初出勤
「ひぃっ!?」
「こら、エリア抱きつくな。歩きにくいだろう。」
「だって!だって!」
横を歩くカガイ父さんに必死にしがみつく。
どんなに振り払われようと固く握った拳を緩める気はない。
歩きにくい?知ったことか!この一大事にそんな些細な問題を気にしてる余裕なんかないんだよ。
「おい、エリア?そんなんで今日から働けるのか?家から一人で来ることもあるんだぞ。」
「そんなこと言ったって仕方ないじゃん!ひぃっ!また!父さん!追っ払って!」
「はぁ~、別にハエなんぞなんもしてこんだろうに。」
「いいから早くっ!」
やれやれとめんどくさそうに空中を仰ぐ父さんの影に隠れながらその様子を見守る。ハエは父さんの手を避けるようにそそくさと私たちの周りを離れ、暗い路地裏の方に消えていく。
「うぅ~、そっちに行きたいなら端からこっちに来ないでよ~」
「ハエにそんなこと言っても仕方ないだろう。ほら、行くぞ。」
「むぅ~…あ、またっ!?父さんっ!!」
「やれやれ……ほら、行ったぞ。」
さっきとは別方向から飛来したハエを再び父さんが払い除ける。
私が気がついたからい良いものの、もし気づかなければ父さんか私に止まっていたかもしれない。ぞっとする。気持ち悪い。そんなことになったら今すぐに帰って着替えないといけない。それから防蝿お化けスーツ(穴空き布団)と一緒に念入りに洗って、洗って…洗っ…てゆーか……
「もう帰りたい」
「おいおい。エリアが働きたいって言ったんだろう。このくらいで音を上げてどうする。」
「このくらいっ!?このくらいって言った!?」
父さんからすればそうかもしれないけど私の小さな心臓は虫を見る度に破裂するんじゃないかってほどびっくりしてるんだよ!間違いなく一瞬止まってるもん。
娘がこんなに怯えてるのを"このくらい"だって?
信じられないっ!
「このくらいだろう。周りを見てみろ。」
そんなデリカシーのない父さんに促されて渋々と周りを見渡す。
朝日を遮るように高くそびえる建物がいくつも視界に入る。
それらは私達家族も住んでいる多階住居だ。5階建てのそれはどれも同じ作りをしていて、サービスエリアで夜光バスを間違えるタイプの私は帰ろうにも正直一人で帰れる気がしない。
継ぎ接ぎされた木材がなんとも不細工な様はボロボロという表現がぴったりで、よくこんなところに住んでいるなと改めて思う。
父さんと私が立ち往生しているのはそんなボロボロ住居に挟まれる形でできた道の上だ。もちろん舗装なんかされてなくてどちらかというと畦道に近い。大通りこそ多少整備(?)されてる気もするが、あみだくじのように無数に伸びている路地裏はとても近づきがたい雰囲気を発している。
この区画が『下民街』と呼ばれるのも頷ける風体だ。
下民街にはまだ早朝だというのにそこそこの数の人達がいた。父さんが「見てみろ」と言ったのは建物や道ではなく彼らのことだろう。
どこかに向かってとぼとぼと歩く人もいれば、機敏に走り行く人もいる。一方でゴザのような物の上に何かを広げている人もいれば、ただ俯いて座ってる人もいる。老若男女。色々な人がいる。
だけど、その誰もが自分に集る蝿を気にかけてはいない。
近づいて来ようが肩に止まろうがされるがままだ。って、あの人ハエ掴んで口に放り込まなかったっ!?気のせい?目の錯覚だと言って!!
「どうだ?ハエなんか"このくらい"だろう?」
「……少なくとも私以外にはね。」
父さんの言う通りどこをどう見てもハエに怯えて大騒ぎしている人なんかいない。私だけだ。
父さんが呆れるのも分かる。
最初は「本当にエリアは虫が嫌いなんだな」って優しい言葉を掛けながら、親切に虫を追っ払ってくれていた父さんも今やその手に力はない。
我が家から歩いてすぐあるという私の仕事候補が未だに見えないのも、もちろん私が父さんの足を文字通り引っ張ってるせいなのも、ご迷惑をおかげしているのも、重々承知している。呆れるのも分かる。
分かるけど、こればっかりは仕方ないんだ。
怖いとか気持ち悪いとか不潔だとか色々理由はあるけど、一番しっくり来るのは生理的に受け付けない。本能が拒絶しているんだ。だからムリっ!!
「本当にどうして皆平気なのっ!?」
もちろん虫がという意味だが、その虫が沸く環境に対しても同じように疑念を抱かずにはいられない。
改めて周りを見れば果物の芯のような物や食べ残しが散乱しているし、向こうには何かよく分からない小動物らしき死骸が朽ちている。極めつけに所々に溜箱の中にいるべきはずの物が所々に落ちている。
(絶対におかしいでしょ!)
その近くで平気そうに生活をしている人達に疑問を抱くのはそんなにおかしなことだろうか?
ふつふつと沸く疑問。だけど、その代わりに別に解けなくて良かった疑問が解消される。
(そりゃあ、部屋の中にあまり虫が出ないはずだよ)
この世界に来てしばらく生活することで疑問は、単純な話、部屋の中よりも外の方が奴等にとって居心地がいいということだろう。奴等にとっての食べ物も住み家も思いがままだ。天国かよ。
だけど、それは私にとっては地獄に等しい。
「もういっそ元の世界に帰りたい……こんなに東京が住みやすいなんて知らなかった。」
田舎に比べると騒がしくあまり好きになれなかった東京も今となっては楽園にしか思えない。
今すぐに東京に帰れるなら私は何だってするよ。
早寝早起きだってするし、週7勤務で残業だって毎日やってもいい。
「やれやれ。何をぶつぶつ言ってるのか知らんがこのままじゃ日が暮れちまう。今日だけだぞ?よっと。」
「きゃっ!?」
違う世界に思考をトリップしていると視界が急に高くなった。
「すぐに着くから腕ん中で顔を伏せてろ。『門』まで行けばマシになるから大人しくしててくれ。次からは自分で歩くんだぞ。」
◆◇◆◇◆
「やっと着いた。」
「なんか…ごめんなさい。」
父さんの腕の中からいそいそと地面に降りる。
見上げた父さんはといえば肩から腕をぐるりと回す。
「重かった?」
「父 親を馬鹿にするもんじゃないぞ?子供を抱えて重い訳があるか。まぁ、普段ならこの半分くらいの時間で着いてたがな。」
「う"っ」
意地悪な事を言いつつ私を見下ろす父さんに頭が上がらない。
虫が怖いと喚いた挙げ句に抱っこで初出勤なんて恥ずかし過ぎる。穴があったら入りたい思いでいっぱい。
この世界に家族以外の知り合いがいないことが唯一の救いだ。
(でも、助かっちゃった。次もお願いしたいけど…どうしよう。)
父さんの服で視界をシャットアウトしたおかげで抱き上げられてからは虫を見ることなく目的地に到着できたのは素直にありがたい。今、お願いしたら断られるだろうし、やっぱり恥ずかしい。なのでひとまず、話題も変えるために父さんから視線を外し、件の目的地を見る。
(へぇ、これは予想外。)
目の前にあった職場は私の想像と違っていた。
てっきり下民街の多階住居と同じように木造のボロかと思っていた。
私の職場候補。それは『門』という名を冠する相応しい様子でそこに建っていた。
レンガで組まれた外壁は見た目から既に頑丈さが伝わってくる。高さこそ2階建てなので多階住居ほどの迫力はないもののその重厚感は段違いだ。四角い外見の真ん中がアーチ状に抜けていて、例えるならフランスの名所である凱旋門のミニチュア版だ。そこから同じくレンガ造りの壁が左右に伸びている。
「…………」
「どうだ?すごいだろう。」
その門と壁塀に見とれていた私に父さんが話しかけてくる。
「え?あっ、うん。ちょっとびっくりしちゃった。父さんの職場も私達の家みたいにボロボロなんだと思ってたから。」
「ん?ボロボロ?……ぷっ。くくく。上民街に入るための『門』がボロボロな訳がないだろう。くく。」
「そ、そんな笑わなくてもいいじゃんっ!?初めて見たんだから仕方ないでしょ!」
急に笑い始めた父さんに食ってかかるが、何かがツボに入ったらしい父さんは私の攻撃なんか意にも介さずしばらく笑っている。
「もう!もう!」
「あー、すまんすまん。さて、と。じゃあ満足したし行くぞ。」
「もう……でも、今更ここまで来て何だけど私やっぱり『門番』なんかできないよ?身体弱いし、途中で寝ちゃうから1日中働けないし、今日だって早起きしたからそろそろ倒れるかもだし。」
目の前の立派な門を眺めつつ、昨晩から抱いていた疑問が大きくなる。それは昨日、仕事から帰ってきた父さんが家族で晩御飯を囲っていた時に発した台詞を聞いたときからだ。
「俺と同じ職場なら大丈夫そうだ。」
私はもちろんのことエルース母さんもカイファお姉ちゃんも首を傾けた。
それも当然。だって父さんの仕事は門番として、門の向こう側にある『上民街』に入る人や物を検閲する。門を通る人物が怪しくないか。また、その荷物の中に怪しい物が潜んでいないかを調べるのだと以前に言っていた。
そんな仕事は大学生時代に味わった就活地獄の時でさえも調べもしなかったから内容なんかよく分からない。けれど、大変な仕事そうなのはひしひしと伝わってくる。主に体力面で。
それを私が?無理でしょ?
この世界の常識がない私の早とちりも考えたけど、母さんとカイファの反応をみるにそう言うわけでもないらしい。
なのに理由を聞いても「門についたら説明する。心配するな」の一点張りだ。
「行くのはいいけど、そろそろ仕事を教えてくれないかな。」
「あぁ。そうだったな。カイファもいないしいいだろう。」
「カイファ?カイファがどうしたの?」
「……カイファがいる所でエリアを"特別扱い"するのもどうかと思ったんだが、余計だったか?」
父さんがポリポリと頬を掻く。
それを聞いて家で仕事内容を話さなかった理由をなんとなく察する。
「あー……えっと。それは……ありがとう。父さん。」
「いや。まぁ。なんだ。カイファは知らなくていいだろう。」
「うん……そうだね。」
私はいわばエリアちゃんの身体の中に入ってしまっただけの偽物だ。それを恐らく察している父さんと母さんは何故だか私を責めることなく、今も私をエリアちゃん本人として扱おうとしてくれている。
だからと言って、まだそれに気がついていない姉のカイファが知るべきかといえばそんなことはない。知らないなら知らない方がいいはず。少なくとも今は。
「…っと、仕事の話だったな。」
「うん!そうだよ父さん!私は何をすればいいの?」
ギクシャクとした雰囲気を払拭すべく二人で明るく振る舞う。
私が特別だって思われる仕事とは何だろう。
カイファだって働いているんだから、働く事自体が特別な訳ではないはずだ。
「エリアに頼みたい仕事は"見張り"だ」
「見張り?それって門を通る人を見張るってことだよね?う~ん……見てるだけでいいならできると思うけど、それって役に立つの?」
確かにそれならこの病弱な身体でもできるだろう。
だけど、門を見張るだけでいいなら父さんに屈強な肉体は必要ないはずだ。その肉体が必要になる事態があったとき。果たして私って必要?
門の下で仕事をしている門番の人達を見れば、やっぱり私には勤まらないだろう事が分かる。皆ムキムキだ。棒切れみたいな私とは雲泥の差。真横にいる同じく雲の上の存在を改めて見る。
「いや、エリアに見張って欲しいのは通行人じゃない。見張ってほしいのは俺の同僚だ。」
「ん?」
どゆこと?




