神経衰弱8
(五)
俺の顔を見るなり、何かを呟いたメイが傾いていく。倒れかけた肩を抱き止め彼女を細視すると、腕も胴も血塗れだった。首から下に深手は見当たらない。ダニエルの銃弾は当たらずに済んだのか、と安堵しかけて息を呑む。
額に走る銃創。滂沱として零れ出した血は止まりそうにない。手当てしなければと立ち上がったが、消毒になるようなものなど廃墟にはなかった。傷口を洗浄するにしても、水はバケツに溜まった雨水くらいしかない。
冷汗を浮かばせながら見渡した部屋の奥。ワインボトルが並んでいた。それを目にしてすぐ、メイをそっと寝かせて棚へ向かう。
「っエドウィン! メイさん、私を庇って、私が、魔法を使いすぎて心配させたから油断させてしまって……!」
「いい、話は後だ。お前も負傷が酷い、今日はもう魔法を使うな。休んでろ」
魔法、と口にして歯噛みする。《収縮》の魔法で自身の傷を治すことは多いが、他人の傷は治したことがない。賭けに出て魔法で治療する手もある。しかし失敗して徒爾に終われば止血が遅れ、メイを危険に晒すだけ。
棚の戸を開けた。ウォッカ、ウイスキー、コニャックなど酒場にも置かれている酒ばかりで見知らぬものはない。並ぶボトルを素早く確認し、脳室でアルコール度数を喚想しながら比較していく。両手に一本ずつ提げてメイの傍へ駆け戻った。
「ユニス、針と糸はあるな?」
「え、あ、はい……!」
「エドウィン、僕は大丈夫だから……――わっ⁉」
アブサンで傷口を洗い流す。アルコール度数の高い酒は菌が繁殖しない。清潔な水がないこの場では酒で洗浄するしかなかった。
苦し気に息をするメイにクレーム・ド・カシスを手渡した。ユニスから針と糸を受け取り、焦りを鎮めるべく深呼吸を一つ落とす。
「それ、飲んでおけ。子供でも飲みやすいと思う。麻酔の代わりだ。無いよりはマシだろ」
「麻酔って、なにす……」
「見るな。目を閉じて、好きなことでも考えろ」
メイのオッドアイを覆い隠す。意を決したのか、メイが酒瓶に口付けて喉を鳴らす。ほどほどにしろと言いたくなるくらい飲んだ彼女の、白い頭を軽く撫でた。
「……痛むぞ」
「わかってる」
「安心しろ。すぐ終わらせる」
口で左の手袋を外し、針を摘まんだ。雪肌に針を潜らせて縫っていくと、メイの手が俺のコートを掴んでいた。布地に皺を刻む手は震えている。大丈夫だ、と、出来るだけ優しく囁いた。メイの玉唇が、譫言のように言葉を絞り出す。
「僕が、悪いんだ。宿から出るなって、言われたのに」
「無理に喋るな。お前もユニスも生きてたんだ。何も言わなくていい」
「っけど」
「メイ。ユニスも。頑張ったな」
語りかけると同時に糸を引いた。ナイフを取り出して結んだ糸を切る。塞がった傷口を確認し、愁眉を開いた。一息吐いてから顔を上げたら、ユニスがほっとしたように花笑みを浮かべていた。
終わったことを察したメイの瞼が持ち上がる。絡んでいた睫毛がほどけると、真珠が零れ落ちた。
怖かったのか、痛かったのか、声を殺して泣き始めたメイ。彼女をそっと抱き竦めた。華奢な肩が震えている。喘鳴を漏らす背中を擦って、彼女の頬が乾くまで待とうとした。
いつの間にか、メイが寝息を立てている。痛みか貧血か、或いは酒が回ったせいか。静かに眠っていた。
「……ユニス。帰――」
「ごめんなさいねお兄さん? その子は私が連れて帰るわ」
頭上を覆った閃影に一驚する。燭明を弾いた快刀の切っ先を仰ぎ見た。刀尖が落とされた即下、振り抜いたナイフで急襲を弾き除けた。
地へ降りた女の影を踏み付け、喉頸に一線を刻む。猩血が舞うことはなく、女は俺との間隔を広げていた。俺はメイよりも前に立ち、見知らぬ女を睨み据えた。
女の朱唇がしなる。長い金髪を邪魔そうに耳へかけた彼女が、鋭利な目で俺を視一視していた。
「貴方、前もこの街に来たでしょう。その綺麗な顔……よく覚えてるわ。魔女と施設を壊して帰っていった子。おかげでアテナ様のお顔を曇らせてしまったのよ?」
「……お前が、魔女を生む薬の製造者か」
「調べたのかしら? 私はこの薬で、魔女の能力を《譲渡》させてみているだけよ。改良しているうちにだんだん魔女らしい効果が見られるようになったのだけど……その子がいれば薬を造る必要なんてないかもしれないわね」
高いヒールが硝子を潰す。床に散らばっていた注射器に目もくれず、緩慢な動作で近付こうとする女に剣鋩を構えた。歩を止めた彼女が長い爪でメイを指し示した。
「赤い紐、その子魔女でしょう? 観察させてもらったのだけど、狂う様子もなく、会話も正常に成り立つ……それにお人形さんみたいで可愛い子。アテナ様もきっと気に入るはず」
「答えろ。アテナはどこにいる」
「そんなことより貴方、せっかくだから新薬を試させてちょうだい?」
鼻孔を擽ったのは酔いそうなほどの異香。秒針が音を立てるよりも早く詰められた隔たり。女の髪が頬に触れ、歓楽とした吐息が耳殻をなぞる。
女を突き飛ばそうと持ち上げた左腕はいつの間にか掴まれており、手の甲に激痛が突き刺さった。
表皮を剥がし中手骨を引っ掻く鋭鋒。骨が歪められる音に眉を顰め、女を蹴ろうとしたが視界が巡る。手放してしまったナイフが金属音を立てて転がる。
押し倒された勢いで注射針は甲に沈み、手の平の真皮を引き攣らせるほど深く刺さっていた。女の指が注射器に添えられ、揺蕩う液体を押し出そうとする。右手で女の手首を握り潰し、全力で抗ったが止められない。
「っ……‼」
「材料をたっぷり注ぎ込んだから新薬は一つしか持ってきていないの。特別よ。ちゃんと味わって……素敵な魔女になりなさい」
「ふ、ざけるな……ッ!」
薬液が体内に押し出される痛み。意図せず怯んだ隙を女は見逃さない。
寸間のうちに注射器は空になっていた。おぞましさが指先から這い上がった直後、込められる限りの魔力で女の腕を強く引く。馬乗りになっていた彼女を壁際へ投げつけた。
解放された体を起こしながらナイフを抜いて、己の前腕部を切り落せば悲鳴が響いた。
「エドウィン‼」
甲高く哭いたユニスが女へ拳銃を構える。魔力を使うなと黙示するように、俺が首を左右に振ると銃口が垂下していた。
腕の切断面を《収縮》させて止血する。薬を注入されてすぐ切り落としたが憂懼は拭えない。だが案じている場合ではなかった。左腕を灼く痛みに息が乱れ、熱い呼気を吐き捨てた。
「魔女になんか、なるわけないだろ」
「あら、思い切りがいいのね。でも」
前腕を失くした肩に、指が絡みつく。足音は一つも響いていない。弾指の間よりもその接近は早かった。
「は――……」
まただ。初手は俺が油断していたせいかと思った。だがその速度は錯覚ではなく、俺が呆けていたわけでもない。譲渡の魔法を扱うO型は、魔法で身体能力を上げることなど出来ないはずだ。
秒針が一度、耳元で響いた。胸骨に女の膝が沈んだ。蹴り飛ばされると同時、女に掴まれたままの上腕部が引き上げられる。切断面から溢れる血で女の衣服が赤く染まっていた。けれどそれと比べ物にならないほどの浄血が、肩口から溢流した。
「根元から捨てた方がきっと軽くなるわよ」
長い針が一秒を告げる。袖が破ける音より、血の管を千切られ神経と骨を引き摺り出される戦慄の方が、脳髄に響いてくるような気がした。
「ぐっ……、ッぁあ!」
迸った血飛沫が音を立てて床に跳ねる。痛楚に苛まれつつ、この女の戦い方が魔女に似ていることに気が付いた。
人間を相手にしているという甘い考えを脳から消し去る。相手の魔法に対策を立てるより、剽悍に攻めるべきだ。爪先に力を込めた。
俺の腕を放り捨てた女。その胴を切り払う。すんでの所で避けられる。翻した刃で切り上げた。霜刃を返し続けて詰める距離を狭めていく。互いの得物が鈍く啼く。一瞬の衝突は血を糾わない。透徹の風声が幾重にも吹き荒れる。
硝子片を砕いて躍る双方の足付き。打ち合うほどに廻る眼路。得物同士が鳴くばかりで手応えの薄さに舌哭きを漏らす。
剣戟の璆鏘、雨の淅瀝、女の逸遊とした息差し。雑音すべてを遮断して今はただ秒針だけに聴覚を傾けた。
一秒。
視界では女の利刀が緩やかに斜へ伸びる。刃はまだ退かず耳元に留まったまま。ゆえに光華を散らしたのはこちらのナイフ。振り上げた刀鋩は女の頬を掠めていた。
さやかな緋色が塵埃を染色する。鮮少の血痕はまだ泡の形を保って浮漂している。紅雨が落ちる前に急追。順手に持ち替えたナイフは牽制。魔力を込めたのは双脚。胴払いに身構えた女の顎を革靴で蹴り上げた。
二秒。
女が痺れている間も止まりはしない。天井を仰ぐ女の咽喉に狙いを定めた。不可視の軌道を一直線に辿る。息を引き攣らせたのはこちらだ。
押し退けられた事実が熱く滲出していた。女の利剣が右胸を穿って壁に沈む。背を打ち付けた衝撃でナイフを取り落とす。石と金属が後背で不快な音を上げていた。
女は俺を縫い留めたまま、傷口を広げるように劔を持ち上げた。
「こっちの腕も落としてあげる。腕がなくても魔女なら暴れてくれるでしょう?『あの人』が試薬も追加して作ってくれたもの、使わないと勿体ないわ」
「っ……」
「ふふふ、楽しいわね。両腕のない魔女はどんなふうに足掻いてくれるのかしら!」
「……舐めるなよ」
音吐は殺意にまみれていた。
打ちひしがれて泣いていたカレンを思い出す。彼女を薬の被験者にされ、憤っていたルークの声が蘇る。魔女にされたメイの不安げな顔も、涙も、眼裏にこびりついている。
他人の人生を毀壊する悪趣味な遊戯に、憎悪が溢れて止まらなかった。
――轟いたのは崩落。
握りしめた血刀は毀たれていた。鉄塊が玉屑のような砕片と化す。血を纏った金属の粒粉がいつかの灰に似ていて、熱情の赴くがままに眦を決した。
「人を壊すことの何が楽しい……俺達はお前らの道具じゃない‼」
胸に刺さっていた刃を引き抜き、現前へ突き立てる。瞠然と、恐れに歪んでいく女の眉目。頸動脈を押し潰して頸椎まで至った機鋒。充盈する魔力を握りしめ、切っ先を薙いだ。
噴き出す血汐。半分切断された首が、まだ繋がっている皮を撓ませて倒れていく。頭の重さに耐えきれなかった体躯は床に投げ出されていた。
罅割れた刃を捨てる。白刃を握った黒手袋は裂けていて、ほの赤く染まっていた。
沸騰していた魔力が鎮まっていく。耳鳴りがする程度で喀血するほどではないが、臓腑は炙られているように痛んだ。
「っエドウィン、腕、ど、どうするんですか……!」
泣き出しそうな両目で俺を打ち守るユニス。駆け寄ってきた彼女に開口して、唇を閉ざす。
頼むか頼むまいか、どう帰路を辿るか黙考していたら、ユニスが眠っているメイの袖を引っ張りに行っていた。
「わかりました! メイさんは、私が、連れて、帰ります……!」
「いや、メイを頼もうとは初めから思ってない。俺が抱えるから大丈夫だ」
「っじゃあ私は何をすればいいです……⁉」
「……その、嫌だとは、思うんだが。俺の腕を、持ち帰ってくれないか。俺のコートで包んでいいから。流石にメイを抱えながら腕も持つのは、片腕じゃ無理だ」
コートを脱ぎ、ユニスに差し出す。暫し硬直していた彼女だが、小さく頷いてから腕を拾いに行ってくれた。上腕部と前腕部をまとめてコートで包む彼女。すぐに発てるよう、俺もメイを片腕に乗せて抱き上げた。寝息は穏やかで、少しだけ安心した。
ユニスの準備が整ったのを確認し、廃病院を出て夜天の裾へ降りる。鉄紺を湛えた道には人一人いなかった。雨が止んでいる。今が雨上がりの夜で良かったと、左腕を見下ろして思った。
「腕、治るんですか?」
「マスターが治してくれる」
「よかった……」
「……う」
手元でメイが唸り、重心が変わる。彼女を落とす前に抱え直すと、揺らしたせいで起こしてしまったのか、長い睫毛が震えていた。
持ち上げられたメイの顔が、思いのほか近くにある。メイも互いの距離に動転したようで、大きな双眸を零しそうなほど見張っていた。普段は心配になるほど蒼白い顔が、今は赤く染まっている。酒に弱いんだなと思いながら、彼女に向けていた視点を道の先へ移した。
「メイ、気分はどうだ。痛むところはないか?」
「メイさん起きたんですか⁉」
「……頭、痛い……ふらふらする、気持ち悪い……」
メイが意識を失ったのは、縫合に対する嫌悪感と失血が相まって貧血になったせいだろう。現在の症状は貧血が治まっていないとも考えられるし、酒に酔っているせいだとも考えられ、『休ませる』という治療法しか浮かばなかった。
「大人しくしてていい。掴まれるなら、掴まってくれるか。落としそうなんだ」
冷たい体温が、シャツ越しに伝ってくる。しがみついた彼女の頭が、こめかみにぶつかった。
足元で静かに水音が鳴る。暗雲はどこかへ流れていったらしく、星空が水溜まりに映って揺れていた。夜の幽静は肌寒いのか、メイが俺に身を寄せる。彼女は、「どうして」と、寝言みたいに紡ぎ始めた。
「どうして……いつも傷付くのは妹なんだ。僕のせいなのに、僕が傷付けばいいのに、血を流すのは妹の体なんだ。守れなかった罰なのか……?」
何を返せばいいのか、思索して黙りこくってしまう。ユニスがメイを案じて見上げていたものの、やはりかける言葉が浮かんでいないみたいだった。
夜露を思わせる言の葉が、ゆっくりと胸のうちを吐露していく。
「自分がどれほど無力な子供でも、大切なものは、人に委ねちゃいけなかった。本当に守りたいものは、自分で守らなきゃいけなかったんだ。『子供だから守れない』『大人に頼らないと幸せに出来ない』って、諦めて……助けてくれる大人を信じて。馬鹿だったんだ。他人に甘えるんじゃなかった。僕がちゃんと、一人でも守れるって、強くいなきゃいけなかったのに」
「……メイさん、強く在ろうとするのは、とても素敵です。でも……やっぱり私たちは子供で、弱いから。一人じゃどうしようもない時もあります。今は私達を頼ってもいいんですよ。甘えるんじゃなくて、頼ってください。私もエドウィンも、力になりますから、信じて。誰にも助けてって言えないのは、寂しいものですよ」
ユニスの声遣いはとても優しかった。二人で戦ったからか、メイに対して少しだけ心を開き始めているように見えた。
耳に触れたのは震えた息吹。メイは顔を伏せたまま涙声を張り上げた。
「っ……頼るって、信じるって、なんなんだ……もう裏切られるのは嫌だ。裏切られて、自分が馬鹿だったって突き付けられるのは、もう嫌なんだ! どうせ裏切るくせに、期待させるようなこと言うなよ……!」
「裏切るなんてそんな……」
「だって誰も助けてくれなかった! 母さんが病で倒れても、死んでしまっても、僕達が売られることになっても! 誰も助けてなんてくれなかったんだ……! 僕とシャノンが双子だからって、たったそれだけのことで軽蔑されてきた! 先生だって、幸せにしてくれるなんて、嘘だったんだ……!」
彼女を抱える腕に、力を込めた。軽く抱き込むと、眠ってしまったのではないかと思うほど静かに、ただ息衝いていた。
心の救い方など分からない。甘い優しさは彼女を裏切ってきた人間と重なるだけ。だからこそ一篇の美辞もない冷たい事実でしか、彼女を繋ぎ止める意思を示せなかった。
「メイ、俺達の目的のためにお前は必要な存在だ。死なせるわけにも、手放すわけにもいかない。お前が死にそうなら、死なれたら困るから助ける。お前が何かに悩んで逃げ出しそうなら、どんな悩みだって聞いてやる。これを善意だと思う必要はない。お前は俺達の善意を信用するんじゃない、自分の価値を信用すればいい。見えないものを信じたくないのなら、見えるものを信じろ」
清閑な夜更けは霽月を飾っていた。淡い月白すら眩しく感じ、目を眇める。
メイの眼差しの中に俺がいた。水面を見つめているみたいだった。彼女が莞爾として微笑む。細められた眼窩で、水鏡が波紋を滲ませていく。
「……信じても、いいのかな」
闇路は蒼然と深まる。瑠璃の欠片が、一つだけこぼれたような気がした。




