表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
26/29

3 サクラサク 3-7

7


 本、本、紙、紙、本、紙……。

 秀一は自分の机から引き出されるそれらの表紙、或いは文字を見ては悪態を吐きたくなった。

 文芸部から出てきてもう十分は経過しただろうか。ふと宿題のプリントの提出期限が明日だと思い出した。

 まるでありがたい神の啓示のように突然それは脳に蘇ってきた。次に、休み時間にやればいいと高を括って学校に置きっ放しのままだという事も思い出した。そこで焦ってプリントを探し始めたのだが難航。上へ下へと押し込まれた教科書やプリントが邪魔をするためだ。


 結局、一つ一つ引き出して虱潰しに調べるという大掛かりな作業へと発展した。これもまた日頃の成果、ツケの代償というやつだろう。けれどどうにか目当てを引き当て一安心する秀一。

 鞄にプリントを放り、机に出した物を無作為に押し込んだ。反省? それはいつか機会があればするだろう。それは今日ではなかった。


 下駄箱はそんな秀一の机に匹敵する悲惨さだった。

 木製の簀の子を一歩踏み出せば、泥が乾いて引き摺られたような模様、濡れた葉っぱの残骸、水溜り、雨の日の人災と言っても過言ではないだろう。掃除の用務員さんが愚痴を溢す姿が浮かぶようだ。

 ともあれ、そんな中を構わず踏み締めて開け放した硝子扉を潜る。


「あれ? 桜先輩?」


 硝子扉の先は数メートルの軒下になる。チラホラと雨宿りする生徒がいる。傘を丁寧に開いて降雨に飛び込んで行く女生徒、果敢にも雨の中駆けて行く男子生徒……それらの風景に交じって呆然と直立する桜に秀一は気が付いた。


「あぁ、アンタまだ帰ってなかったんだ? 見ての通りよ……油断したわ」


 傘の事だろう。秀一も朝の時点で雨が降っていなかったので正直傘を持ってくるか否か迷った。たまたま秀一の不精で下駄箱に出しっ放しのビニール傘が掛かっていた為、持って来ていた。

 雨は決して弱くない。駅まで徒歩十分位、走っても五分程度と仮定しても濡れ鼠は回避できないだろう。風邪云々は兎も角、女の子には屈辱的かもしれない。


「じゃあ桜先輩、この傘使って下さい。返さなくてもいいですから」


 留め金の外れた不格好な傘を差しだす。桜は「えっ、いいよ別に」と身を固くした。

 一応錆びたり壊れたりはしていない。多少前回の乾かし方が理由でよれよれになった感はあるが。それも雨に打たれたら水で戻したワカメのように戻るだろう。問題ない。


「仮にこれ借りたとして、アンタどうするのよ?」


「大丈夫です。これが無くとも鞄の中に折り畳みの傘が……あれ? ……っかしいなぁ」


 折り畳みの傘、あったはずだった。そもそも一人暮らしを始める前から鞄には常に常備しようと新品の折り畳み傘を忍ばせてあったはずだ。

 プリントや教科書、筆記用具に雑誌……雑多な鞄の中にそれは結局紛れ込んでいなかった。何かの拍子に外に出してしまったのだろうか……記憶に無い。ドヤ顔で切り出してしまった手前、恥ずかしさも倍増だった。

 ……それならば、と秀一は決心する。


「と、とにかく。俺は大丈夫なんで!!」


 猛ダッシュ、置き逃げ作戦だ。

 桜の足元に傘を倒して自分はその場を離脱。流石にこれで桜も傘を受け取らずにはいられないだろう。これで傘を放置し濡れて帰る選択肢を選ぶならば、桜はなかなか筋金入りの強情だということになる。

 正直、多少濡れたところで風邪を引いたりする事はないと自信があったし、濡れて惨めな姿を晒す事も大した事ではない。

 ーーざあざあと騒がしい雨の音に紛れて「あっ、ちょっと!」という桜の声がする。その声を背に猛然と走る。

 

 十五メートルは進んだだろうか。

 秀一はタンと肩を叩かれ足を止めた。髪から細い川が耳の前辺りを通って流れるのを感じた。或いは汗も混じっていたかも知れない。


「バカね。一緒に入ればいいじゃない。……照れてるの?」


 桜だ。

 ーー速い。想定外の速さだ。憮然とした表情の秀一など気にしない様子で手に持った傘を開く。

 一人用ながら若干広めの傘布が秀一の頭の上に差し出された。一緒に桜も入ってくる。

 秀一は文化部ではあるがそんなに鈍足でも無かった。短距離走でも全国平均程度には早かったように記憶していたのだが、あっさりと追いつかれた。軽く、ショックだった。


 桜は「持ってて」と傘の柄と鞄を差し出す。秀一は無言で頷き受け取った。

 ブレザーからハンカチを取り出し、パパッと額に何度か押し付ける。サイドポニーを纏めたシュシュを外して引っ掻くように髪を慣らした。緩やかな波を作っていた細い毛先もすぐに馴染んで黒いロングヘアが出来上がる。

 シュシュを手首に嵌めてハンカチをまたポケットに戻した。桜寄りに傘を差し出していた秀一に甘い香りが飛び込んでくるーー濡れた髪の香りだろう。


「ぶつかったりしたら邪魔でしょ? そこだけ濡れるのも癪だし」


 何をしているんだろうといった表情を読み取ったのか桜が先に説明してくれた。「ありがと」と差し出された手に鞄を渡す。軽い鞄だ。

 肩が触れそうな距離に立って二人は歩き出す。

 こうして並んでみると、秀一が感じていた同じくらいの背丈というのはやや違った。ほんの数センチながら秀一の方が目線が高い。切れ長な目尻、涼し気な眉目はどこか勝気な気性を感じさせる。

 頬骨の上辺りに小さな黒子が一つ。秀一は初めてそれを見た気がした。


「別にカッコつけなくて良かったのに。アンタにそういうの期待してないし」


 公園が見えてきた。石レンガが積まれ、二、三段高い場所に地面が見える。緑色のフェンスから雨水が滴るのが映った。 

 桜がそう口に出すと、細目が緩やかに弧を描く。秀一は立つ瀬が無く背を丸めた。ぼそぼそと「桜先輩が速過ぎるんですよ」と漏らしたが届いただろうか。


「でも、何かそういうの久々に見た気がするわ。どーでもいい強がりなんだけどね」


 くすっと小さく息が漏れる音が聞こえる。桜は前を見ているようで、遠くを見ているようだと秀一に感じさせた。悪びれる様子もない、穏やかな愚痴。否、惚気なのかもしれない。

 きっと桜が見ているのは昨日言っていた『元カレ』とやらの事だろう。


「何かさ、アンタとマナ見てたらちょっと思い出しちゃってさ。中学時代の事とか」


「それって……」


 口に出してから秀一は躊躇う。聞いてしまって良かったのだろうか? 

 愛奈の表情が浮かぶ。きっと辛い何かがあったに違いない事は容易に想像できた。


「そ。元カレ。……兼幼馴染って感じかな。死んじゃったんだ。半年くらい前に」


 秀一は言葉を失う。慰め、違う。励まし、違う。同調、違う。

 頭を掠める言葉のどれもが他人行儀で身勝手で、軽くて、土足で。とても迂闊には選べない言葉ばかりで喉から先には行けなかった。


「肝臓癌だって。最近眠いって言いだしたかと思ったらあっという間に死んじゃった。信じられない位あっさりと、眠ったまま起きなくなったよ」


 声が震え始めていた。桜だってそんなつもりは無かっただろう。ふと、過ってしまった。失った情景、果たされなかった憧憬が。きっとそれだけだ。

 半年はそんなに長くはない。桜も受け入れたと言っていたが、塞いだと思っていた穴から水が零れてしまう事もきっとある。秀一にはそれを止めるような言葉も無く、魔法も無い。


「……ホント、どうしょうもない奴で。カッコつけたがりな奴で。背だってアタシより低いくせにバカの一つ覚えみたいに『桜は俺が守る』って張り切っちゃって……空手だってそう。形は成績いいくせに組手になると全然ダメで……」


「先輩、ごめんなさい」


 秀一は遮るようにそれを口に出すと、ぐいと桜の手を引いた。出来る事などない。掛ける言葉などない。

 電柱に合わせて造られた窪みに桜を押し込む。それしか思い浮かばなかった。

 きっと驚かせてしまっただろう。「何?」と背中から小さく聞こえた。


「少し、そうしていて下さい」


 背中越しに桜が息を飲むのが判る。

 左肩の辺りにおでこが当たった。湿ったブレザーを通して桜の体温が伝わる。

 ーー啜り泣く振動が伝わってくる。言葉はない。


 バツバツと弾けるような音が強い。よく降る雨だ。


 秀一は煤が伸びたような空を見上げた。風が吹いたらそちらに傘を傾け、ただ、空を眺めた。

 相変わらず掛ける言葉が出て来ないのが悔しい。けれど、きっと今更だった。

 秀一には桜の抱えている物は理解できない。きっと、プレゼントと一緒だ。中途半端に踏み込んだ贈り物は届かない。

 腰の辺りから細い指が、白い手首がそっと顔を出す。秀一は鞄を持つ手で、トン、トンとゆっくりそれを叩いた。


 パス、パスと力無く雨が傘を叩く。けれど雨は止まないだろう。


 どれくらいそうしていたのか判らない。長かったし、短かった。

 とにかく空を見上げていた秀一に背中から「うん。もういい」と届いた。同時に肩に乗っていた重みも、脇腹の辺りの温もりも離れていった。

 それを確認してから秀一は一歩横に移動する。気まずそうに桜が前へ踏み出してきた。


「それ、何? 『僕があなたの傘になる』ってやつ?」


「泥除けくらいにはなれたと思うんですけど」


 秀一の足元を覗き見た桜は「ごめん」と呟いた。車が、自転車が撥ねた水で一段も二段も濃い紺に変色していた。もとより跳ね返った雨で靴は浸水していたのだけれど。


「……風邪とか、引かないでよ?」


「引いたらお見舞いお願いしますね」


 たどたどしい物言いだった。けれど落ち着いたのは間違いなさそうだ。

 別段大した会話もなく横を歩く桜を見て秀一は考える。

 どうするのが正解だったのだろう。何て声を掛けるべきだったのだろう。

 結局のところ雲を掴むように何の感触も得られなかった。無力さだけが秀一の心を蝕んだ。

 

 ーー改札で桜と別れた。電車を降りたら直ぐにお店だからと言っていたので傘は秀一が持った。

 

 秀一は思う。

 人はこんなにも悲しさと隣り合わせなんだと。ちょっと触れたら崩れてしまうくらい隣り合わせなんだ、と。

 桜は少しばかり特別かもしれないけれど、誰でも嫌な思い出や泣き出したい過去はある。秀一にも幾つか思い当たるところはある。

 涙は出ないけれど、きっとその存在は何かの拍子に顔を出すだろう。これから先も、きっと。


 雨はまだ止まない。

 秀一は晴れを願って待つ事しか出来ない。きっと、皆そうなんだろう。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ