第19話 暗鬱
ミハエルは粗末な寝床に潜りこんで、日中あったことを思い出していた。
一日が終わり、今まさに眠りに就こうとしているところだ。
暖炉では、熾火が小さく燃えている。
この日もアレクサンダーに圧される形で一緒に小屋まで帰ってくるはめになった。
街路で散々アレクサンダーに悪態をついたはずなのに、気がつくと二人でテーブルの上に教科書を並べていた。
アレクサンダーは課題を区切りの良いところまで済ませたかと思うと、また差し入れを置いて帰っていった。
彼と馴れ合わないようにする計画は、今のところあまり上手くいっていない。
人間関係を築くのに全く物怖じをしない彼に興味を持たれてしまったのが、そもそも運の尽きだったのだ。
くたびれた毛布にくるまりながら、ミハエルは考える。
(この際、友人として普通に付き合えばいいのではないか……?)
何も無理に突き放したりしなくても、自身にまつわる秘密をうまく隠し通せば良いだけの話なのではないのか。
(教室では困るけど、ここでなら……)
おそらくアレクサンダーは、この部屋で見聞きしたことを他人に口外していない。
(……でも、僕の秘密を勘ぐられるようなことがあったら?)
秘密がバレることは、即ちミハエルにとって社会的な死を意味する。
ミハエルは、母によって背負わされたこの秘密を、一生をかけて隠し通さねばならない。
(必死に築き上げてきたものが、一瞬にして崩れ去るようなことになったら……)
ただでさえ小屋の外では神経を張り巡らせ緊張しながら過ごしているというのに、個人的な区域にまで踏み込まれてしまうとなると気が気ではない。
この小屋は牢獄のようであるが、その一方でミハエルを他人の視線から守ってくれる聖域でもある。
ミハエルは、ギムナジウムでのアレクサンダーと、それを取り囲む級友たちの姿を思い浮かべた。
級友たちの反応を見るにつけ、一度でもアレクサンダーの人柄にあてられたら抜け出せないだろう。
(馴れ合っては、いけない)
(それなのに)
つっけんどんに接するミハエルにおかまいなしに、アレクサンダーは二人の間の垣根を取り払おうとしてくる。
ミハエルは、強引に距離を縮めてくるアレクサンダーが怖かった。
正しくは、そんな彼に気を許した結果、人の温かさを知って独りぼっちに戻れなくなるのが怖かった。
ミハエルは布団の一層奥深くにもぐりこんだ。
(これ以上アレクサンダーに絡め取られないように、気を引き締めなければ)
ただ、それよりも前に、アレクサンダーと友情を築こうとしたところでゲオルグが邪魔をしに来ることだろう。
おそらくゲオルグは、アレクサンダーがこの場所へ出入りしていることを、まだ把握していない。
知っていれば、とっくのとうに仲を引き裂きに来ているはずだ。
ミハエルの脳裏に、先日のことが恐ろしくも蘇る。
―――……ゲオルグが立ち去った後、寒さの中でしばらくうずくまっていたミハエルは、ヨロヨロと立ち上がった。
力の入らない手で服の汚れを払いのけ、小屋に戻る。
暖炉には、まるでミハエルを慰めるために待ち構えていたかのように煌々と炎が燃えている。
書机の上に、ゲオルグから渡された包みを無気力に置いた。
中にはお金が入っている。
小遣いという名目で父から定期的にゲオルグ伝いに渡される、生活費のようなものだ。
生活費といっても、必要最低限の日用品が買える程度の微々たる金額である。
ミハエルは寝台の上に座り込むと、ゲオルグに痛めつけられた箇所を確かめた。
思い切り捻じりあげられた箇所はすでに真っ赤に腫れ上がっている。
(ゲオルグにあんなことをしなければ、今のような関係にはならなかったかもしれない)
それではあの時、自分はいったいどうすれば良かったのだろう?
どんなに真剣に考えを凝らしてみても、他の選択肢などミハエルには到底思いつかない。
―――……ミハエルは先日のゲオルグとの記憶を振り払うように頭を振ると、ひっそりと寝返りを打った。
アレクサンダーに「人嫌いなのか」と言われた時は、正直とても驚いてしまった。
他人からはそう見えるのか、と。
自身のことを人嫌いだと思ったことなど、一度も無い。
同時に納得せざるを得ない部分もある。
教室で同級生たちと距離を置き、家族と距離を置いている自分が社交的に見えるはずがない。
しかし、本質的に人嫌いであったならば、時折感じる寂しさや渇望感の正体は一体何だというのだろう。
生まれてこのかた、決して自身の秘密に触れられないよう、人目を避けてきた。
ゲオルグにこのような立場に追いやられずとも、教室の皆とは同じような関係になっていたかもしれない。
(切望したところで、まともな関係など手に入れられるはずがない)
臆病で弱虫な自身のことが嫌になる。
しかし、守ってくれる者がいない今、自身を守れるのは自身でしかない。
それに一人でいれば、少なくとも傷つけられずに済む。
ミハエルは、ここで考えるのをやめた。
布団の中であれこれ考え事をしているうちに、すっかり寝付けなくなってしまった。
ミハエルは仕方なく暗がりの寝床から這い出た。
一度消したランプに、もう一度灯をつけると、書机を拠点に忌まわしいほど寒々しい部屋の中が照らし出される。
ミハエルは冬が嫌いだ。
自らの孤独がそのまま形になったかのような季節。
どす黒く冷たい雪を含み厚みをもった濃灰の雲が、長期にわたって陰鬱に頭上に覆いかぶさる季節。
もがいても抜け出せない、やわらかな檻に包まれているようだ。
冬の部屋は、暗さが、寒さが、静けさが、孤独が、恐ろしい勢いで呑みこむ。
たった今も、ミハエルの足元まで、夜が、闇が、迫ってくる。
安全であるはずの小屋の中でどんなに暖炉の火が暖かく燃えようとも、心に淋しい風が吹きすさぶ。
ミハエルは、思わず胸を掻きむしりたい思いに駆られた。
勉強で時間を潰す気にもなれないミハエルの目に、ふと書机に置かれた紙袋が飛び込んできた。
紙袋の中には、この日アレクサンダーが置いて行ったマリツィーパーンが入っている。
マリツィーパーンは、砂糖とアーモンドを挽いて練り合わせて作られたお菓子だ。
お祝いの日に贈られることの多いお菓子である。
なぜかこの日、アレクサンダーが差し入れに持ってきた。
ミハエルは、中身を取り出してひとつずつ、紙袋の上に並べてみる。
マリツィーパーンは全部で五つ入っていた。生成色で、小さな子豚や林檎の形をしている。
ミハエルは、引き出しから陶器の貴婦人の人形を取り出してみた。
並べてみると、姿かたちがマリツィーパーンの子豚や林檎と馴染み、なんとも可愛らしい。おとぎ話の人形劇ができそうだ。
書机に頭をもたせかけて、しばらく眺める。
ほんの少し気分が良くなる。
カーテンの隙間からは光が漏れている。
窓の外を覗くと、灯りの消えた向かいの本宅が、巨大な四角い物体と化して暗闇に佇んでいる。
その時、銀色の雲の上に、鋭い光を反射する鏡のごとく冴え冴えとした月が姿を現した。
(月が、満ちている)
まん丸い月明かりに照らされた雲が茫漠と散らばるのを、ミハエルはぼんやりと眺めていた。
その時、体の内側にドロリとしたものが伝った。
ミハエルは目の眩む思いがする。
体の秘密が、いや応なしに重くのしかかってくる。




