真珠色の魔女2
**(二)
私が抱いた感情に名前を付けるのなら恋だった。けれどもそれは、物語の登場人物に恋情を抱くようなものだ。何故なら『彼』は一度も私を認識していなかったから。私と彼の視線は何度も結ばれて、だけれどひとたびも交わらなかった。
洋紅色の明眸が微笑みかける。私の怪我を案じてくれる。負傷した私を抱き上げてくれる。泣き出した私を抱きしめてくれる。そうして口にされる名前は、私のものではない。
──メイ。
私の肉体に宿る兄。メイに生きて欲しかった。幸せになって欲しかった。
けれど、目界に幸せがあるのに、私だけがそこに存在していない事実を味わうのは、あまりに苦しかった。
魔女となってから過ごした日々は、まるで人間の欲深さを試されているようなもの。
自分の命を捨ててまでメイを救いたかったのは本心か? メイの魂を追い出して、もう一度生きたいとは思わないのか? そんな風に、存在しない悪魔が何度もささめく。
いっそ消えてしまいたくて黙りこんだ。私はもう死んでいて、何も出来ないのだからと、メイを見守り続けた。自分を押し殺さなければいけないのに、メイを取り巻く優しい環境が羨ましかった。
それと同時、生前の私が知らなかったメイを何度も見てきた。妹には隠していた弱さ。私に体を返そうとしてくれる優しさ。だけど私の肉体で生きていたいという矛盾。重なる心音の中で、私達の情感もたびたび重なった。
私達は同じようにお互いを想っていたし、生きたがっていたし、愛されたかった。すべてに共感できるからこそ、私はやはりメイの幸せを願った。
衛兵に囲まれていたあの日、メイに呼びかけたのは、私もエドウィンさんを助けにいきたかったから。たった一人で奮闘するメイを、見ているだけなんて嫌だったから。メイにこれ以上、悲しんで欲しくなかったから。
普通の人間に戻れないことを認めて、それでも凛と立つメイを支えたかった。『魔女』と侮蔑されてもいい。私もそう思う。こんな肉体を認めてくれたメイが、いつか仲間達と幸せになれるのなら、この肉体は魔女と呼ばれてもいい。
『……メイ』
目の前は真っ暗。船のスイートルームで仮眠をしているメイに、私の声は届かない。魔力を消耗するのも良くないため、私も髪さえ動かさず目を閉じていた。
マスターは初め「眠らない方がいい」とメイやユニスちゃんに言っていた。
私達は衛兵を騙して船に乗り込んだ身であり、私達が王太子の敵であることはいずれ明らかになる。船内の衛兵がいつ刃を向けてくるか分からないのだ。
しかし、どうやらこの船が島に着くのは明日の午後。港から船まで一日程度かかるらしく、不眠のまま戦場に降りるわけにもいかない。
その結果、マスターとメイが交代で見張り役をして、各々順番に、しっかり睡眠をとることになった。現在室内には、メイとユニスちゃんのかすかな寝息が、深々と響いている。
嗅ぎ慣れない香りのベッドは柔らかい。海鳴りは聞こえない。眠りの静けさは寂しかった。意識はあるのに闇を見つめることしか出来ない。まるで冥府にいるよう。時折、窓硝子が夜風に揺れて生を思い出させてくれる。
ねえ、メイ。
呼びかけてみても、闃寂は震えなかった。夜は私の声を通すことなく、冷たい無音を波及させていた。だからこれは、届かなくていい独言。
『いつも、守ってくれてありがとう。私の声を聴いてくれて、ありがとう』
私達の意思疎通が可能になったのは、きっとメイが『魔女』たる私を受け入れてくれたから。私の肉体になってからも、私が生きていると信じ続けてくれたから。
今の私達は力を合わせられる。生前はメイに守られてばかりで、メイは私を頼ってくれなかったけれど、この身体ならメイを守り抜ける。
生きていた頃の恩を返したい。私とお母さんを守り続けてくれたメイ。私達の為に手を汚し続けて、一人で多くの傷を負ってくれた。
兄妹が大事というのは、メイだけの気持ちではないのだ。私もメイが大事。この思いが、いつかメイに伝わったらいい。
『メイはこのまま普通に生きて、幸せにならなきゃダメだよ』
泣きたくなるのは、終わりを感じているから。胸騒ぎがずっと続いている。
向かう先で何があろうとも、せめて、メイだけでも在り果てて欲しかった。
(三)
カーテンを引き開ける音がして、瞼に光が注がれる。僕は絡んだ睫毛をほどき、朝影を寝ぼけ眼に映した。ベッドの上であぐらをかいて窓を見遣る。水浅葱のカーテンを纏めたマスターが、僕を振り仰いだ。
「おはよう、よく眠れたかな?」
「ああ、うん……」
熟睡していた脳は夢を見なかった。見慣れない目先のほうが夢裏のよう。窓の外は青一色。水平線を境に、青の深さが異なっている。その色彩も波打って乱れ、同じ色には戻らない。
しばらく海を打ち眺めて、『神の住む島』に向かっている最中なのだ、と追思した。
欠伸をしつつ隣に目線を映す。もう一台のベッドではユニスが静かに眠っている。布団を抱きしめて眠る様は小動物じみていて微笑ましい。
首を回し、腕を伸ばしてからベッドを降りる。枕元の棚に手を伸ばすと、外していた武具を纏い直す。大切なコートを丁寧な手つきで羽織れば、身支度は大体おしまい。
これから到着までどうするか。僕が支度をしている間、マスターはユニスの肩を揺さぶっていた。苦笑する彼の目元は隈のせいで暗く見える。最近あまり眠れていないみたいだし……と思考してから、己の失態に「あ」と潰れた声が溢れた。
「っオッサン全然眠れてないんじゃない!? 見張り役、交代制だったのに朝まで寝ちゃった……ごめん……」
「私も仮眠はとったから大丈夫だよ。とりあえず朝食にしたいんだが……ユニスがなかなか起きないねぇ」
「う~……眠いです……」
僕は襟を整えて姿見を覗き込んだ。鏡越しに、マスターとユニスの攻防が窺えて苦笑してしまう。ボサボサの髪を手櫛で梳かし、溜息を一つ。
「シャノンの髪って、寝ぐせつきやすいよな……」
『メイの寝相が悪いからでしょ』
「そんなことは、ないと思うんだけど」
元々の僕の肉体は短髪だった為、あまり比較にならない。そもそも身だしなみを気にしたことがなかったかもしれない。いつから寝ぐせを気にするようになったか、思い返して口角が緩んだ。
エドウィンが、僕の寝ぐせを見るたび小さく笑っていた。それが恥ずかしくて、でもなんだか嬉しくて。鏡の中で僕は喜色を湛えていた。
鳥の巣状態だった髪の毛が、ようやく綺麗に波打つ。ちょうどユニスも支度を終えたようで、僕達は三階の食堂を目指した。
エレベーターにも乗り慣れたものだ。床が動く感覚に、昨日ほどの動揺はない。個室の隅にはまだ硝子片や肉片が残っていた。魔女の叫び声まで蘇ってくる。そして、余喘さえ失いそうだったユニスの体温も。
廊下へ歩み出したユニスを打ち守ると、僕は愁眉を開いていた。彼女はよっぽど空腹だったらしい。その足取りは上機嫌だ。
食堂の扉を潜って中に入れば、従業員が席へ誘導してくれる。煌びやかな店内はやはり海上であることを忘れさせる。大理石の床に靴音が高く響いた。
席数が多く、目を凝らした先にも純白のテーブルクロスが認められる。椅子は木材に革が張られたもので、ダークブラウンを基調としている。モノトーンの内装に、硝子越しの海がよく映えた。
日当たりの良い席に着座し、メニューを受け取る。僕はベーコンとチーズのワッフル、オムレツ、クランベリーのジュースを注文。向かい側の席では、歓喜のソプラノが響いていた。
「ケーキがありますよ! やったぁ!」
「ちゃんとご飯も食べようね」
「メイさんってば何言ってるんですか、ケーキだってご飯ですよ」
「ケーキは食後のデザートじゃ……?」
ユニスは欣々然として、ケーキの名称をいくつも口にしていく。注文を続ける声を片耳で聴き、意識は窓の向こうに注ぎこむ。じっと海を眺めた。
見はるかす景色には建物はおろか、木々さえ見つけられない。空は晴れ渡っており、縹渺たる碧落に果てはない。広大な世界の美しさを感じたのは最初だけ。次第に悲涼を覚えていった。
食器とテーブルが合奏して僕を呼んだ。天色の孤独に沈んでいた僕は、団欒に頬を緩めた。
従業員が近くのテーブルを寄せてくれて、繋がった机上には皿が沢山のせられる。ユニスのケーキ皿が五枚、マスターの前にはベーコンエッグにウインナーとクロワッサン。僕が注文した食事も運ばれてきて、香ばしい香りや甘い香りが混ざり合う。
先日、夢の中でワッフルを食べたな、なんて思いつつ銀器を滑らせた。幻の味は思い出せなかった。実際に口に含んでみれば、塩気と甘さが程よくて感嘆してしまった。
「美味しい……」
「私の手料理とどっちが美味しいかな」
「オッサンなんで張り合おうと思ったの?」
隣席のマスターに呆れてから、もう一口頬張る。もちろん、マスターの手料理も、このワッフルも美味しい。だがやはり物足りない。僕の味覚はいつまでも『彼』の味付けを求めていた。
クランベリージュースで喉を潤してから、小息を漏らす。
「そうだ。今度さ、僕にも料理とかお酒の作り方教えてよ。エドウィンみたいに、僕も酒場の手伝いをしたい」
「私にも教えてください! カウンターの中でなら手伝えそうです!」
マスターの柔和な垂れ目が大きく開かれていた。気抜けた顔で僕を見て、ユニスを見て、彼は僕達の意念を咀嚼しているみたいだった。そうして彼は、嬉笑を浮かべていく。
「っふふ。メイちゃんとユニスと、三人で酒場を営業するのか……楽しくなりそうだね。君達が口説かれないように目を光らせないと」
「ユニスに手を出す客がいたら、僕が叩き出すよ」
「暴力は駄目ですよメイさん」
ワッフルを食べ終えてオムレツに手を伸ばす。柔らかな表面にナイフを入れれば、半熟の卵がチーズと混ざり合って溢れ出した。
それを半分食べ進めた頃、食堂は殷賑さを増していく。衛兵達の足音が優雅な食時を蹴り破っていた。




