第37話-1 ゲオルグの生い立ち
ゲオルグがダミッシュ姓になったのが九歳の時であったならば、この屋敷で暮らし始めたのも九歳の時であった。
両親は再婚だ。
厳密にいうと、母は初婚、父は再婚である。
かつて両親が若かった頃、二人は結婚を約束し合う仲だった。
父のような冷厳な人間も恋に落ちるのかと可笑しくなってしまうが、たしかに二人は愛し合っていた。
しかしあの忌々しい女のせいで、両親はすぐには結婚が果たせなかった。
忌々しい女とは、イザベラ、つまりミハエルの実母のことである。
ゲオルグの母クリスティーネは大人しい人だ。
母はある一面、父のせいで不遇な立場に追いやられたとも言えるのに、父を責めることもなく尽くしている。
母のことを人が好いと思いながらも、母が今の暮らしを幸せに思っているのならゲオルグだって文句はない。
父は冷酷な人だが、家族への愛情はちゃんと持ち合わせている人だ。
ゲオルグはダミッシュ家に引っ越して初めて、父が事業のためにほとんど家を空けていることを知った。
けれどもゲオルグは、父が母を愛し、自分たちを愛していることを知っている。
幼い時分には父を恨んだこともあった。
けれども最終的にはこのように家族として収まったのだから、父の自分たちへの愛は本物だったと言えよう。
そして、父の事業に対する熱意を心底尊敬していた。
自分も必ずや父に恥じない人材になり、家督もろとも事業を継ぐのだ。
そう、いずれこの家の頂点は、自分が手に入れる。
間違ってもミハエルの手に渡すことなど、あってはならない。
ゲオルグは九歳でダミッシュの屋敷に移り住むまで、今とは違う町の外れで借り家住まいをしていた。
借り家は父が用意してくれたものだ。
家は大きくないかわりにみすぼらしくもなく、母子三人の小さな暮らしをしていた。
はたして父が、イザベラとミハエルに、どのようにゲオルグたちのことを説明していたのか知らない。
父はゲオルグに、一言たりとも異母兄のことについて喋らなかった。
父なりにゲオルグたちに気を遣っていたのかもしれない。
もしくは、後ろめたさもあったのかもしれない。
父は、たびたび充分な生活費を持ってゲオルグたちの元を訪ねてきた。
そして夕餐の時間を一緒に過ごしていく。
無駄なことを一切喋らず人を威圧する空気を身にまとった鷲のような男が、鄙びた住居で所狭しと食事をとる姿は、いささか滑稽に見えた。
町の人たちはクリスティーネ母子を陰で笑い種にした。
母が日陰の身であることは、あの小さな町では隅から隅まで知れ渡っていたのだ。
教会を中心に形成されたあの町は、その住人のほとんどが敬虔で慎ましやかな信者だった。
皆、表面上では親切そうにしていながら、寄合で、店先で、教会で、ヒソヒソと後ろ指をさす。
彼らは真面目であるが故に、ゲオルグたちを非難し、嗤った。
ゲオルグは気づかないふりをしながら、真っ暗い気持ちで彼らの傍を通りすぎた。
子どもの世界はもっと残酷である。
ゲオルグは当時通っていた学校で級友たちからあからさまに嘲笑われ、容赦なくいじめられた。
その頃の生活は鬱屈としていて、思い出すのも嫌なほどだ。
母がこっそり涙を流していたことを知っている。
あの頃は、ゲオルグたちにとって最も苦難な時期だった。
あの母子さえいなければ、今頃大きな屋敷で穏当な生活を送っていたはずなのに。
ゲオルグの中で、イザベラとミハエルに対する憎しみが募った。
本来自分たちが受け取るはずだった権利を、彼らがくすねたのだ。
ゲオルグたちの苦しみなど微塵も知らず、のうのうと安らかな暮らしを享受している。
それまでゲオグルは、同い年の異母兄ミハエルに一度たりとも出会ったことがなかった。
会ったことがない故に、ミハエルのことを死ぬほど嫌な奴だろうと思った。
自分の立場の優位性を鼻にかけている奴なのだろう、と。
(いつか復讐してやる)
腹の中で沸々とそんな思いが煮えたぎる。異母兄には、これまで自分が味わった、いや、それ以上の、この世におけるありとあらゆる苦悩を味合わせてやりたい。
様々な巡り合わせがゲオルグ母子に微笑んだ時、ついに父と母が結婚することになった。
両親が正式に夫婦になった年、ゲオルグは九歳、弟のフランツは七歳になっていた。
ゲオルグはこの日、初めてダミッシュ邸の敷地に足を踏み入れた。
四角く切り立った鉄格子の壮厳な門は、父そのものに見えた。
当の父は、この日は不在だという。
晴れて一緒に暮らせることになったのに、と思ったが、事業で遠方まで出かけてしばらく帰って来られないのだという。
「一日も早くダミッシュの屋敷に私たちを住まわせたかったんですって。それに、あなたのギムナジウムの入学の段取りもありますからね」
母は浮足立っていた。
屋敷にたどり着くまでに、母から、イザベラは自ら屋敷を出て行ったのだと聞かされた。
ゲオルグは酷く冷めていた。
あの女も今更出て行くくらいなら、最初から父と一緒にならなければ良かったのだ。
同時に、今頃傷ついているであろう異母兄のことを、いい気味だと思った。
屋敷に取り残された異母兄と一緒に暮らすのは鬱陶しさが付き纏うが、今度はこちらが優位に立つ番だ。
しかし、異母兄に初めて会ったとき、そんな思いは一瞬にして吹き飛んだ。
屋敷の玄関に入ったとき、ゲオルグは思わず息を呑んだ。
半分だけ血を分かつ兄弟。それは、神々しいほどに美しい少年だった。
彼は、正面玄関の小さな広間で数人の使用人たちに囲まれて立っていた。
肌は陶器のようになめらかで、やわらかな髪が輪郭をなぞり、花びらのような唇は慎ましやかに閉じられている。
身にまとった清潔な衣服にはシワひとつなく、足元の靴は丁寧に磨きこまれている。
清楚な出で立ちは、いかにも礼儀正しさと聡明さが見て取れた。
玄関広間の花瓶に生けられた瑞々しい花々と相まって、彼は立っているだけで華やかである。
美しく中性的な容姿は、両性具有の神を具現したかのように思えた。
ゲオルグは異母兄の美しさに圧倒されるあまり、自分がしばらく呼吸を忘れていることに気づかなかった。
ミハエルはゲオルグたちに歩み寄り、行儀良く挨拶したかと思うと、ためらいがちに右手を差し出した。
彼は顔に、控えめな笑みを浮かべている。
ゲオルグがふとミハエルの手元に視線を見下ろすと、握手のために呈されたその手は、かすかに震えていた。
(…………………)
ゲオルグの頭の中に、ミハエルのことを、内気なのだろうか、とか、緊張しているのだろうか、とか、様々な憶測が駆け巡っていった。
少なくとも目の前の彼は、懸命にゲオルグたちを受け入れようとしているのはないかと思われた。
(コイツも傷ついているはずなのに……)
先ほどまで異母兄の境遇をいい気味だと思っていたのに、そんな思いは掻き消されていた。
(ふ、ふん。仲良くしてやっても良い)
ミハエルのすぐ傍にいた、エミリアという子守が控えめに微笑む。
「ミハエル坊ちゃんはずっと一人ぼっちでしたから、ゲオルグ様たちと家族になれて嬉しいんですよ」
それを聞いて、ミハエルのことを随分とお人好しだと思わなかったわけでもない。
自分たちがミハエルの存在に苦しんできだように、自分たちの存在も少なからずミハエルのことを苦しめてきたはずだからだ。
しかし、ミハエルが自分たちのことを受け入れようとしていることがエミリアの言葉によって明確になり、そこはかとなく嬉しい気持ちになった。




