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残光のシグルド ―黄昏の智慧と竜の威風で、二度目の生を謳歌する―  作者: 和本明子


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004

人間に戻る方法は、後回しだ。

その思考が脳をよぎったのと同時、ジークの巨躯は本能に突き動かされていた。



『――ッ!』



思考よりも先に、強靭な筋肉が爆ぜ、巨大な翼が夜の空気を無慈悲に叩いた。

重力という名の古い借金を一気に踏み倒すような跳躍。

瞬く間に高度を上げた彼は、冷徹なまでの広角視野で眼下の惨状を捉える。


村が燃えていた。

そして跋扈する大小様々な魔獣。


かつてのジークなら、その一匹との遭遇さえ死を覚悟したであろう、歪な骨格を持つ上位魔獣。


それが黒い絨毯のように押し寄せ、小さな平穏を蹂躙している。

逃げ惑う人々の影、血に濡れた悲鳴、そして、リアが住む家の近くにも、無慈悲な死の(あぎと)が迫っていた。


しかし、今の彼にとって、その脅威はもはや脅威ですらなかった。

それは、掃除されるのを待つ埃か、あるいは踏み潰されるのを待つ羽虫に過ぎない。


天から降り立った灰色の影は、流星のごとき質量を持って村の広場へ衝突した。


衝撃波だけで魔獣の半数が文字通り「霧散」し、石畳がクモの巣状に砕け散る。


間髪入れず、ジークは大きく息を吸い込んだ。喉の奥で魔力が超圧縮され、核融合に似た熱量を帯びる。



『消えろ……ッ!』



解き放たれた灰色のブレスは、指向性を持った死そのものだった。

白熱した光が夜を昼に変え、魔獣の軍勢を断罪の炎で焼き払う。


一振りの爪が空を裂けば、そこには大地の裂け目と共に、絶望という概念さえ切り裂かれた空白が残った。


これこそが。これこそが、彼が長年の停欲を経て、地べたを這いずりながら求めた理想の成就。


神にも等しい力の極致。


『……安心しろ。もう、大丈夫だ。私は、ジークだ』


彼は、村の入り口で震える村人たち、そして父の影に隠れて涙を流すリアに、もっとも優しい安堵の言葉をかけようとした。

だが、竜の喉が震わせたのは、慈愛の響きではなかった。


それは大気を物理的に圧迫し、肺胞から空気を強制的に絞り出すような、不気味で重厚な、終末の響き。



「ヒッ……あ、ああ……」



村人たちの顔に浮かんだのは、救済への感謝ではない。


目の前の魔獣を(ゴミ)のように掃き捨てた、その怪物への――自分たちをも容易く食料とし、あるいは踏み潰すであろう、更なる「上位の化け物」への根源的な恐怖だった。



「あ、化け物だ……! 別の化け物が来たぞ!」

「あいつ、魔獣を食いに来たんだ! 俺たちまで食われるぞ!」

「石を投げろ! 追い払え! ここから出すな!」



一人の男が叫び、震える手で拾った石を投げた。

逃げても無駄だと覚悟を決めたのだろう。


それを合図に、恐怖で狂乱した村人たちが、手に手に鍬や石を持ち、英雄(ジーク)を拒絶し始める。



「去れ! 化け物め!」

「あっちへ行け! 来るなッ!」



飛来する無数の石。灰色の鱗には傷一つ付かない。

蚊に刺されたほどの痛みすら感じない。


だが、その一粒一粒が「人間としての居場所」をガラス細工のように粉々に砕いていく。



『……ああ、そうか。私は』



竜の瞳は、悲しげに、そして鋭敏にリアの姿を捉えた。


彼女もまた、恐怖に顔を歪め、ジーク――だったもの――に怯えていた。


自分が救ったはずの世界に、自分の居場所はない。竜という名の孤独は、何者も寄せ付けない絶対の壁だった。


ジークは悲しげに瞳を細めた。

言葉にならぬ咆哮を一つ、夜の(とばり)へと残す。それは感謝を求めぬ守護者の嘆きか、あるいは人間に別れを告げる訣別の鎮魂歌か。


灰色の翼が再び空を打つ。絶望の夜闇へと、彼は独り飛び去った。


後に残されたのは、救われたはずの村の喧騒と、二度と戻れぬ「家」への未練だけ。

ジークは、高空から自分という存在を消し去るように、夜空の彼方へとその姿を消した。


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