洋紅色1
(一)
指先に伝う体温は暖かかった。メイの白い手に力が込められていく。軽く持ち上げられていた五指が握り込まれ、眉を顰めれば、慌てたように手を離された。
「っごめんエドウィン、痛かった……よね」
「いや、大丈夫だ」
「なら良いんだけど。ぁぁあでも駄目だ、《吸収》の魔法って、全っ然わかんない……」
閑寂とした開店前の店内に、メイの唸り声が響く。カウンターに項垂れた彼女の白髪が灯色で煌めいていた。
彼女の血液型がAB型だと分かり、それから一週間ほど経過している。日ごと魔法を使おうと試みているものの、未だ感覚が掴めないようだった。
「焦らなくていい、きっとそのうち使えるようになる」
「そうですよメイさん、私だって使えるようになるまで結構かかりましたもん」
銀器が高い音を鳴らした。ミルフィーユを完食したユニスとカウンター越しに向かい合う。無言で皿を突き出してきた為、それを回収し、洗おうとしたら甲高い叫びが鼓膜を打った。
「違います! おかわりです!」
「何回おかわりする気だ。全部食べただろ」
「また作ってください。美味しかったです」
「また今度、な」
「やだー! 今食べたいんです!」
「我儘言うな」
喚き声を水音で掻き消す。濡れていく手を眺めながら、自然と動く指に嘆息を零した。先程メイが俺に触れ、試みていたのは魔力の吸収だが、一滴さえも吸い取ることは出来なかったらしい。
手足を動かす為に使っている魔力は、呼吸で回復出来る程度のもの。とはいえ、多量の魔力を奪われたなら行動に疲労が滲む。問題なく四肢を動かせることに安堵してから首を左右に振った。
魔女であり素手でも戦えるメイが、無理に魔法を身につける必要はない。けれども本人が望んでいるのだから、使えるように助力してやりたかった。
ふと視線を感じて顔を上げる。メイが真っ直ぐに俺の顔を見つめていた。眼差しがかち合っても逸らされない。いつからか、彼女のそんな姿を、頻繁に見るようになっている。
「……メイ、どうした」
「え、あ。なんでもない」
「――メイちゃん、お土産だよ」
俺とメイを隔てるように、机上に置かれたのは大きな箱だ。外出していたマスターの帰りに気付かないほど、俺もメイも互いに集中してしまっていたらしい。
メイを撫でようとした彼の腕が払い除けられる。毛を逆立てた猫さながらに身を引くメイ。その様に彼が苦笑していた。
「びっくりしたかい? エドウィンに見惚れてるメイちゃんが悪いんだよ」
「見惚れてない。オッサンが足音もなく隣に立つのが悪い」
「足音なら響き渡っていたけれどね。お腹空いただろう? シフォンケーキを買ってきたんだが……」
「シフォンケーキ……!」
メイとユニスの喜声が重なる。二人揃ってミルフィーユを食べたばかりだというのに、今すぐ食べるつもりらしかった。箱から取り出して切り分けていくマスターを横目で見ながら、俺はコップを手に取った。
「マスター。珈琲、入れるか?」
「ああ、よろしく頼むよ。うちの子は気が利くね」
「子供扱いするのはそいつらだけにしてくれ」
湯を注いだフラスコを熱する。珈琲の粉をロートに入れると、苦みのある薫香が漂った。フラスコに軽く挿すよう、斜めにロートを繋げて沸騰を待つ。
「エドウィンだって、私と出会った頃はあのくらいだったじゃないか。君が一番喜んでくれたのはヴィクトリアケーキを作った時だったかな、美味しいって目を輝かせていてね」
「いきなりなんなんだ、適当なことを言うのはやめろ」
「メイちゃんもユニスも君のことをもっと知りたいんじゃないかと思っただけさ。君は自分のことなんて語らないだろう? せっかく和気藹々とし始めているんだからもっとお互いを知った方がいい」
マスターの手元でシフォンケーキが切り分けられていく。彼からそれを受け取ったユニスが顔一面に幸を湛えていた。
マスターの娘ということになっている彼女について、俺も知らないことが多い。メイのことはもちろん、マスターのことも知りつくしているわけではない。
己のことを語らないのは皆同じではないか。
「エドウィン、ヴィクトリアケーキってなに?」
「スポンジの間にラズベリージャムを挟んで、粉砂糖を振りかけたケーキだ。食べたいのか?」
「美味しそうだけど、そうじゃなくて。ミルフィーユを作ってくれたお礼に、今度作りたいなって」
「しなくていい。そんなことより魔法の練習に時間を使った方がいいんじゃないか」
「う、うん……ご尤も過ぎて頭を抱えたい気分だ」
柔らかに波打つ白髪を掻き上げて突っ伏すメイ。マスターに呼ばれて起き上がった彼女はシフォンケーキを受け取り食べ始める。ユニスと閑談する姿から目を逸らし、コーヒーサイフォンを見遣る。熱せられている玻璃の向こうで、湯が沸騰していた。
上に載せていたロートを真っ直ぐ挿し込み、フラスコの口を密閉する。下から上へ少しずつ上っていく熱水。上部に鎮座するロートの内部で、湿っていく珈琲粉の香りが店内に弥漫していく。
耳朶を打ったのは座右へ陶器が置かれた音。シフォンケーキとフォークが乗っている皿をマスターに突き返そうとしたが、食べろと言わんばかりの視線で制される。仕方なく皿を持ち上げ、柔らかな生地にフォークを沈めた。
「オッサンは魔法、どうやってイメージしてる? この前、エドウィンの腕を治した時どんな感じでやったの?」
溶けていく甘さを嚥下して、茶話を交わしているメイ達を一瞥した。マスターはメイと同じAB型だ。魔法について彼女に教えるのなら、俺よりもマスターの方が適任だった。
「ああ、あれは切り離された腕を元の体に取り込ませたんだ。吸収って言うのは、取り込んで自分のものにすること。『取り込む』という使い方ではなくね、『取り込ませる』という方で使っただけさ」
「言いたいことはなんとなくわかるけど……イメージが難しい……」
「私も同じ使い方じゃないとイメージしにくくてね。だから、そうだな、メイちゃんも腕を繋げるのを試してみるかい? エドウィンが片腕くらい提供してくれるさ」
「治るにしても俺だって痛みを感じるんだ。簡単に人の腕を切り落とそうとするな」
冗談だよ、と朗らかに笑うマスターへ溜息を吐く。フォークに己の仏頂面が映っているような気がして手首を返せば、室内光が銀器を染めた。
二口目のシフォンケーキを口に運ぶ。残っている大きさを見ながら、食べきれるかと僅か不安になる。ケーキ一ピースでも、この胃袋には多すぎるのだ。
黙然と咀嚼をしている間、メイとマスターの会話だけが静寂を払っていた。二人から視線を外した先にはユニスがおり、丸い瞳と見合うことになった。
「エドウィン、美味しいですか?」
「ああ」
「いつも私が食べてる時、自分の分は買わないので甘いの苦手なのかと思ってました」
「余計な出費を控えているだけだ。甘いものは嫌いじゃない。昔はよく、試食してくれってコーデリアが……」
気が抜けていたせいで余計な事を口走っている。唇を引き結び、喋るのをやめた。食べかけのシフォンケーキをカウンターに置き、コーヒーサイフォンに向き直った。
湯が下から上がり切っているのを確認し、ロートにマドラーを差し入れる。珈琲の粉を溶かすべく撹拌していたらユニスに問いかけられた。
「コーデリアさんって、妹さんですか?」
「……そうだ」
「魔女研究施設に行ったとき、研究者に聞いていましたよね。妹さんは、今、どこにいるんです?」
コーデリアという少女を知っているか。奴らにそう問いかけたところで返答は常に否定。空転し続けている日々を回顧して眉根を寄せた。持ち上げたマドラーから黒檀の雫が零れ落ちていた。
「分からない。ずっと探しているんだ」
「どこかの魔女研究施設にいるってことですか……?」
「そうとしか考えられない。もう魔女になってしまっている可能性も、生きていない可能性もある。それでも……」
吐き出してから拳を固めた。胸裏の奥深くまで沈め続けた弱音。それが流露してしまったことに口端が歪んで、無味乾燥な笑みを象った。秒針の音が耳元で響き、冷静になっていく。
魔力を注いだ手の平に爪を突き立てる。妹を奪われて、あの女に刺された四肢はもう動かないのだと医者に告げられて、何度頽れそうになったか分からない。
死んだような体で尚も足掻き続けたのは、諦める理由を探す為なんかじゃない。弱気になるな、と自身を叱咤した。
『あの女』の言葉を思い出す。君が付いてきてくれるかい――あの時、頷いていれば妹を守れたのだろうか。
鼻先を掠めた苦い香りに意識が引き上げられる。珈琲を再度掻き混ぜてから火を消した。抽出の様子を凝望し始めるも、玲瓏な呼声に睫毛を持ち上げた。顔だけ振り向かせて見ると、メイが眉尻を下げていた。
「エドウィン。この前はごめん……何も知らなかったから、『妹を大事にして』なんて……軽率に言ってしまって」
「謝る事じゃない。気にするな」
「う、ん……。妹さん、見つけよう。再会するまでは、死んでしまってるかもなんて考えない方がいい。僕も協力する。大事な妹なら、兄として絶対見つけてあげないとダメだよ」
どこまでも真っ直ぐなメイの眼光。瞳孔という照準は俺だけに定められていた。彼女も妹がいるからだろうか。真剣な科白には世辞や偽りの類が一切絡んでいない。他人の事情に摯実を注ぐ彼女へ、一度だけ頷いてみせる。
「分かってる」
珈琲はちょうど抽出が終わったところで、ロートを満たしていた液体は下方のフラスコへ下りきっていた。ロートを取り外し、用意しておいたカップに珈琲を注いでいく。
「マスター、珈琲……」
「――リアム!」
殷々と開け放たれたのは店の入り口。金の癖毛を揺らして、派手な服の女がカウンターへと足早に迫る。赤いハイヒールが高らかに靴音を響かせていた。
マスターの正面の席がメイとユニスで埋まっているからか、彼女は俺の正面に両手を叩き付けて立ち止まった。
勢いよく顔を上げてマスターを凝視する彼女。漂っていた珈琲の香りに甘い香水の匂いが混ざっていく。
紅茶を入れていたらしいマスターがティーカップを机上に置き、人好きのする笑みを携えて女性の方へ歩み寄った。
「ジュディ、いらっしゃい。だがまだ開店前なんだ」
「飲みに来たんじゃないわ! 助けて欲しくて来たの……!」
切羽詰まった様子に、マスターは一度目を彷徨わせる。それから、ジュディに座るよう促していた。俺はマスターの前へ珈琲を置いてから彼女に微笑みかける。
「なにか飲みますか。丁度珈琲を淹れていたのですが」
「ありがとうエドウィン、珈琲いただくわ」
「かしこまりました。砂糖やミルクはお好みで入れてください」
取り出した白いカップを黒く染めていけば、暖かな湯気が立ち上る。彼女にカップを差し出し、砂糖とミルクとマドラーを取りやすい位置に配置した。
赤く色付いた爪が陶器に伸びる。彼女は珈琲にミルクを注ぐと一口だけ嚥下していた。神経質そうな手つきで牡丹色のドレスの皺を伸ばし、腕に提げていた鞄を漁り始める彼女。
「私の娘が家出したきり帰ってこないって、リアムには話したでしょう? 見つかったかもしれないの」
「そうかい? それは良かったじゃないか」
「よくないわ。死体で見つかったのよ……! ほら見て!」
マスターと位置を変わるべく、彼の背後を進む。すれ違いざまにジュディの手元を一瞥した。彼女がマスターに突き付けていたのは一枚の新聞紙だ。記事が載っている箇所を折りたたんで仕舞っていたのだろう。
彼らから少し離れ、メイとユニスの前へ。ユニスのティーカップが空になっていたため、「まだ飲むか?」と問いかければ首肯が返される。ティーポットを持ち上げた。
「三人目の被害者のところ、真珠とリボンの耳飾りを付けてる、青いワンピースの少女って書いてあるでしょ。耳飾りは私が手作りしたものだからわかる、服だって最後に会った時青いワンピースを着てた。ウチの娘だわ。せめて……ちゃんと葬儀をしてあげたいのに、遺体にすら会わせてもらえないの」
「警察に、行ったのかい?」
「ええ。でもこんな事件は知らないって取り合ってくれなかった。記者の作り話だろうって笑われたわ。きっと女だからって適当にあしらわれたのよ。何か問題があって、隠蔽しようとしてるんじゃないかしら」
ユニスに紅茶を渡したら笑みを返される。マスターとジュディが真面目な話をしている為、邪魔をしてはいけないという判断なのか、メイもユニスも喋るのを控えているようだった。
「お願いリアム、貴方からも警察に聞いてみて! 頼れる男が他にいないの!」
「わかった、私の方でも調べてみるよ。この新聞、少しの間借りててもいいかい?」
「ええ……」
「だが私も一般人だからね、あまり期待はしないでくれ」
「分かってるわ」
シフォンケーキを食べ終えたメイから皿を受け取った。ユニスはゆっくり食べているのか、満腹なのか、まだ皿に半分ほど残している。
メイの皿だけ洗おうとしたら、ヒールの音が近付いてくる。ジュディの紅唇が弓形にしなっていた。
「エドウィン、珈琲ありがとね。これで足りるかしら」
「いえ、俺の奢りです。お金は要りません。ゆっくり休んでください」
「貴方って優しいのね。ありがとう、美味しかったわ」
白い手が頬に伸びる。記憶の中で『あの女』に触れられた温度を思い出す。軽く顔を引き寄せられて硬直していたら、頬に口付けを落とされた。
化粧と香水の匂いにハッとして眉を顰めた。馨香を振り撒いた長髪が彼女の細い背中に纏わりつく。
彼女が退店したのを見届けたのち、頬を拭ったら手の甲に口紅が付着した。手を洗っていると、その水声さえもマスターの大声に遮られた。
「というわけで! 事件だ、君達」
「魔女と関係のない事件なら、警察に任せておけばいいんじゃないか?」
「魔女と関係があるから言ってるんだよ。ほら」
眼路に差し込まれたのは先程ジュディが持ってきていた新聞紙だ。濡れた手を拭ってから受け取り、記事を眺める。事件は一面を飾っているわけではなく、隅に小さく書かれているようで、赤いインクで囲われていた。
記載されているのは事件の概要と、被害者である少女の挿絵。前腕部は欠けており、上腕部には交差して縫い付けられた紐が描かれていた。




