3 サクラサク 3-8
8
「何かあった?」
秀一はビクッと肩を跳ねさせた。
翌日、あっさり天気は好転した。少し湿り気の残った土も、草花も、校舎も、またきらきらと光を受けて輝きだした。水溜りが増えた分余計に輝いているかも知れない。
少し水気が残っているベンチにハンカチを敷いて無理矢理座っているーー昼過ぎの中庭、楓との昼食。
「何かさ、楓ってすごいよな。色々見えちゃうんだろうな」
見透かされた。
今日は目覚めからいい天気と解った。けれど体が雨の日のように重かった。寝ている間に何かに圧し掛かられ続けたような重さだ。
原因は解っている。明らかだった。昨日の出来事があって少しばかり感傷的な気分に長く浸りすぎたからだろう。
間接的に桜の涙腺を決壊させてしまった後ろ暗さもある。そうと誘導したつもりはないが結果的にそうなってしまった以上、回避出来なかっただろうかと考えなくもない。
ちらと楓を見ると、突き刺すような視線に射抜かれた。
出会ってから度々思う事だが、楓の眼力は心を丸ごと晒しているような気持ちを呼び覚ます。それぐらい真っ直ぐにじっと目を射抜いてきた。
「絵を描くのって、観察する事って言ってた」
楓はそう前置きしてから続ける。
絵を描くには知識が要る。それがどう生えている、とか、どう流れている、とか。物を表現するという事は物を理解する事から始めなければならない。
細かい皺ひとつ、節ひとつとってもそれはその物を構成する大事な要素であり、正確に観察して写し取ることが一歩、その土台を自分の表現に変換するのが次の一歩、だそうだ。
だから楓は観察する癖を付けたらしい。
じっと観察し、目に焼き付ける癖を付けたらしい。それが彼女の並々ならぬ眼力の源流だろう。
秀一の訓練不足のポーカーフェイスが役に立たないのも至極当然の事だった。
「ちょっとね。やり場のない憂鬱ってやつ」
「アイス、食べに行く?」
励ましてくれるという意味だろうか? と秀一は考える。それとも先日の愛奈といい秀一の周りにはアイス信者が多いだけなのだろうか、と疑問に思わざるを得ない。
楓の気持ちは嬉しいのだけれどつい先日食べたばかりだ。食べる事に関して不満があるかというと不満と言うほどでもなく。うーんと唸っていた秀一に「アイスは嫌い?」と質問が飛んでくる。
……それも少し違う。アイスは寧ろ好きな方だと秀一は思う。
「イヤ、嫌いって訳じゃないけど……」
「じゃあ好きなのはおっぱいの方だったんだ」
再び跳ねる肩。想定外の位置からの精密射撃が飛んできた。
楓はつまり愛奈とアイスを食べに行ったのをどこかのタイミングで見たという事だろう。思えばプレゼントの話をした時に妙に女の子という言葉に突っかかってきた気がする。
しかしこれはこれで返答に困る質問だ。おっぱいが好きですと答えたら自ら地雷の海に突っ込んでいくようなものだし、おっぱいの持ち主の方と答えたら愛奈が好きという意味になってしまう。
「私、そんなに大きくない。せいぜいビ……」
「ま、待て待ておっぱいの話から一旦離れよう」
非常に心臓に良くない会話だ。
ビルの隙間風がどうとかビールっ腹がどうとかきっとそういう話だったに違いない。そう秀一は自分に言い聞かせる。ビームが目から出ると言われてもあの眼力ならあり得なくもない。
「……よし、わかった。じゃあこの前お弁当作って貰ったし、今日はアイスを奢らせてもらおう」
どの道暇なのだからわざわざ好意を無駄にする事もないだろう。それにお礼をしたいと考えていたのも事実だし丁度いい機会だとも思う。これ以上泥沼に足を突っ込むのも恐ろしい。秀一はそこが落とし所と考えた。
今日は部活休んでもいいと言い出した楓を窘めたり、愛奈の事を歩くおっぱいと表現した楓を止めたりしたが、結局先に部活が終わった方が連絡を入れるという事で落ち着いた。
そうこうしているうちに放課後がやって来た。
秀一は昨日の桜を思い出すと少し足取りが重くなる。昨日の今日でどういうテンションで話し掛けたらいいものか、という心配がある。
そもそもあまり周囲に言い触らすような話題でもないのだから何も無かったように振る舞うのが妥当な所だろう。けれど秀一はどうもポーカーフェイスに向かない性質らしい。
扉が開いた。
愛奈がニコニコとこちらに手を振っている。玲が布を裁断しながらこちらに手を挙げた。葵はぺこりとお辞儀をして見せる。
桜はーー。
桜は部室の何処にも見当たらなかった。
「あれ? 桜先輩は?」
「花ちゃんはどうやら風邪を引いてしまったみたいですよ? 体調崩したので今日は休みますって連絡がありました……まぁウチは自由参加みたいなところがあるので別に気にすること無いんですけどねッ! あぁ、学校自体も休んでいるようです」
秀一は肩透かしを食った気分だ。けれど昨日の一件が原因ならば秀一は犯人と言っても過言ではないだろう。
お見舞いくらいは行くべきだろうか……などと考えていたのを知ってか知らずか葵が付け加える。
「あぁ、あとお見舞いは要らないって言ってましたね。『特にシュウイチ君には』強く言っておいて欲しいとの事ですが……何かありました? 人が豪雨の中皆さんの為に……身を捧げてお花見出来そうな場所を探して回っていたというのに……何か風邪を引いてしまうような何かがあったのですかっっ!? しかも一番手強そうな花ちゃんと!! 何かが!!」
「秀一君!! あっ、あの後に何かあったんですかぁ!?」
「非道いよ秀一クン!! あんなにボクを視姦しておきながらっ!!」
完全に遊ばれているなと秀一は苦い気分になるが、一先ず「ないない」と否定しておく。他人の気も知らず呑気なもんだと溜息を吐いた。そのいつもの呑気さが秀一にとってある種の救いでもあるけれど。
兎も角、桜にはお見舞い代わりに何かしらの連絡は入れておいた方が良さそうだーー秀一はそんな事を考えながら携帯電話を弄る。
ふと。
「そーとはふっくらー中身はふーわふわ甘くてしーあわーせマカロンでーっす」
声が聞こえる。
秀一はその歌を知らない。確実に記憶の何処にも存在しない。でも判る。
音程的にどこか違う気がする。
愛奈の歌だ。彼女は気分がいいと時折謎の鼻歌を歌い出す。鼻歌ではなく歌唱と呼ぶべきレベルの声量の時もある。
かつて秀一は疑問に感じ、何の歌かと尋ねたが自作と返ってきた。だから誰もその歌を知らない。けれど誰もが解ってしまう。この歌は少し音程が違う、と。
少し、というのは語弊があるかも知れない。基本的には合っていると感じられる。そういう歌なのだと理解できるメロディーだ。歌詞の通り楽し気で、暖かいメロディー。
愛奈の声も非常に愛らしく、癒し系とも牧歌的なとも言える歌であるのは間違いない。
けれど、おそらく一番外して欲しくないところで確実に外してくる。確実に。
それも半音にも満たない程度の微妙な外し方で効果的に突いてくる。それのもたらす効果は抜群にインパクトがあって、圧倒的に残念な感じを演出する。
メロディーの魔術師の残念な方と言ってもいい。本人は無意識のようなので、ある種の天才と言える。
兎も角、そんな上機嫌の愛奈は秀一にマカロンを差し出した。
「はいっ、今日は秀一君の好きなマカロンですよっ!」
以前愛奈と買い物に行った時、リクエストを聞かれてマカロンと答えた事があった。きっとそれに答えてくれたのだろうと秀一は直ぐに解った。
小さな陶器。縁に細く銀の模様が付いていて小洒落た感じのお皿だ。そこに乳白色のピンク、緑、茶色の楕円がちんまりと肩を寄せ合っている。
ちらと見ると目をキラキラと光らせて食べる瞬間を待ち望んでいる愛奈。さながら褒めて欲しいと尻尾を振る犬のような仕草に秀一は思わずくすりと漏らす。
「何か、愛奈先輩って毎日楽しそうですね」
ふぇ? と小さく呻いて小首を傾げる愛奈を見て、秀一は少し反省する。決して嫌味や叱責の意味を込めた訳ではない。
けれど取りようによっては多少の悪意が入っていてもおかしく無い言い回しだということに後から気付いての事だ。感じが悪かったかもしれない。
ーーそんな秀一の思考など杞憂だと直ぐに気付かされる。
「はいっ、毎日きらきらですぅ!」
屈託のない笑顔だった。
あまりにもそれを疑わない実直な表情に秀一は溜飲が下がる思いすら感じた。
「……へぇ、愛奈先輩は悩みとかないのかな?」
玲が入り込んでくる。
秀一はそれとなく話を聞いた程度だが、玲も暫く悩んでいたようだ。興味が湧いたのかもしれない。
ちらと見遣ると葵もシャープペンシルが止まっている。目線は相変わらずノートに向いているようだが、聞き耳を立てている様に感じられた。
「悩みは……正直ありますぅ……愛奈、失敗も多いし……ダメダメなところばかりで……」
小さくあぅぅと零しながら肩を落とす愛奈。ころころと表情の変わる愛奈に比較的多く見られる顔、所謂困り顔を浮かべる。
「で、でもっ、それはそれなんです! お菓子を作るのも、秀一君とお話するのも、きらきらしているからきらきらなんですぅ!」
「何て言うか……ボクには出来ない発想だね。ワケわからないけど、ちょっとわかるよ。けど、多分ボクには出来ない。そういうところがきっと愛奈先輩のすごいところなんだよねー」
やれやれといった表情の玲。けれど穏やかで、感服するような表情だ。
葵がポツリと「マナちゃんは強いですねぇ」と呟く。愛奈はくすぐったそうにはにかんだ。
強い、確かにそうだと秀一も思う。
けれどそのふわふわした強さを一つ一つ理論付けて紐解いて、こういう部分が優れていると説明するのも少し無粋な気がした。きっとそういう計算とかロジック抜きに愛奈は愛奈なのだろうから。
「愛奈先輩、マカロン美味しいよ。ありがとう」
はいっと元気な返事が返ってきた。
ぱっちりとした大きな眼を弓なりにして微笑む愛奈は、ほんのりと頬を紅潮させる。裏表を感じさせない真っ直ぐな笑顔は、秀一の目にはとてもきらきら輝いて見えた。
ーーその日の帰りに秀一は楓とアイスを食べた。
器用にも無表情で楽しそうにする楓ととりとめのない話をした。頭に浮かんだことを言葉にして、された言葉に答えて。とりとめがなさ過ぎてあっという間に時間が過ぎる。
そろそろ帰ろうかと切り出した秀一に「気は晴れた?」と声が掛けられた。あっという間に過ぎた時間の事を思い返すと、その間は晴れていたのかも知れないーーそう秀一は思う。
台風の目のような刹那的な晴れだとしても、その瞬間は晴れていた。
あぁ、そうか。と彼は理解した。これでいいんだ、と思った。
楓は秀一に何一つ悩みの事など聞かなかった。アイスを食べて雑談しただけだ。
楓が覗き込むように秀一の目を射抜いてくる。秀一は「ありがとな」と笑った。
秀一の目には無表情で微笑む楓が映っていた。
ーー今日は天気がいい。明日も晴れるだろう。
秀一は家に帰ると携帯を開いた。『アイス、食べますか?』と打って送信した。