交わされなかった握手
「寒っ! 三月だってのに、まだまだ春は遠いな―」
思わずでた独り言。美里は首に巻いたマフラーを、鼻が隠れるまで引っぱり上げ、寒空の下を両腕を擦りながら歩いている。目的は、公園の自販機。インスタントコーヒーを切らしてしまった。気分転換に、散歩でもしながら缶コーヒーを飲むのも悪くない。
―新しい出会いがあるかもしれないし―なんて。本心はそんな気持ちも期待もさらさらない。
―年齢? 適齢期?―そんな事で焦るのも面倒。とにかく今は、自由気ままに一人を満喫したい。こんな心境を、世間では“やけくそ”と呼ぶのだろう。一年と半年付き合った彼から、三ヶ月前にサヨナラを宣告された三十路女。
―きっとこれが最後の恋―出会った時のインスピレーションは、とんだ勘違いで、思い描いていた未来も儚く散ってしまった。
“まだまだ春は遠い”そんな女の呟きは、やけにリアルだ。いや、三十歳の大台に乗るまで、まだ数ヶ月ある。美里はそう思い直したものの、深いため息を吐き出した。虚しいだけの言い訳が、一体何の慰めになるのか。
「まただ……」
気分転換の為の散歩のはずなのに、ここのところマイナス思考に苛まれる事が多い。一日の終わりに今日を振り返ってみると、独り言とため息のなんと多い事か。そんな事を考えながら、気付けば自販機の前に突っ立っていた。ポケットから取り出した小銭を投入した。
『マイニチオツカレサマデス!』
「どうも」
自販機のアナウンスに、恥ずかしげもなく返事をする。こんな時、自分の年を意識してしまう。美里は缶コーヒーのボタンを押した。
『ピピピピピ……ピーッ! オメデトウゴザイマス!』
「え……? ラッキー、ハハ」
また同じコーヒーを選んでボタンを押した。哀れな女に、神様からのささやかなお恵み? なんだか一段と虚しくなって、笑えてきた。これを飲みながら、公園をひと回りして帰ろう。風邪でもひいて寝込んだら、それこそ虚しいどころじゃない。美里は、足早に歩き始めた。
その途中、ふと立ち止まった。目線の先の、モデルみたいな綺麗な女の子に、釘付けになる。自分より五、六は年下だろう。その子はベンチに腰掛けていても、長身なのが分かる。美人だからショートヘアーも似合っているし、スッピンぽいのに、透き通るような白い肌、ほんのり赤みを帯びて、ぷっくりした唇。それに男らしい喉仏……ノドボトケ?
「男!?」
思わず声に出してしまった美里。その声に気付いた女の子、いや男の子は、たった今まで、伏目がちに携帯を見つめていた姿を振り払うように、こちらに向かって笑顔を見せた。心なしか、目に光るものが見えたような……。
でもそんな事は、彼の眩しい程の笑顔が、直ぐ気にならなくさせた。―まるで天使だ―そんなエンジェルスマイルで、“もうすぐ三十路女”を硬直させたまま、スックと立ち上がり、近づいてくる男の子。
―え……何? 私、何かした?―きっと引きつっているであろう自分の顔。美里の目の前で立ち止まった男の子は、見上げる程の長身。
「どうも」
その言葉と、差し出された左手に、へっ? と、すっとんきょうな声を上げてしまった。さっきの引きつった顔から、間抜け面へと変わった美里を見て、今度は男の子の笑顔が照れた表情に変わった。
「ごめん、なさ。ペンだと思て……」
―なんでカタコト? ぺン?―意味が分からず呆然とするしかない美里。そして、ばつが悪そうに手を引っ込めようとした男の子に、咄嗟に缶コーヒーを手渡した。少し驚いた様子で美里を見る男の子に、しどろもどろしながら言った。
「そこの自販機で恵んで……じゃなくて、当たったからその……どうぞ!あ、もしかしてコーヒー嫌い?」
「いえ、ありがとごじゃいます」
「テヨン!」
声の方を見ると、スーツ姿の男性が走り寄って来るのが見えた。男の子の知り合いらしい。
「勝手に居なくなっちゃダメだろ。行こう」
「ごめなさい」
「ほら、早く」
半ば強引に連れて行かれる男の子。その後姿を、訳の分からないまま見送る美里。その時、男の子が振り向きざまに言った。
「Thank you girl!」
缶コーヒーを頬に当て、ウィンクのサービス付き。これも神様からのお恵みなの? なんて事を思いながら、美里は男の子に笑顔を返そうとしたけれど、それは躊躇した。隣の男性が、こちらに向けてキッと睨みをきかせている。なんなのよ? と思いながら、遠くなっていく姿を見送る。
“ガール”って、いくらなんでもこの年でそれはないでしょ。ま、悪い気分じゃないけど。
「……ックション! ヤバ、鼻水出てきた。帰ろう」
家に向かって歩きながら、おかしな日本語と、エンジェルスマイル美里の頭の中をぐるぐる回った。可愛い男の子を見て、目の保養になったな、ちょっとしたラッキーだったわ。なんて、のんきに思いながら。
これから起ることを予想もせずに……。




