目で追えない速度を誇る以上、その威力は図り知れない。赤い玉を衝突させる事は出来たが、今までのように弾き返すような真似は出来なかった。尤も、玉の弾道を反らすだけであればそれだけで充分であり、残り二つの赤い玉を両手のけん玉でそれぞれ弾いた彼女の頭上へ飛んでいき、泰助の頭上を通り過ぎた。
今の攻撃で所持している玉を全て打ち尽くしたのか、あざみは次の玉を補給すべくウエストポーチに手を伸ばしたが、終始その場から動こうとしなかったアベリアが、赤い玉を回収しながら地面を蹴った。
「アタシを相手にするには、あんたの動作はあまりにも隙がありすぎるんだよ」
今の今まで彼女が動かなかったのは、動けなかったからではなく、動こうと思えば――間合いを詰めようと思えばいつでも詰められたからであり、あざみがウエストポーチから玉を取り出す動作を終える前に、彼女は自分の射程圏内にまで距離を詰める。
あざみの得物が銃火器の類であれば、こうもやすやすと間合いを詰めれられるような事は無かっただろう。否、飛び道具に対抗する術があると豪語しているくらいなのだから、例え銃火器が相手であったとしても、結果は変わらなかったかもしれない。
銃火器であれば、もっと早くに決着がついていたかもしれない。
降り上げられた左手のけん玉があざみの頭部を狙う。けん先による刺突では無く、皿の部分による打撃だが――その一撃は羽子板によって防御された。武器を盾のように扱うという芸当は羽子板ならではあるが、それでアベリアの攻撃を全て防げた訳では無い。間髪入れずにもう片方――右手のけん玉が降り下ろされた。
頭部への直撃を避けるのであれば、一撃そのものを回避するか、左腕を犠牲にして防御するか、次の一撃を受けるのを覚悟の上で、羽子板で防御するかで――あざみはウエストポーチに伸ばしていた手を戻してきた。ただし、あざみに左腕を犠牲にするつもりは毛頭ないらしかった。
黒い玉の代わりにポーチから取り出された二本目の羽子板が、一撃目と同様にけん玉の打撃を防ぐ。それを見、「へぇ」と、アベリアは感心したような声を上げた。
対するあざみは無言で――無表情を貫いている。間合いからして、あざみの方が不利な状況の筈ではあるのだが、それでも表情ひとつ変わらない。
膠着状態に陥っているアベリアを見、一体何をしているんだ――と、泰助は微かな苛立ちを覚える。黒い玉を弾き飛ばせなければ、今のあざみは無力にも等しい筈である。もたもたしてないで早く押し切ってしまえばいい。そうでなければ、こうして逃げずにいる意味が無い――。
泰助にそんな事を思われるまでも無く、アベリアはこのまま押し切ろうと考えていた。そう考えていて――そうしようとして、この降着状態である。単純な力比べで劣る筈は無いと、そう踏んでいた。
確かに劣ってはいなかったが――しかし、勝ってもいなかった。否、あざみが全力を出していないのだとしたら、劣っているという可能性すら有り得る。専門としない間合いからの攻撃に対抗する術を有するのは、あざみも同様だという事だろう。それは彼女にとって想定内の事ではあったのだが、パワーについては完全に想定外だった。
さて、ここからどうしたものかと考えた直後に、あざみが不意に頬を膨らませた。身内を侮辱されない限り表情を微塵も変化させない少女が、こんなタイミングでふてくされる理由などあるのだろうか。
「いや、無いね……!」何らかの行動を起こす前触れだ――というアベリアの読みは当たり、あざみは口から「何か」を飛ばしてきた。
その「何か」は今まで羽子板で弾き飛ばしてきた黒い玉で、口から飛ばされた程度では、直撃した所で傷ひとつ負わないのだが――顔に目掛けて飛ばされたとなれば、アベリアは反射的に回避してしまう。
「大道芸人か、あんたは――」
言いながら、玉を回避すべく首を傾げたその瞬間を――パワーバランスが僅かに崩れたその瞬間を見計らって、あざみは両の羽子板でけん玉を払いのけた。アベリアにとってそれは失態だったが、しかし距離を取らなければまともに攻撃できないあざみが相手であれば、体勢を立て直すのは容易である。
ただし、羽子板の先端部分から刃が飛び出してきたとなれば、話は別だった。板の部分の長さとほぼ同等の、鏃のような形状の刃が羽子板の姿を倍近くまで伸ばし、それは最早立派なショートソードと化している。形状は不格好だが、二本の剣は彼女の意表を突くには充分だった。
「面白いギミックじゃあないか。アタシのけん玉にもそういうのが欲しいね」と言うアベリアの表情は微塵も面白そうでは無い。
右手の剣による刺突を中皿の部分で払い、続けざまに左手の剣が襲い掛かってくる前に、アベリアは一歩後退した。間合いを詰められた場合の対策としての剣だと、最初こそは思ったが――そうでないとしたら。
その剣が本来の戦闘スタイルであるのだとすれば、アベリアにとってはとんでもない誤算だった。しかし、距離を取った所で、先刻と同様に遠距離攻撃を繰り出されるだけだろう。後ろに退いたその行動こそが、最大の誤算である。
後退したそのタイミングを見計らったかのように、あざみが再び頬を膨らませた。その行動が何を意味するのか、今となっては考えるまでも無いが、しかし距離がある今になって口から黒い玉を吐き出された所で、それは牽制にすらならない。
だが、それは油断する理由にはならない。口から出してくる物が黒い玉であるという保証も無く、故にアベリアは警戒したのだが、あざみが飛ばしてきたのは果たして黒い玉だった。前方では無く、真上に向かって。
何の意味があるんだと泰助は思ったが、同時に上体を捻りながら右手の剣を振り上げたあざみの行動を見れば、導き出せる答えは一つしか存在しない。
一体、身体の中にどれだけの玉を蓄えているんだ――などと、暢気な事を考える余裕など与えられなかった。零距離にも等しい位置から弾き飛ばされた黒い玉が、アベリアの左足の大腿部を貫く。青いジャージの左足の部分が点々と血に染まり、紫色に変色していった。
「…………!」
表情こそ苦痛で歪みはしたが、声を上げる事も、体勢を崩す事も無かった――崩すどころか、彼女は何の躊躇も無しに一歩踏み込み、広げた間合いを自ら詰めるという行動を取った。足を負傷している状態で下手に後退し続けてしまえば、たちまちに全身を黒い玉に貫かれてしまうだろう。だとすれば、前進する他になく――それよりも何よりも、羽子板を振り下ろした瞬間のあざみは、完全に無防備だった。
咄嗟に防御に転じようとして構え掛けた羽子板を、有無を言わせずに左のけん玉で叩き落とした。間髪入れずに右のけん玉を逆手に持ち替えながら、けん先に刺さっている赤い玉をその場に捨てる。降り上げたそれのけん先が倍以上の長さに変形した瞬間、あざみの頸動脈に目掛けて振り下ろされ――、
けん先が首の皮に触れる寸前で、止まった。
「ふ――う……」
足を貫かれても声ひとつとして上げなかったアベリアが、明らかに怯んだような苦悶を口から吐き出し――片膝を地面に突いてしまった。相手にひれ伏すようなその様――その無様な惨状は、泰助の背筋を凍り付かせるには充分すぎた。アベリアがあざみを殺す分には大いに結構だが、その逆だけは絶対に避けてもらわなければならない。
しかし、だからといって、助太刀するという発想は微塵も無かった。生きている次元からして全く違うと言っても過言では無い二人の戦いに干渉するという発想事態が、そもそも有り得ない。何かの間違いで干渉したとしても、何をすればいいのか見当も付かないし、何かすれば、間違いなくその瞬間に殺されるのが関の山だろう。
結果、アベリアは蹴り飛ばされた。容赦の無い一撃を腹部に浴びせかけられ、あざみよりも大きい体躯が大袈裟に宙を待い、後方へ飛んでいく。背中から地面に身を打ち付けた彼女は微かに呻き声を上げ、それから身を起こす。その動作はどこか緩慢でぎこちなく、違和感があった。
身体を起こすまでの間、あざみは叩き落とされた羽子板を回収しただけで、追撃は加えてこなかった。攻撃しようと思えば――とどめを刺そうと思えばいつでもとどめを刺せた筈だというのに、それをしなかった。更に言うなれば、アベリアが膝を突いた段階で一刺し出来た筈である。
要するに、舐められている――。
「……あの黒い玉に、毒でも塗っていたのか?」
気が付けばアベリアは肩で呼吸しており、口から出てきた言葉に先程までの勢いは無かった。あざみを睨め付ける剣幕には鋭さが増していたが、それは単に余裕が無くなっただけだろう。
その原因は毒にあった――。彼女の言葉を聞いて、泰助は認めたくないながらに得心した。それならば、動きが急激に鈍くなったのも理解できる。
しかし、あざみは「違います」と、かぶりを振った。
「玉に毒など塗っていたら、そもそも飲み込んでおく事など出来ません」
人間離れしているあざみの事である。毒に対する耐性があっても何ら不思議には思えないが、本人がそう言うのであれば、そうなのだろう。
「私の玉は、強い衝撃を加えた瞬間から時間の経過と共に消滅していくのですが……その理由が、あなたに分かりますか?」
「……?」
脈絡の無いその質問は、アベリアの眉根に皺を刻ませた。微かに辺りを見回してみるが、しかし羽子板に弾かれて飛ばされた黒い玉は、全て白い煙を立ち昇らせながら、例外なく消滅してしまっていた。その煙すらも今は消えており、争った形跡が何一つ残っていない状況となっている。
無言のアベリアを見、あざみは羽子板から伸びている二本の刃をその板の内に納めた。納めたというよりも、勝手に引っ込んでいったという方が表現としては正しいのかもしれない。そうしていると、端から見ればあざみは玩具を持っているだけの少女で、アベリアは勝手に負傷して苦しんでいるだけに見えてしまう。
「……証拠を残さないっていうのは、便利そうだけどね」
アタシは飛び道具なんて面倒な物は使いたくないけど――と、彼女は続けた。
「御名答ですね。流石は冷血のアベリア。この状況下に於いても冷静に状況を分析、判断できるようですね」
「そんな異名、初めて聞いたよ」
冷血と言うなら、あんたの方がよっぽど冷血だろうよ、というアベリアの言葉には、泰助も概ね賛成である。
「ですが……」ウエストポーチに回されたあざみの左手が再び姿を覗かせた時、その手に握られていた羽子板はポーチの中に納められていた。代わりに、何かが――黒い玉が、手中に納められている。「あなたの回答では、五十点です」
真上に放り投げられた後に弾き飛ばされた黒い玉は、案の定アベリアのけん玉によって阻止されたが――しかし、その動きに先程までの余裕は見受けられなかった。そうする事だけで精一杯で、それ以外の行動は出来ないと――泰助の目にはそう映った。実際、彼女はそれ以上動こうとはせず、肩を大きく上下させているのみである。
けん玉が弾いた黒い玉は壁に反射し、地面を転がった末にアベリアの足に当たって制止した。煙を立ち昇らせるそれを一瞥し、彼女はあざみに視線を戻す。
「……一問百点のテストで五十点貰えるんなら、アタシは満足だよ」
「そうですか。それでは回答をお教えしましょう」
言って、あざみは黒い玉を投げた。羽子板で弾き飛ばしたのではなく、ごくごく普通に、投げ飛ばした。放物線を描いて飛んでいくそれが驚異になる筈もなく、アベリアの手前に落下しただけで終わった。
同様に煙を発生させていくそれを拾い上げたアベリアは、それを前方へ投げ飛ばした。身に力が入らないのか、黒い玉はすぐに地面を転がっていったが――あざみの足下まで到達するや否や、蹴り飛ばされてしまった。再び彼女の元に戻ってきてしまったが、それをまた投げるつもりは無いらしい。
「あんたの回答を……聞くまでもないね」
毒ガスだろう? というアベリアの言葉に、あざみ首肯した。
「玉を消滅させるだけでは捻りがありませんから、もしも私の攻撃が通用しなかった場合――あなたみたいな人を相手取る場合を想定して、消滅させる際に毒の煙を発生させるようにしてあります。一個や二個程度では無害ですが、多くの量を吸えば……まあ、その威力は身をもって確認済みですね」
攻撃が通用しなくとも、そんなのはあまり関係無い――。
あざみの言葉を思い出し、泰助は息を飲んだ。関係が無い所か、アベリアは自分で自分の首を絞めていたようなものである。足下に転がってきた黒い玉を蹴り飛ばしたのは、自分で発生させたガスを吸わない為であり――そう考えると、今までその場から全く動こうとしなかった理由も、自ずと理解できる。
泰助の身体に異常はまだ現れていない――至って正常である。アベリアから少し距離を取っているからという理由だとしても、近くに居る以上、少なからず吸ってしまっている恐れがある。いつ倒れてもおかしくないだろう。
「でも、安心してください。あなたが吸い込んでいる毒に、殺傷能力は殆どありません。全身麻酔の類とでも思っていただいて結構です。随分と頑張っていらっしゃいますが、そろそろ限界じゃないんですか? そうして身体を起こしているだけでも辛い筈です」
「……ああ……そうだね」
あざみの言葉を認めたアベリアは、崩れるようにして俯せに倒れてしまった。その拍子で、赤い玉を失った右手のけん玉が手から放れ、地面に投げ出される。
「毒でやられてたら……死んでも死にきれなかったけど……殺傷能力が、無いって言うんなら……まあ、いいよ」
果たして何がいいのが全く分からなかったが、彼女はついに虚勢すら張らなくなってしまった。力を失った声は、今までの彼女とはまるで別人のように弱々しい。このままでは全身を貫かれて殺されるのは明白であり――だからこそ、全てを諦めたのかもしれない。
ポーチから更に玉を補給したあざみがそれを放り投げようとしたその時、アベリアは微かに身じろぎし――顔を前方へ向けた。
「せっかくだから、さ。今度は……アタシが問題を出しても、いいかい」
「……その問題を、あなたの遺言としましょう」
こんな時に何を言い出すのかと思ったが、しかし一拍の間を置いて、あざみは挙げ掛けた手を降ろした。いつでも止めを刺せるこの状況下で敢えてそうしないという事は、余程の余裕があるのだろうか。
恩に着るね――と呟いてから、アベリアは続けた。
「アタシのけん玉には……どうして糸が付いてないか、分かるかい?」
あざみは自分の足下に転がっている赤い玉を見遣る。泰助も目を凝らして何となしにそれを見てみるが、しかしどんなに注意深く見た所で、それは赤い玉以外の何物でもなかった。一度だけ防御の為に使用していた所を鑑みるに、それなりの耐久力を誇るのかもしれないが――それはアベリアの問題に対する回答にはならないだろう。
泰助が延々と悩んでいる間に、あざみは口を開いた。
「いざという時に、振り回せなくなるという事態を防ぐ為ですか?」
五十点だね――と、アベリアはかぶりを振ろうとしたらしいが、首が上手く動かなかったらしい。微かに身じろぎした程度で終わってしまった。
「そいつはさ。爆弾なんだよ」
ドン――と、その赤い玉の大きさからは想像も付かない爆音が耳を劈き、視界を塗り潰さんばかりの閃光と爆発があざみを飲み込んでいく。泰助は咄嗟に両の腕で自分の顔を庇うようにしながら目を閉じたが、爆発が起こってからでは殆ど意味を成さなかった。
爆風に飛ばされた破片のような物がひとつ、ふたつと泰助の身体を打っていく。それに混ざるようにして、肉の焼けるような臭いが鼻腔を突き、それがあざみの焼けた臭いだと自覚した時には胃の中に入っている物が逆流しそうな強い不快感を覚えた。
爆音にやられた耳は次第に元に戻っていく。爆音が発生したのは最初の一瞬のみで、後に続くのは何も無い――日常の静けさが戻っていた。いつまでも視界を防いでいる訳にはいかず、泰助は両の腕の間から恐る恐る前を窺い――息を飲んだ。
あざみの姿は見当たらない。少女が居た場所には、身に付けていたと思われる衣類やポーチの破片が点々と散らばっており、爆発の威力を物語っている。その破片の中に混ざって、アベリアを散々痛めつけてきた一対の羽子板が転がっていた。あの大爆発に巻き込まれても損傷が皆無なのは驚異的な耐久性を証明しているが、その所有者の肉体が耐えられないのであれば――道具は道具としての意味を成さない。
そして、アベリアは先程と同じ位置に、同じ体勢で倒れ伏したままだった。塵を被って少しばかり汚れているのが、先刻と唯一違う点であったが、どうやら無事で済んだらしい。
尤も、今の彼女の状態を無事と言うのには無理があるだろうけれど。
意識の有無を確認すべくアベリアの方へ一歩踏み出したが、二歩目を踏み出そうとする足は止まってしまった。あざみは跡形も無く消し飛んだが――少女が残していった毒は、未だに滞留している恐れがある。気付かずにそれを吸い込み、彼女の二の舞となってしまったとしたら、これ以上の醜態は無いだろう。
――いっその事、逃げてしまおうか。
よくよく考えてみれば、泰助にアベリアの安否を確認する義理は無いのである。あざみから身を守られこそはしたが、それは泰助がそう依頼したからで――依頼を完遂しただけに過ぎない。彼女が死のうが死ぬまいが、関係の無い話だ。寧ろ、衰弱しているというのであれば、そのまま死んでくれた方が都合がいい。
悠長に考えている余裕は無かった。ひと気が全く無い路地とはいえ、先程の爆発音を耳にした者が不審がって様子を窺いに来る恐れは十二分にあるだろう。もしもこの状況を目撃されれば、真っ先に泰助が疑われるのは想像に難くない。
ならば躊躇している意味は無い。踏み出した足を戻し、踵を返そうとして――意味も無く躊躇した。
彼女が本当に事切れているのであれば、このまま逃げてしまっても何の問題も無い。しかし――あざみの言葉を信じるのであれば、毒を吸引した程度では死なない筈である。片足を負傷しているが――切断されたのならまだしも、玉が貫通した程度では致命傷になり得ないだろう。
アベリアは生きている。泰助が警察に捕まれば、それは全ての終わりを意味するが――彼女が捕まった場合でも同様の事態を招くだろう。警察に口を割るくらいであれば、自ら舌を噛み切るくらいの事をするかもしれないが、その確証が何も無い以上、やはり放置しておくのは危険すぎる。
ならば、不本意ではあるが、背負ってでも――強引に引きずってでも、この場から連れ出さなければならない。滞留している恐れのある毒が気に掛かるが、今度こそ躊躇っている余裕は無い。
「……おい」
歩み寄りながら、倒れているアベリアに声を掛けてみるが、反応は全く無い。聞こえなかったのかもしれないと思って、再び――今度は気持ち声を大にして同じ言葉を投げ掛けてみたが、結果は変わらなかった。
事切れている訳では無いというのは、側まで近付いてみた彼女の肩が微かに上下しているを見、確認できた。全身麻酔が意識を奪っているのだと――そう判断して差し支え無いだろう。ならば少しばかり強引に運んでも問題は無いと、そんな事を考えながらアベリアの傍らで片膝を突く。
彼女の身体を起こそうとした泰助は――ふと、その側に落ちているけん玉が目に留まった。赤い玉を失ったそれはけん先が本来の倍以上の長さに達しており、先端が鋭く尖っている。千枚通しやアイスピックを連想させるそれをまともに受ければ、どこであれ確実に無事では済まされないだろう。
そのような凶器が、手を伸ばせばすぐ届く所に落ちている。これを使えば、あるいは――。
そこまで考えて、強くかぶりを振った。それは違う、そのような真似だけは断固として避けなければならない。しかし、ここで彼女を助けて……、
「こいつを助けて、その後どうしようっていうんだ……」
アベリアが意識を取り戻せば、つい数分前と同じ様に次の仕事の話を持ち出されるだろう。今回はあざみというイレギュラーによって奇跡的に救われた――命を狙われたが故に命が助かったのは皮肉な話だが、こんな都合のいい展開が明日も起こる可能性など、皆無だろう。
――殺されるくらいなら。
伸ばした右の手がけん玉を掴む。
――そうだ。これは正当防衛だ。殺されると分かっている相手なら、殺した所で何の問題も無い。
掴んだけん玉を、ゆっくりと振り上げる。不思議と手は震えておらず、何となくおかしかった。
――平然と殺人をやってのける輩が一人死ねば、それは世の中にとってプラスになるくらいだ。
アベリアの首に狙いを定める。頸動脈がどこにあるのか分からないが――それでも、致命的な傷を負わせるのは難しくないだろう。
――だから、死んでくれ。
叫び声を上げたい衝動を必死で堪えようとしたが、堪える必要は無かった――上げるべき声を発する喉が、けん玉のけん先で貫かれてしまったら、それは当然の結果と言えた。
「…………」
声を発せない代わりに、泰助はアベリアを睨む。刺そうとしたすんでのところで身体を仰向けに起こし、振り向き様にもう片方のけん玉を――赤い玉を捨てながら投げ飛ばしてきたアベリアを睨む。こんな馬鹿な事があってなるものか、どこにそんな力が残っていたのかと――アベリアを睨む。
「仕事だから……悪く思わない事だね」
尤も、どうせすぐに何も考えられなくなるけど――。
今にも消え入りそうな彼女のか細い声が、泰助が最期に耳にした言葉となった。意識そのものは途切れるまでに多少の時間を要したが、彼女はそれ以上の言葉を口にしなかった。
人型の肉塊と化していく泰助は、掴んだけん玉を取り落としながら前方に倒れ――アベリアの腹部に上体がのし掛かるような形になった。その際の衝撃で微かに呻いた彼女は、どうにかしてそれを退かそうとしたが、言うことの利かない身体ではどうにか出来なかった。先程の反撃で、力を使い果たしたらしい。
嫌な体温をジャージ越しに感じながら、さてどうしたものかと――考えるだけ無駄だと思いながら、それでも他にやる事が無いので考えていると、視界の片隅にふと人影が映り込んだ。
ついに目撃されたか。こいつが余計な気さえ起こさなきゃ、まだどうにかなったのかもしれないのに――云々。心中で毒を吐きながら、殺人犯を捕まえて誉め称えられるであろうこいつの顔でも拝んでおこうかと、割と暢気な事を考える。しかし、首を擡げる事が出来ない以上、相手が完全に視界に収まってくれるのを待ってくれるしかない。
「あーあー。どうせなら、貰うべきお金を貰ってから殺せばよかったのに。もったいない事をしてくれたなあ」
残念そうな声を上げながらアベリアの顔を覗き込んできた相手を見、彼女は眉根に縦皺を刻んだ。上下に着込んでいる黒いスーツだけ見れば、まだサラリーマンに見えなくもないのだが、黄色に染まっている短髪と双眸を覆っている黒いサングラスのお陰で、どう見ても「その筋の人」にしか見えない男である。
尤も、彼女の顔を見ながら楽しそうな笑みを浮かべているその男――泰助に契約の話を持ち掛けた石南花は、その筋の人と言っても差し支えない仕事をしているのだが。
「分かった分かった。今退かしてあげるから、そう睨まないでもいいだろう」
ぐい――と、事切れている泰助の襟を掴み、石南花は乱暴に身体を持ち上げる。仰向けに倒したその肉塊を貫通しているけん玉を引き抜くと同時に、けん先の長さが元に戻った。
「……仕方ないだろ。アタシを殺そうとしている奴を、殺せって……それが、こいつの依頼だったんだから」
自分で仕掛けた罠に自分で引っ掛かるようなものである。尤も、その依頼が無かった所で、アベリアに殺されるつもりは毛頭無かっただろう。
「相変わらず融通が利かないねえ。そこんとこ、もうちょっと何とかしてくれれば、もっとまともな稼ぎになるんだけどさあ」
これでまた暫く貧乏生活が続いちゃうよ――と、溜め息混じりに言いながら、泰助が取り落としたもう一本のけん玉も回収し、それぞれをズボンのポケットに納める。そうしてから、石南花は先程まであざみが存在していた場所を見遣った。
「しかしねえ……柳の婆さんのとこの娘に狙われるとは、お前も運が悪いなあ。まあ、それを倒しちまう辺り、やっぱお前は俺の自慢の娘だよ」
それは石南花の誉め言葉だが、それを受けても彼女の不機嫌そうな表情に変化は微塵も無かった。やれやれ――と言わんばかりの苦笑を浮かべて、彼は自由の利かないアベリアの身体を起こしてから背中に負ぶった。人ひとり背負っているとは思えない程に軽々しく立ち上がり、それから羽子板が落ちている場所へと歩を進める。
「こいつは戦利品として頂いておこうか。ひょっとすれば、婆さんとの交渉に利用できるかもしれないからねえ。無理だったら、適当に誰かに売り付けるのも悪くないし……」
「……ねえ」
拾い上げた二本の羽子板をスーツの内側に納める石南花の耳元で、アベリアが静かに口を開く。ただの呼吸音と聞き間違えそうな囁きを耳にして「うん?」と返した彼に対し、数拍の間を置いてから彼女は続けた。
「プリンが食べたい」
「プリン? あー、牛乳と卵と砂糖を混ぜて加熱したやつね。ガキの頃にさ、冷蔵庫に保管しておいた筈の僕のプリンが家族の誰かに食べられてて、その時の僕の怒りっぷりは、何というか、酷かったね。あれは醜かった。食い物の恨みは恐ろしいとはよく言ったものだけど――」
「プリンが食べたい」
「……うん。気持ちは分かるよ? 何かを食べたいという欲求は誰にでもあるからね。僕にだってある。だけどさ、よく考えてみてくれ。いや、自分で自分の生活費を稼いでいる君なら考えなくても分かると思うんだけど、今現在に於ける僕らの経済状況は非常によろしくなくてね。プリンなんて贅沢極まり無いものを買おうものなら、余裕で生活費が底を突いて――」
「食わせろ」「…………」
囁くような声量はそのままに、アベリアの声は僅かに凄みを増す。それで石南花が怯える訳でもなく、ただただ失笑するばかりだった。
「分かったよ。一応――というか、君の仕事は一通り終わったわけだからね。その足が治るまで、どうせ仕事も出来ない訳だし、生活費が底を突くのは確定か……」
また車上荒らしでもしようかねえ――等と、他愛も無い非道な会話を交わしながら、少女を背負った男は路地から姿を消していった。
そこにただひとり取り残された泰助の亡骸が通行人に発見されるのは、それから数分後となる。
当局は現場の状況、また被害者の井々野泰助が先日に殺害された河田と橘と同じ学校の人間である事から、同一犯による犯行とみて捜査を行うが、新たな被害者である泰助が今回の事件を巻き起こした真犯人であり――泰助の殺意となって三人を殺害した張本人がアベリアという少女であるという事実は、いよいよ明らかになる事は無かった。
泰助のクラスメイトは、彼の死を自殺と受け止め、それから気に留める者は誰ひとりとして居なくなった。自殺を図ったという根拠や証拠は何も無いが――そう処理してしまう方が確実に楽であり、真犯人が死んだ以上は新たな被害者は出ない。それで何の不都合も問題も無かった。
少年が望んだ平穏な日常は、少年の死によってもたらされる。それは皮肉では無く、必然であり――自業自得。道徳に於ける基本中の基本を疎かにした、当然の結果だったと――死んだ人間は、気付けない。