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2.5 Flower 楠ノ木玲の憂鬱

1


「……ははっ。花屋に花を語りますか」


 コトと音を立てて携帯電話は天井を照らす。

 はしばみ色の髪が、組まれたきつね色の両腕が照らされる。

 瞼にびっしりと影が伸び、彼女の長い睫毛を誇張していた。

 暫くして真っ暗な部屋が帰って来る。


 彼女は頭をもう一度腕の中に埋めて突っ伏した。


「……そうだね。話をしようか」


 楠ノ木玲は一言呟くと、扉を開けた。

 廊下の灯りが彼女の居た部屋に一斉に飛び込んできて、少し眩しい。


 ーー今でも思い出せる、あの時の事を。


「ごめんな、玲、(ひかり)。父さんサラリーマンだからあちこちお約束で行かなきゃいけないんだよ。でも、今度の日曜日は一緒に居られるからな。楽しみにしてろよ」


「父さんが楽しみなんだろー! ボク達と遊びたいんだろ!」


「ははっ!! バレてるか。玲、今度はサッカーしよう。父さん楽しみにしてる」


 あらあら、といった表情で母がくすりと笑う。

 父は出張の多いサラリーマンだった。ーー今思うと全く親バカな父だった。

 学生時代は国体選手にもなった事がある、そんな話を聞いた事がある。

 挨拶がどうとか、年上にはどうとか厳しいくせに怒られた玲が悔しそうにすると頭を撫でてくる。

 厳しいけれど、母にも、弟にも、玲にも怒鳴りつけた事は無かった。

 約束だって軽々に破る父ではなかった。


 けれど、サッカーの約束は果たされなかった。


 母の狼狽は酷いものだったーー飛行機の事故だったと聞いている。

 父は亡骸さえも帰って来られなかったのだ。

 受話器を握りしめたまま呆然と立っていた母の顔は今思い返しても心が痛い。

 その晩は堰を切ったように咽び泣き、何時までもトイレから出て来なかった母。

 その痛ましさに玲も嗚咽した。


 葬儀が行われたけれど、実感は無かった。

 漠然ともう帰って来ないのか、そう思った。

 父の遺体があれば違ったかもしれないが、玲にとって長い出張と変わらない程度の実感しか無かった。


 ご飯を作っている時、テレビを見ている時、布団に入っている時、お風呂に入っている時。

 ふと、音もなく母が涙を零すのを見た時にチクリと心が痛んだ。

 母を見て、涙を見て、しんしんと心に実感が積もるような、そんな呆気ない父との別れとなった。


 ーー新潟に住みましょう。お婆ちゃんと、お爺ちゃんと一緒に。


 そう母が告げたのは四十九日の時だった。

 しきりに「お友達と離れて淋しい?」と問う母に玲は首を振って答えた。

 母が今にも泣きそうな声で聞くからだ。

 母は弱いのだ、とその時は思っていた。


 玲の祖母の家は農家だった。

 母と祖父は朝早くからどこかに出かけて行ってしまう。

 朝食は祖母と晄と三人で食べる事も珍しくなかった。


 やがて生活にも馴染み、友達も出来た。

 母は相変わらず農家の仕事で忙しいようで、一緒に遊んでくれる事は殆どなかった。

 玲も祖母が話し相手になってくれたし、友達もいたから淋しくは無かった。


 ーーそんな生活が続き、小学校ももうすぐ卒業を迎える頃、母が玲を呼んだ。

 大事なお話がある、そう言って。


「玲ちゃん、晄ちゃん、朝日ヶ丘に帰りましょう」


 玲は今の生活に不満など無かった。

 友達と新潟の中学に通い、やがて大人になっていくのだと思っていた。

 母は弱いから、祖母の家にいる方がいいとさえ思った。


 けれどーー


「……ごめんね、たくさん、たくさん待たせちゃったね。でも、もうママ大丈夫だから。沢山お勉強して、ちょっとだけ貯金もして、もう大丈夫だからーーお父さんの居る朝日ヶ丘に帰ろう?」


 母はぼろぼろと大粒の涙を零しながら玲の腰に手を回し、晄の頭を撫でる。

 沢山、傷ついた手だ。

 綺麗にすらりと伸びた指に、腹に、甲に、いびつな傷が残っている。

 もう消えない、治らない傷だ。ーー幾分骨ばった気もする。皺も増えた。

 沢山、挑んだ手だ。


 ボクは、バカだったーー

 晄の頭に乗った手を見たその時、悟った。


 母は玲と晄を育てる為に、一緒に生きて行くために勉強をしに来たのだ。

 女手一つで育てる、その準備のために五年以上もここで歯を食いしばってきたのだ。


「遊んであげられなくてごめんね……一緒に居てあげられなくてごめんね……もう、大丈夫だから。一緒に居られるお仕事、出来るようになったから……」


 母は、弱くなどなかったーー

 込み上げてくる感情に押し流されるように、玲は母を抱いた。

 しゃくり上げるように泣く玲は「ごめんね」と繰り返した。


 ーーこうして、中学の入学に合わせて玲は朝日ヶ丘に戻って来た。

 後から知った事だが、母はこの時期を選んで待っていてくれたらしい。

 店を開くにあたり、父方の協力もあったという。

 沢山の愛情で、玲は朝日ヶ丘にまた住む事になった。


 それから玲は自主的にお店の手伝いを始めた。

 母に返さなければならない。返したい。そう思っていた。


 弟も協力的だ。

 二人でママを支えよう、そう話し合った。


 高校に入学する時期が来た。

 元々高校にも行かずに働くつもりだった玲は、高校に行くよう母にきつく諭され進学を選んだ。

 それならせめて、学校のない時間は店の手伝いをと思った。

 けれど母はそれに関していい顔をしなかった。

 些かのプライドもあったかもしれない。


 ーー母は、玲に普通の学生であることを強く望んだ。


 部活をして、宿題に追われて、恋をして。

 友達と話して、一晩中語って、悩んで。

 バイトをして、旅行をして、笑って。

 失敗して、怒られて、泣いて。


 結局のところ、母は家や母の為に使う時間を玲自身に使って欲しかったのだと思う。


 暫くはアルバイトとして働くことにした玲だが、結局は母の気持ちと自身の気持ちの板挟みだった。

 母の気持ちは嬉しい。けれど玲は母に報いたい。

 そんな葛藤を抱えていたーーある日。

 玲は文芸部と出会う。国穂葵と出会う。

 ……数日間のメールのやり取りだったが、胸中を語る玲に葵はこう返してきた。


 『お母様は玲さんに花を持たせてくれています。玲さんは戴いた花を大切に育てるべきです』


 玲の部屋を出ると、短い廊下がある。母の部屋は突き当たりだ。


 ーー何て言おう。卒業したら迎えに来るよ、かな。

 ボクは女の子なんだけどね。


 扉を三回叩く。

 きっと母はあらあら、といった表情でくすりと笑うだろう。

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