神経衰弱7
生成色の髪が月明りで淡く光る。ダニエルに銃口を突き付ける彼女の、手枷をしていない両手が震えているように見えた。
「っユニス……⁉」
「なんだよ、餓鬼が増えたな」
「……あは、子供だからって舐めてるんですか? 私は聖女様じゃないので、ぶっ潰しますよ」
彼女の笑声は虚勢に塗れていた。それはダニエルにも伝わっていたのかもしれない。ダニエルは懐からナイフを取り出し、くつくつと笑いながら僕の首筋に宛がった。直後響き渡る筒音。恐らく威嚇射撃。ユニスの放った弾丸が何を貫いたのかは分からなかった。
「宿から出るなってエドウィンが言ってたのに、なにしてるんですか! 貴方ならそんな男振り払えるでしょ!」
「っでも殺しちゃダメだ! アビーが……!」
「そんなこと気にしてる場合じゃ――、あっ……⁉」
突然現れた男が、ユニスの脇腹を蹴り飛ばす。小さな体が宙を舞い、地面に転がった。思わず駆け寄ろうとしたが、ダニエルのナイフで首の薄皮が裂けて立ち尽くすしかなかった。
「ユニス!」
「いいタイミングだな。ちょうどいいからそのガキも連れて行け」
男に抱えられたユニスが、暴れようとしてから硬直していた。真っ青に染まる相貌。僕のもとまで聞こえるほど乱れた呼吸音に危惧が走る。
僕はダニエルの腕を掴んで振り払い、足から抜いたナイフを彼の首へ突き立てようとして──刺せなかった。動揺する。力を込めても切っ先は血肉に至らない。震えるだけの刃に笑うしかなかった。
人を殺したことなどない。けれど、自分や知人の命が天秤にかけられれば、簡単に急所を貫けると思っていた。なのになぜ動かない? なぜ殺せない? なんで? 怖いのか? なにが?
こちらの腕を掴み上げたダニエルの瞳に、僕が映る。――違う。妹が、僕を見ていた。
純粋で、無垢な妹。僕が人を殺した時、汚れるのは僕の手じゃない。
守らなければならなくて、穢したくなんてない妹の手の平が、罪科で染まる。それに気付いてしまい、叫びたくてたまらなかった。
「大人しく付いてきてくれるよな? 場所、変えようぜ」
落ち着け。落ち着け落ち着け。違う、妹じゃない、僕は僕だ。妹は何も悪くない、僕の意思でしたことは全て僕の過ちだ。殺せる。殺せる、殺せる。
罪を正当化しろ刃を握れ。この体を、妹を、守り抜くためだ。妹を傷付けようとする奴は悪だ、罪人など憎んで殺せばいい。
深呼吸をした。ダニエルと反目する。先に顔を逸らしたのは、僕だ。
「行くなら早くしろ。僕だって小さい子供が見てるところじゃやりづらい。ああ、でもお前の死装束はそれでいいのか?」
「あ? 今すぐあのガキを殺してやってもいいんだぞ。それともアビーを殺してやろうか? 武器を捨てて黙ってついてこい」
舌打ちを返し、ナイフを投げ捨ててから彼に続く。冷たい雫が旋毛を打った。降り出した雨が素肌を滑る。
アビーに顔だけ振り向かせ、またね、と唇を動かす。小さな肩がまだ震えていて、僕は困った末に手を振った。アビーの口元に笑みが浮かぶ。それは引き攣っており、無理に笑わせてしまった罪悪感が喉に沁み付いた。
濡れていく髪が冷え切っていて、だんだんと冷静になっていく。大柄な男に担がれているユニスは、意識があるのかないのか分からないほど静かだった。
ダニエルは上機嫌に口笛を吹いていた。堂々と大通りを歩いても、人混みに紛れてしまえば誰も気にしないのか、僕達の姿を不審がる者はいなかった。
少しずつ人通りが疎らになっていく。寂れた道まで行くと街灯の明かりさえ届かなくなる。月桂だけが照らす夜道の先に、枯れた庭。敷地を囲う針金を踏み越えたら、半壊している建物に近付いた。
石造りの室内は埃っぽく、頼りない紅燭が廊下を示す。進んだ先にいたのは三人の男。雨滴が天井から零れ落ち、床に置かれたバケツに溜まっていた。
硝子が割れる音に足元を見る。床には小瓶や粉が散らばっており、長机の上にいくつもの注射器と袋。奥の棚には何種類もの酒が置かれている。
こちらを注視する男共を睨め回し、ナイフを抜こうとするも、先程捨ててしまったことを思い出す。
大柄の男がユニスを投げ捨てていた。ダニエルはテーブルの上を漁り始めている。
「モーリス、新しい薬は来たか?」
「まだだ。その子は? 上玉じゃないか」
「掘り出しモンだ。いいだろ。せっかくだし前のを打ってやるか! ほら、腕を出せ――」
注射器を握ったダニエルの腕が、鮮血を散らして宙に舞う。己の指先が生温い血肉を潜った感覚。骨が折れる音。一瞬でも肌に纏わりついた体温が気持ち悪い。だけれど徒手で人体を切断できた事実に、ひどく安堵した。
腕も首も変わらない。落とせる。
「ッテメェ! まさかカレンから薬を貰って使いやがったのか⁉」
「訳の分からないことを……。全員殺してやる。練習にちょうどいい」
地を蹴ればダニエルの吐息がかかるほど接近している。慣れない速度に攻め入るタイミングが合わせられない。僅かな間を生んでから突き出した拳。後退した彼に掠りもしなかった。
石壁を打って手の骨が軋む。自身の骨を折ってしまいそうなほどの一撃が深々と沈む前に、後方へ跳んだ。
そんな僕を待ち構えていたのはナイフ。空気の断裂音に身を引くと血走った瞳の男がいた。室内にいた彼らはダニエルが負傷した時点で臨戦態勢に入っていたのだろう。いくつもの刃が炬燭を受けて光芒を散らす。
眼界の端でダニエルが自身に注射器を刺していた。ダニエルだけじゃない、目の前で唸っている男も、その後方にいる奴らも、薬を体内に注いで喚き始めた。
「なんだ……⁉」
悲鳴、怒号、咆哮、哂笑。耳を劈く声に周章していれば鋭刃が眼前に迫る。早い。動転して飲みかけた息は喉元で詰まる。肺が揺れた。ナイフを避けた僕に、別の男の拳が沈んでいたのだ。
肋骨が歪む。噎せかけた息を止めて退避。距離をとって呼吸を整えようとするも急追から逃れられない。ナイフを受け流す。拳を躱す。振り下ろされた鉄管を避ける。舞い散る砂埃に目を細め、ひたすらに足を動かして逃げ続けた。
叫び声のせいで足取りも掴めない。全ての敵に目配りなど出来ない。反撃の機会を窺い続ける中で傷を負い続けているのは僕だけ。腕を出そうものなら勢いよく鉈が振り下ろされる。敵の腕を掴んで切り払ってやろうにも横槍が入る。
魔女と呼ばれる僕の速度と彼らのそれは同等。向かい来る拳を一か八かで殴りつけるも、指先から這い上がる激痛に僕が身を引くこととなった。
ナイフに掠り傷を刻まれる中、男の胴を蹴り飛ばす。全霊の力を込めた。吹き飛ばすつもりだった。だけど、やや怯んだだけですぐさま飛び掛かってくる男。その様は理外な化物だ。
今のこいつらは、痛覚も恐れも躊躇も持ち合わせていない。理解してから悟る。
僕も、全てを捨てなければ勝てない。感覚も感情も、今は捨てなければ。
奥歯を擦り鳴らしてダニエルへ飛び掛かった。焦点の定まらない両目はどこまでも空っぽで、眼窩と見つめ合っているみたいだった。
顔を突き合わせたのは片時。彼のナイフが左前腕部に突き刺さる。尺骨が音を立てて僕の背筋を粟立たせる。痛い、痛い。貫通した切っ先を認めて吐き気がしたが後戻りなどしたくはない。
止まるな。下がるな。踏み止まれ。自分自身に吐き捨てて右腕に力を込めた。
背中に鉈を叩き付けられ、倒れかけた勢いのままダニエルの肩を穿孔した。手の平を満たす血肉。押し負けそうなほど硬い骨をへし折り、指先を彼の背から突き出した。一気に腕を引けば絡みついていた血管と皮下組織がぶちぶち千切れていく。風を通す大穴を開けられても、彼は平然と僕からナイフを抜いていた。
ふと、蔓延する喚叫をも凌ぐ筒音。咄嗟に身を翻せば大柄な男が首から血を流し、倒れていった。
「どうなってるんですか……こいつら全員魔女なんですか⁉」
伏していたユニスがいつの間にか立ち上がって銃を構えている。一人の男がユニスの方へ飛び出そうとし、僕はその襟を掴んで投げとばす。そのまま追い打ちをかけようとしたが、男の眉間は弾丸で貫かれた。
「僕に聞かれても分からない! こいつら、自分に注射器を刺してこうなったんだ!」
「人を魔女にする薬物、ってことです……⁉」
頭部を撃ち抜かれたにも拘わらず起き上がる男。嘘だろ、と零しかけた唇を引き結び、彼の首めがけて爪を突き立てた。避けられたことを視認してすぐ態勢を立て直す。僕に迫撃した男は弾丸によって押しのけられていた。
一歩後退した彼にもう一度肉薄する。しかし横腹に鉄管が打ち付けられて長机の方へ吹き飛ばされる。
音を立てて床に散らばった注射器。舞い上がる白い粉。倒れた机と発砲音が重い一音を突き上げる。鳴り止まないほど繰り返される銃声。肋骨を押さえて蹌々と地を踏みしめていたら、ダニエルがユニスにナイフを振りかざしていた。
援護しようと踏み出した足。けれども身を投げたのは宙。それは本能的な回避。足首をなぞった風に殺気を感じて跳んでいた。宙返りの最中に見下ろした先で男が鉈を握っている。彼の次の手は僕の着地より早かった。
中空で突き付けられた鋭鋒。思惟より先に両腕を交差させて襲撃を受け止める。右腕より前に出していた左腕。その表皮と肉が削がれていく痛み。冷たい刃が骨の上を滑ると背筋が凍えた。
突き除けられるままに着地。塵埃で空気が染まる足元。男が鉈を振り上げた髪筋ほどの時間。
攻める選択をしたのは賭けだ。振り下ろされた刃が僕の腕を切り落とすか、或いは僕の腕が彼の首を斬り飛ばすのが先か。痛みを伴わない血しぶきが答えを告げていた。
鉈が騒がしく床に落ちる。男の死体から目を逸らし、僕はユニスの方へ駆けた。気付いた時にはユニスが四面楚歌。彼女は寸鉄と鈍器を避けて何度も銃弾を放っていた。
ユニスの前に躍り出て一人の腕を切断する。男が手放した鉄管を奪いダニエルへ真っ直ぐ投擲。片腕と武器を失くしてもなお僕に掴みかかろうとした男へ手を伸ばす。首を鷲掴んで握り潰した。
骨を折っているのはこちらだというのに、破砕する感触で僕の腕まで痙攣するものだから気持ちが悪かった。萎れて皺だらけになった首を切り捨てる。
左方を確認したらユニスがダニエルの心臓を撃ち抜いていた。
僕は最後の一人に邁進する。ひっ、と上がった悲鳴に怯んだ。気付けば阿鼻叫喚は止んでいる。化物だったはずの男を目の前にして、停止してしまった僕の鼓膜を、銃声が貫いた。ユニスの透明な弾丸が血の臭いだけを弾けさせていた。
「これで、全部、ですよね……」
「多分。ユニス、大丈夫? 応急処置を」
「傷は、大したことないです。魔法を、使いすぎて、耳鳴りが止まな――げほっ……!」
膝を突いたユニスが、口から血を溢れさせる。血の気を失っていく顔気色に、死んでしまうのではないかと、心臓が早鐘を打っていた。思い出していたのは、衰弱して死んだ母のこと。
僕が宿で大人しくしていれば、こうはならなかったのだろうか。何故ユニスは、僕を追いかけて、血を吐くほど戦ったのだろう。ダニエルと僕が接触した時点で、何故僕を放っておかなかったのか分からない。
ユニスもエドウィンもただ利用し合うだけの人間。どうなっても構わない、そう思っていたのに。なぜ失いかけて戸惑う?
混乱する頭を回してどうにか彼女を支えようとした。伸ばした手を振り払われて、頬が引き攣った。童顔を土気色にして怯えた彼女が、首を左右に振って俯く。
「ちが、違うんです。大丈夫ですから。触らないで、ください。私、ダメなんです。メイさんが嫌とかじゃなくて、人が。体温が。触れ合う感覚が、怖いんです」
「ユニス――」
言葉を続けようとした。実弾が硝煙の臭いを漂わせて頬を掠める。二発目の発砲音は壁に突き刺さる。三。四。駄目だと分かっていてもそうするしか術がなかった。ユニスを抱きしめて、蕭寥の訪れを待った。
痛みが頭蓋を震わせ、しんと掻い澄んだ時。振り返ってみれば、銃を構えたダニエルの側頭部にナイフが突き刺さっている。ダニエルが、倒れ伏す。靴音が近付いてくる。
雨滴を零した短い黒髪。名称のない花みたいな香りがした。冷艶な目見が焦燥を滲ませている。凛然とした洋紅色の懸珠は僕を見下ろしていた。
「メイ……!」
エドウィンを、見上げる。翳ることなく夜を欺く赤。まるでその双眼には不思議な魔力が宿っているよう。芳甘に誘われた意識は絡め取られ、だけど眼差しに捕われるほど得体の知れない恐ろしさを味わう。この、感覚は──。
瞼が重くなっていく。痛みで幻覚でも見たのかもしれない。どうしてか、「先生」と。あのひとを呼んでいた。




