真珠色の魔女1
*(一)
宮殿の窓は凍えている。硝子越しに木々が揺らぎ、遮られた白光は輝きを弱めた。広々とした一室で花の絨毯に影を落とすのは家具ばかり。陰影の形は少しだけ変化した。クレイグが猫足の椅子に腰をかけ、赤い革に背中を沈めていた。
森厳な静けさが彼を取り囲む。彼はこの寂寥感に慣れていた。冷たい眼差しは無感情のまま袖に落ちる。彼が腕まくりをしたのは、時計を確かめたかったからだ。けれどもその焦点は傷跡に縫い留められた。双眼に宿った最初の感情は、何だったか。
かつて弟を庇った時、魔女によって刻まれた傷跡は今も痛む。その証に彼は、腕を押さえて眉根を寄せていた。
クレイグにとってローレンスは、大切な弟だった。母も、妹も、大切な家族だった。だからこそ、彼の憎悪は父親と魔女だけに注がれている。
王太子として生まれた時点で、クレイグが威厳という仮面に縛られたのは言わずもがな。母親と接する機会も、娯楽に耽る時間もほとんど与えられなかった。第二王子たる弟は父親に軽視されていたが、母親と楽しそうに過ごす姿は幸福な子供そのものだった。
母親と弟。彼らはクレイグの仮面を外してくれる。彼らと過ごす時間は、クレイグを一人の少年として息衝かせる。
そしてもう一人、大切な家族が出来るはずだった。
『クレイグ、妹が出来るのよ。でも名前が決まらないの。貴方はなんて名前が良いと思う?』
『私が決めてもいいのですか? 母上か父上が決めるべきでは?』
『いいのよ。貴方だって家族なのだから。兄として、可愛い妹に名前をあげて』
追想した食卓は、クレイグにとって幸祐に満ちたものだった。長い時間を共に過ごせなくとも、家族という関係は切れることがない。彼は安堵を噛み締めていた。
「……フレデリカ」
一人きりの部屋で、クレイグが独り言ちた名前。それは深閑に溶けていく。それに呼応する者は、今にも過去にもいなかった。
少年だった頃の彼は、妹の名前を呼びたくて堪らなかった。妹に会える日を楽しみにしていた。生まれたばかりの赤子はどのくらい小さいのだろう。名前を呼んだら笑ってくれるだろうか。
されど、その名を呼んでやることは叶わなかった。
勉学に励むクレイグが時間を作り、妹のもとへ向かうことが出来たのは、出産からしばらく経った洗礼の日。庭に喧狂していた金切り声を、彼はまだ忘れることが出来ない。
横たわる母親と衛兵。慄然と立ち尽くしている弟。騒がしい女の腕には赤い紐。女が『魔女』と呼ばれる存在であることは、当時のクレイグでも知っていた。
魔女は烏のように何かを啄ばむ。紅唇が小さな腕を持ち上げた時、妹が喰らわれているのだとようやく気付いた。
既往の足は震えていた。だのに転びそうになりながら、剣を抜いて駆け出していた。魔女が、弟を殺そうとしていたから。あの日の少年はただ、家族を失いたくなかったのだ。弟を守り、魔女を殺す。その為だけに必死だった。
クレイグは片腕の肉を噛み千切られ、傷跡と引き換えに弟を守り抜いた。けれど弟はそれから自身を責め、クレイグが宥めても彼の罪悪感は消えなかった。
遠い日の泣き声は止まない。クレイグが抱いたのは激しい瞋恚だ。その牙が捉えていたのは、父親ただ一人。
『──先日魔女にされた使用人は、弟と親しく、弟も彼女に懐いていた。それなのになぜ彼女を魔女にしたのですか。魔女は本来、奴隷や罪人を実験体にしているはずです。なのになぜ……あれは、父上の指示ですか』
『ローレンスは甘やかされてばかりで軟弱。もう少し怒りを知った方がいいと思ってな』
悪びれる様子もない父親に、クレイグは言葉を失いかけていた。威厳の仮面は崩れそうだった。それでも教育がきかと彼を縛り、拳を振り上げぬよう抑えつけていた。
『その、せいで……無辜の使用人が死に、衛兵も失い、母も……産まれたばかりの妹も死んだ……! 魔女の研究などやめるべきだ!』
『魔女は必要なものだ。他国にはない、我が国だけが有する、神の恩恵を受けた兵器だ。魔女の製造をやめるわけにはいかない。何よりアテナ様との約束がある。それを破れば、神の鉄槌が下るだろう』
老いた頬には一筋の雫さえ零れない。煩わしげにクレイグを見下ろしていた。アテナがもたらすのは神に選ばれた特別な力。それを信じ切って心酔する父親に、クレイグは睚眦を突き付けていた。
『父上は何も感じないのか? 家族が死んだんだ。今も弟が……息子が悲しんでいるのに、なんとも思わないのか!』
『悲しいよ。尊い命を失うとは思わなかった。だが、家族を一人二人失ったくらいで考えを変える訳にはいかない。国は私情で動かすものではない。王とはそういうものだろう。私を変えたいのなら情に訴えず説得してみるといい』
妻を、娘をも亡くし、息子に怒鳴られても表情一つ変えない。この男に言葉は届かないと、クレイグは子供ながらに悟っていた。だが頑是ない子供だったからこそ、必ず魔女を排除すると決意した。
それからというもの、クレイグは父に従いながらも己の仲間を増やし続けた。魔女のせいで家族を失った者、魔女のせいで幸せを壊された者。クレイグの傍に置かれているのは、そういった人間が多い。
「──クレイグ殿下。準備が整いました。いつでも港へ発てます」
開かれたチーク材のドアが鳶色に艶めいた。腐敗を知らぬ光沢は美しく、木目に沿って白らかに垂下する。ノックの後に入室をした男は、色素の薄い金髪を深々下げていた。
この男、ブランドンもまさに魔女を憎む者だった。
娘が生まれ、その洗礼時に魔女が現れて、妻を殺されている。狼狽するブランドンの目の前で魔女を仕留めたのがクレイグと衛兵だった。のちにブランドンは子供を教会に捨て、クレイグの部下となっていた。
クレイグは離席し、ポールハンガーに手をかける。鉄製の木には数着のコートがかかっている。一着一着素材を確かめるような手つきで、彼は布地を掻き分けていた。
「すぐに向かおう。……ローレンスも、今頃『神の住む島』に気付いただろうか」
独白は誰にともなく落とされた。そのまま寂然に混ざっていく。けれどもブランドンは緘黙していられない。憤懣で顔を赤らめ、余韻を拾い上げていた。
「『ローレンス殿下』はもういません。当人がそう言ったのですから。奴はただのリアムです。殿下が気にかけてやる必要などありません」
「分かっている」
「あの男……クレイグ殿下への恩を忘れるなど、許せません。殿下のお手を煩わせることなく、あの場で始末してやりたかった……!」
「構わん。罪人はいずれ牢を出るものだ。弟にとって、私への贖罪の時間は終わった。それだけのことだろう」
厚手のコートを羽織り、クレイグは窓際へ歩んだ。ワインレッドのカーテンを軽く押し退け、仄白い庭を眺める眼差し。鋭い瞳は瞬く。彼は空を仰がない。散っていく粉雪を目で追うことすらしない。吐息で曇る玻璃を見つめていた。
千草色の虹彩が弟と重なる。母親の穏やかな目を思わせる。彼はきっと、回想するうちに、妹の目色を知らぬことにも心付いた。彼はふと睫毛を伏せた。
「敵対など、したくはなかったがな」
弟はずっと、クレイグに憎まれていると思っていた。クレイグ自身も、彼がそう思っていることを知っていた。
クレイグは事件直後、彼を責めなかった。だけど弟は罰を求める。それゆえ『兄と目的を共にし、兄に従い、魔女の研究を潰すこと』を弟に約束させた。それを弟の贖罪とし、弟の腕を引いてきた。
──もう、贖罪がなくとも弟は歩けるのだ。
クレイグは人知れず潜思する。
敵にならぬよう、恐怖で押さえつけたのが間違いだった。殺意を覗かせても弟が選んだのは決別。とすれば迷いはないはず。彼が本来の彼として、立ち上がっただけにすぎない。
弟と袂を分かち、数日を経たその胸臆には怒りさえ湧かない。
きっと初めから弟を憎んでなどいなかった。全ては魔女と、父のせいなのだから。
「……弟の選んだ道ならば仕方がない。弟は弟の果たすべきことを、私は私のすべきことをするだけだ」
家族に憎まれても己の意思は曲げない。結局、あの男と同じ血が流れている。
眉根を寄せたクレイグの胸裏に、そんな苦々しい実感があった。
「許せ、ローレンス」
窓硝子に浮かぶ弟の幻影。無感情にも見えたクレイグの横顔は熱を帯びていく。それは決意の発露だった。
一つの選択で全ての人を幸せには出来ない。必ず誰かは傷付く。
選んだ未来で身内が悲しんだとしても、クレイグが決断したのは魔女を消すこと。魔女を生む魔法陣が、この世から消え失せる──そうなれば人体実験は終わる。
クレイグは知っていた。血や涙を一滴も流さず、願いを叶えることなど出来ないのだ。誰にも憎まれずに生きることは、出来ないのだ。
たった一つの心臓と、たった数人の涙で、クレイグの悲願は果たされる。少を切り捨て、多を救う。ただそれだけの話。
クレイグは小棚の上から円筒の瓶を持ち上げた。瓶の下部には腐敗を遅らせる魔法陣が刻まれており、中には鮮らかな心臓が収まっている。陽射しを浴びて華やいだ赤は、二つの瓊玉を思い出させた。
心臓の持ち主たる青年が、懸命に足掻く姿。クレイグにも罪悪感を抱く心はあった。けれども目的を果たすため、必要な犠牲として認識するしかなかった。無辜の人間を苦しめれば苦しめるほど、クレイグは否応なしに父の意念を理解していった。
だが、人を殺し続け、魔女を肯定する父親と自身は違う。
そう信じたくとも、いくつもの眼がクレイグを糾弾する。その中には成功作の魔女もいた。純然な怒りを突き立ててきた少女。『自分は人間なのだ』と訴えた化け物。耳を貸してはいけない。情を抱いてはいけない。魔女は、殺さなければならない存在なのだから。
決意が揺らがぬよう何度も追懐する。悍ましい魔女の姿を。顔の潰れた妹を。そうして強く思い込む。魔女となった時点で、その存在は化け物なのだ、と。たとえ慟哭され、堕涙されようとも、魔女は殲滅しなければならない。でなければ、魔女のせいで苦しむ生者が大勢いる。
薫灼を撥ね退ける足取りは力強かった。革靴は繊維の花を踏み潰す。明かりが溶暗し、扉が閉じてしまえば空寂だけが取り残された。




