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さらは自分の中の二つの記憶について考えた。
一つは、黒須さらという二十四歳の女性のもの。幼稚園に勤務し悩みを抱えながらも普通に暮らしていた一般人だ。
彼女は帰宅途中に異世界に迷い込んだ。それが最初のトリップだった。様々あり、数ヶ月過ごしたのち、元の世界に帰ることができた。
このトリップを仮に『セレヴィア点』とする。
二度目のトリップは同じく帰宅の電車でのことだった。やはり同じ駅の『かげろう』だったと思う。そこで意識を失った。
目覚めたのは浜辺だった。裸で波打ち際に倒れ込んでいた。その後、サラという女性の記憶までもが甦り、彼女の中で違和感なく繋がった。過去が並んで二つある状態だ。あれだけリアルな経験は妄想で片付けられない。
サラとしての記憶はひどく生々しい。一度目のトリップを味わったのと同じほどの鮮明さで振り返ることができた。黒須さらのそれと遜色がない。サラとして生きた実感が確かに残る。
その間にさらの意識はなかった。この記憶をその舞台から『邸点』とする。
サラが死に、彼女の記憶を持ってさらは覚醒した。
サラはクリーヴァー王子を慈しみ見守り、彼を守るために命を落とした。その死の間際の真の恐怖や怯えはサラにしかわからない。それを同じ眼差しでさらも味わっている。
強がりの裏で彼女は震えていた。それでも意思を貫いたのは守るべき王子の存在があったから。
あの峻烈な最期を振り返れば、さらの目に涙が浮かぶ。
(怖かった……)
感情までも共有するのは、どうしてだろう。
前世的なものであるとか、前回王子と関わったことで触発されたのが原因かもしれない。理由はわからないが、ともかくサラの記憶がさらの中に入った‘。
『セレヴィア点』を起点として、七年前に『邸点』は始まり約二年続く。
視点はサラのものであるが、それは王子の過去に直接繋がると言っていい。
『邸点』の記憶が『セレヴィア点』の存在を補強する形になった。この二つの点を結んだ線が時間軸になるようだ。
そして、今は『邸点』から二年後、『セレヴィア点』から三年前に位置する。
この時間軸をさらは行き来している。『セレヴィア点』の王子には「姉や」の記憶もあった。あの彼が存在したのなら、邸の襲撃を切り抜けていなくてはおかしい。
(王子が無事なのは当然か……)
遅れて納得する。
さらが知るクリーヴァー王子は襲撃から五年後の二十歳の彼だ。彼が彼女に異常に執着したのは「姉や」に似ていたからだ。あの時は「姉や」の存在の重さがわからなかった。懐かしさが起因となった気まぐれだと受け取っていた。
彼は我がままで癇性で身勝手な貴公子でしかなかった。強引な振る舞いは暴力的なものも多かった。さらの目はダリアを追っていたから、自然彼の人としての未熟さが目立った。サラが「リヴ」と呼び接していた彼とはまるで別人のようだ。
サラの記憶は真新しい。ほんの数日前のもののようでもある。十五歳を生きていた王子がその中に確かに存在した。
時を隔てた今ならわかる。
サラヘの恋も愛情も信頼も甘えも……。彼の美しいものを全て注いで見つめていた。
サラの死を彼はどう受け止めたのだろう。
身代わりになった結果だと知った彼はどうなったのだろう。崖下に打ち付けられたサラの遺体を彼は目にしたのか。そうでないことを願うが、きっと彼は目にしたはずだとも思う。
(その時、二人の世界は壊れた)
切ない記憶にさらの呼吸がひと時止まった。
心を引き裂くそれを王子も味わったのを知った。
二度目の異世界だった。サラとしての時はトリップの意識がないから、これが二度目だ。
さらはキシリアの一行に加えられ旅をした。街道も整備され安全で馬車駅ごとに休憩を取るなどし、快適だった。自然の景観も美しい。
キシリアとその娘のイア、彼女の乳母と同じ馬車に乗せられた。幼稚園教諭のさらは幼い子に慣れている。長旅に飽きてくずりがちなイアの遊び相手を務めると喜ばれた。
こちらの世界にはないのか、さらの手遊びをキシリアも乳母も珍しそうに眺めた。
「家庭教師を志すだけあって、子供の心をつかむのがお上手ね。わたしはイアの機嫌が悪いままだと弱ってしまって、持て余すこともあるわ」
「二歳くらいのお子さんはまだ赤ちゃんみたいな時もありますからね」
「乳母の他にあなたもいてくれるのは心強いわ。住まいの環境が変わるとイアも落ち着かないでしょうし」
キシリアの言葉に城の居住区辺りが目に浮かぶ。散々磨いた浴室も記憶に新しい。知った場所へ向かう為に恐怖心は薄かった。キシリアに出会えた幸運をしみじみと思う。
単純に幸運な偶然と流すこともできる。さらにとって異世界は二度の経験で、それが前後して繋がる可能性はどれほどあるのだろう。それを導き出すことも不可能だが、無謀なほどゼロに近いものに感じる。
(夢の続きを見るようなもの)
その例えはさらの中で腑に落ちた。入口も定かでなく予告もなく目覚めてしまうことも似ている。
「ありがとうございます。当てもなくて、本当に困っていましたからとても助かります」
適当なお愛想ではなくさらのは真実に迫っていた。キシリアは「あら」とでも言うように彼女を見た。
「わたしもよ。出戻りだから城への敷居がとても高いの。人助けをしたのだと言う名目があれば、母の目もそこまで恐れずに見られるような気がするわ」
と、イアのふっくりした頬をキシリアは指でつんと触れた。
前回の『セレヴィア点』ではキシリアとの接点はそれほどなかった。言葉をかけられたことはあるが、用を頼まれた程度だ。彼女は優雅な貴婦人でさらからは遠い存在だった。
ダリアの美しい姉で穏やかな人。メイドのさらの目から完璧に見えた。今の言葉はそんなキシリアの内面をほんのり映したものに思えた。
彼女は夫を亡くした後で、その弟との再婚を迫られたと聞く。それがのめず幼いイアを抱いて実家への帰路にある。
さらの感覚ではキシリアは自分を守っただけだ。しかし当世の価値観では結婚は家同士の縁組の意味合いが強い。彼女が婚家を出た為、その関係は絶対に悪化しただろう。
(この旅が心晴れ晴れ、の訳がない)
単純な励ましや慰めは口にできない。ただ少しでも役に立つことでキシリアの心を負担を軽くしたいと願った。
馬車の旅も三日に及んだ。女ばかりの旅でさらには幼いイアもいる。緩い行程だ。宿で取った昼食の後で旅が再開した。途中キシリアがさらに衣装や身の回りの品を買い揃えてくれた。着替えが手に入り、これには芯からありがたく思った。
「身につけるものが整わないと女は落ち着かないわ」
繰り返して礼を言うさらにあっさりと返した。確かに言葉通りで、清潔な肌着の替えがあると心のゆとりが違う。ただ、高価な衣装などはキシリアの着古したお下がりで十分に思えた。
当世の女性の衣装は胸下に切り替えがあるすとんとした裾の長いワンピースドレスだ。肩を詰めるなり裾を上げるなりで誤魔化しが効くのではないか。
幼稚園で行事衣装を量産することもあって裁縫は得意な方だった。
またさらには気になることがあった。イアの衣装だ。丸い袋から頭と手足の分の穴が空いている形をしている。この世界の幼児服なのだろうとは思うが、
(これって、可愛いの?)
今から三年後の『セレヴィア点』のイアはもうこのロンパースもどきを着ていなかったと思う。
外出用で小さなマントを着けているから、なおのこと羽虫めいた格好に見える。
さらの言葉にならないイアへの視線を感じるのか、キシリアはため息をついた。
「おかしいでしょう。イアのなりは。婚家のしきたりなのよ。男女もなく八歳までこの衣装を通すらしいわ。わたしが用意させたものは全て捨てられてしまって……。城に帰ったらすぐにちゃんとした衣装を着させたいわ」
そんな事情があるとは。さらもその手伝いをも買って出ようと思った。




