エピローグ あなたを知りたい
「書けません」
その宣言があったのは、茶屋の最奥の半個室でだった。
場所は大きな寺の参道沿いの、下町情緒のある繁華街で、平日休日問わず大勢の人で賑わっている帝都の観光地である。
この茶屋は表通りから少し脇道に入った、地元の通人向けの店で、いささか高めの値段に違わず茶も菓子も美味だった。何より、席ごとに簾で仕切られているため、人目を気にしないで寛げるのもいい。
そんな、帝都の貧乏大学生が日常で自ら行くことはないであろう店の片隅で、
「小説が書けません」
神山さくらは情けない申告を、ゆっくりと硬い声で繰り返した。
それを受けた相手は、座布団に胡座をかいて茶を飲んでいたが、さくらに視線をちらと寄越して湯呑みから口を離した。
「しかしさくら殿。あの花見会からまだひと月も経たないのに、そう焦ることは……」
「いいえ。自分のことなので分かるんです。書けなくなりました。神山桜嵐は終わりです。筆を折ります。さようなら」
「待て待て待て!」
机に広げていた原稿用紙をくしゃくしゃに丸めだしたさくらを、向かいに座るかなたは慌てて制した。
さくらは真顔を崩さずに淡々と紙を手で入念に丸めていたが、伸びてきたかなたの腕に止められると、いきなり机に頭を打ちつけるように突っ伏した。
「もう無理なんですよ! 書いても書いても納得いかないんです! なけなしの才能が枯渇しました! おしまいです!」
「諦めないでくれ! 文豪という人種の一部はみんないつもそんな風に絶望しているだろう! 貴女がたはそういう習性なんだ!」
「黙れ! 私は文豪じゃない! 三文文士のなり損ないです! やはり私の作品は文学などでは無かったんです! もう復讐を終えたら何を書いていいか分かりません!」
そう。
神山桜嵐は燃え尽きていたのである。
因縁の仇だった小沸源造が逮捕され、たいそう手広く悪事を働いていたくせにあっさり捕まった小悪党として新聞上で報道されてから、小沸本人への言及はそこそこに、法整備や警察機構の不足、役人の不正や貧しい地域の人身売買問題についての議論に世間の注目は流れていった。
もはやさくら自身もあの男への興味はなく、何かを激しく恐怖しているような支離滅裂な言動から小沸に精神鑑定がなされるも責任能力が無いとまでは認められず、今は留置所で公判を待っている、という知らせを聞いてもあまり感情が湧かなかった。
ずっと復讐を目標にして孤独な己の心を保っていたのだと、さくらは悟った。その中で、小説を書くことは敵討ちのための手段であり、また現実逃避でもあった。
だが、これからは、純粋に小説のために小説を書くのである。所詮自分は本当の文学を書くつもりはないのだから、という言い訳が通用しなくなる。
怖い。無理だ。出来る気がしない。
「断筆です……断筆……」
さくらはごろごろと行儀悪く机の上で頭を転がす。彼女の分の茶と菓子は盆に乗ったまま手がつけられていない。かなたは、そこから湯呑みを持ち上げて、さくらの手に握らせた。
「まあまあ、落ち着いてくれ。復讐心という燃料が尽きたなら、新たな力の源をゆっくり探っていけばいい。それに、書けないままでいても、いずれ編集の市川殿がせっついて動かしてくれるんじゃないか?」
「そうだ……アキの催促が一番差し迫った危機ですね……」
さくらは促されて茶を啜りながら、開明新聞社に行って暁子に詰め寄った日のことを思い出す。
暁子の数々の裏切りを問い詰め、どういうつもりだったのかと迫ったさくらに、彼女は一切悪びれもせず「金の卵を産む鶏を手放す気はないってだけのことよ」と笑った。
今後ますます神山桜嵐の名を利用して出版業界でのしあがりたい暁子からしたら、さくらに敵討ちで破滅などされては困る。困るが、固い覚悟を決めてしまっているさくらを自分で止めるのは面倒だから、東条財閥の御曹司に情報を売って止めさせよう。有力者に恩も売れて手間も省けて一石二鳥。
と、こういう思考回路だったらしい。とことん自分の利益だけを考える女である。
「サクだってこれからも生活費を稼いでいかなきゃならないでしょ。開明新聞社が専属契約してお給金をあげるから、これからも定期的にウチで書きなさいよ」
約束を破った割に随分虫のいい提案だが、暁子の言うことはもっともであり、さくらは何だかんだ丸め込まれてしまった。この経緯をかなたに報告すると、「薄々思っていたがさくら殿、ものすごくちょろいんじゃないか?」と失礼なことを言われた。
ともかく、銀鳩館の夜を経てもさくらの日常はさほど変わらなかった。守るべき家族を全て失った過去が変わらないのと同じように。
変わった点を挙げるとすれば、まずは二十歳の成人にともない、雪園の苗字を改めて神山姓に復籍した。これからは公にさくら一人が神山家を担うのだ。
もう一つ、変わったことといえば。
「だいたい、書く主題は決まっているだろう? さくら殿、俺をモデルに書いてくれると仰っていたじゃないか」
塩漬けの桜花が乗った上品な桜餅を菓子切で切りながら、かなたがやや不満げに口を尖らせる。そして、ころっと表情を笑顔に変えてこんな勧誘をしてくる。
「華族の生活を取材したかったりしないか? 演奏会でも観劇でもどこでも行けるぞ。あるいはもっと値の張る料亭で食事をしてもいい、仏利西亜料理の美味しいところを紹介できる。百貨店で舶来品を見て回るのもいいな。そうだ、欲しい全集の本なんかがあれば言ってくれ。何でも買おう、資金は出す。何せ俺はパトロンだからな!」
かなたの笑顔のあまりの輝きにさくらは気後れし、何がパトロンだとか色々言いたいことがあるのに「あなた忙しいでしょうが……」と呻くぐらいしか出来ない。
新たに「パトロン」ということになったかなたとは、二週間に一回ほど報告会と称して密会する取り決めになった。
新作が書けたらまずかなたに見せる、という敵討ちへの協力の見返りとして交わした契約は有効だし、輝祥にもあのように言ってしまった手前、なんらかの作品は書かなくてはならない。
正直、目の前に熱心な読者がいるのを意識して書くのは、さくらにはかなり重い圧力だった。失望されたくないという臆病な気持ちも胸に湧いてくる。書くとはこんなにも大変なことだっただろうか。かなたさえいなければ、すっきり筆を折れたのに。
でも、目の前に読者がいるのだ。
ならば書かなくてはならない。
「……そうですね。こうなったら取材です。山ほど取材するしかない」
さくらの呟きを耳ざとく拾って「お! 早速どこに行きたい?」と喜び勇むかなたに、さくらは首を振る。
「何を言ってるんですか。まずはあなたの話を聞くことからでしょう。あなたの為人をもっと知りたいんです」
当たり前のことを言ったというのに、かなたの反応はやや遅れた。笑顔が一瞬するりと抜け落ちて、不意を突かれたような表情でさくらを見つめた後、やっと静かに頷いた。
「……そうか。それもそうだ」
「ちょっと、しっかりしてくださいよ」
「うむ、すまない。とはいえ、俺の半生も内面も特に面白くないからな……」
「別に、あなたをモデルにすると言っても、実際とは色々と違っていてもいいんですよ。希望があれば、あなたの望むように脚色しましょうか? そういえば恋物語の方が好きとか言ってましたね。幼い頃から互いを想ってきた可憐で聡明で高貴な血筋の素敵な恋仲の令嬢がいるとかどうです。あ、もしかして実際にいます?」
「いない! そしてその脚色は不要だ! そうだな、実際と変えてもいいなら、立場や生い立ちは同じでも、いっそ俺自身とは真逆の性格の主人公が見たいな」
「実際のかなたさんと真逆の性格ですか? 文学嫌いで感じが悪くて、行動力がなく頭の回転が鈍く気配りも出来ない陰気な男になりますよ。確かにある意味では文学的な主人公ですけど……」
「……さくら殿。やっぱり貴女は、その、少しちょろすぎるんじゃないか?」
「は? 何がです? ああもう、どうしたら新作が書けるのやら」
益体もない話を続ける二人のそばの、縁側に続く障子の外には、すっかり花の散り終えた桜の木が立っている。
若葉が枝を覆って蒼々と光を透かしている新緑には、散りゆく花の儚さなど忘れさせるほどの、力強い生命の息吹が宿っていた。
文豪、神山桜嵐。
維新からたった三十年の文明開化の世に突如現れた作家。
特に初期作品は旧士族的な書経の教養と仏利西亜文学の影響が強い。長編の『江戸彼岸』は当時から評価が高かったが、後世では短編「徒花」が初期桜嵐の一つの文学的到達点として注目されている。
しかし、人生の長きにわたって精力的に執筆活動を続け、目まぐるしく変わる時代を小説へと落とし込んでいった神山桜嵐の年表は、以後も長く続く。
神山桜嵐の生涯のあらゆる面での支援者となる——そして夫にもなる伴侶・東条彼方との出会いは、まだまだ彼女の作家人生のはじまりにすぎない。




