005
深い森の奥、月光さえも木々の天蓋に拒絶された静寂のなかで、鏡のように澄んだ泉のほとりに辿り着いた時、彼の肉体に背負わされた負債のような力は、ついに完済の時を迎えた。
地を這うような重低音の呻きが、巨躯の喉から漏れる。
水面に映り込んだのは、月光を吸って鈍く光る灰色の異形――かつてジークがその生涯のすべてを担保にしてまで追い求めた、最強にして至高の竜の姿だ。
それは、恐ろしいほどに醜く、そして残酷なまでに美しかった。
(まあ、自分が望む姿になれたのだ……最後の最期で幸運な人生だったのかもしれない……)
これほどまでの力を手にしながら、その対価として支払ったのは、人間だったすべて。
一人の娘に投げられた小石が、竜の鱗よりも分厚かったはずのジークの自尊心を、いとも容易く粉砕してしまった。
後悔と悲壮、そして使い道のない全能感が混ざり合った溜息をついた瞬間、世界が激しく明滅した。
全身の血管を流れる魔力の奔流が、一滴残らず枯れ果てた「空」の音を立てたのだ。
「――――ッ、あ、がッ!!」
それは変化の解除などという優雅なものではなく、肉体の構造が瓦解していく「崩壊」そのものだった。
月光を弾いていた灰色の鱗が、熱を失った炭のようにボロボロと剥がれ落ち、灰となって風に散る。
膨張していた筋肉は自重に耐えかねて潰れ、内側から凄まじい熱気が噴き出した。
熱い。肺が焦げ、骨が液状化するような感覚のなかで、彼は泥の中へと放り出される。
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どれほどの時間が経っただろうか。
焦げた肉の鼻を突く臭いと、降り始めた夜露が湿った土の香りを引き立てるなか、銀色の灰が積もった山の中から、一人の男が這い出した。
「……はぁ、はぁ……っ、く……」
呼吸の一つひとつが、肺の粘膜をヤスリで削るような激痛を伴う。
ジークは、泥に塗れた震える腕に鞭を打ち、這うようにして水辺へ向かった。
己の最期を看取るための、無慈悲な鏡――。水面に掌を突いた瞬間、刺すような水の冷たさが、焦熱に浮かされていた意識をかろうじて現世に繋ぎ止める。
だが、揺れる水面が映し出した「真実」を見た瞬間、ジークの思考は凍りついた。
「…………なんだ、これは。誰だ、貴様は?」
水溜まりの中にいたのは、深い皺が地層のように刻まれ、人生の疲弊を隠しきれなかった壮年の自分ではなかった。
月光を鮮やかに弾き、白銀の輝きを放つ濁りのない髪。
重力という名の束縛さえも味方につけたような、しなやかで張りのある身体のライン。
そして、何より――かつて絶望と諦念で濁りきっていた瞳が、今は獲物を狙う鷹のように鋭く、剥き出しの生命力に満ち溢れている。
そこにいたのは、魔力と活気が肉体という名の器から零れ落ちんばかりの、青年の自分だった。
「まさか、これが……わしか? 一体、何の冗談だ……?」
ジークは、若々しく瑞々しい己の掌を、まるで他人の忘れ物を見るような眼差しで見つめた。
脳内の魔導知識が、冷徹な利害計算のごとき回答を導き出す。
「変化の杖」は、竜という絶大な負荷を伴う「至高の器」を維持するために、搭乗者であるジークの魂を無理やり適合させようとしたのだ。
老いさらばえ、ガタの来た肉体では、竜の魔力燃焼に耐えられず崩壊してしまう。
ゆえに、最も効率よく魔力を燃焼させられる「全盛期」の状態へと、肉体を強引に再構築したのだろう。
それは神が与えた慈悲深い奇跡か、あるいは死ぬまで戦い続けろと命じる悪魔の呪いか。
ジークは、もはや痛むことのない膝の感触を確かめるように、ゆっくりと立ち上がった。
青年の肉体は、彼がとうの昔に忘却していた「万能感」を、神経一本一本に電撃のごとく叩き込んでくる。
彼は静まり返った森を抜け、かつての住処へと足を向けた。
そこにあるのは、壮年期の残骸だ。
腐りかけた木材には所々カビが生え、主の停滞を象徴するように湿りきっている。
――「ジーク」という男が燻っていた証。
ジークは迷わず、指先をパチンと鳴らした。
紡がれた火の魔法は、かつてないほど鋭く、熱く、一筋の閃光となって火球をあばら家へと放つ。
乾燥した藁の屋根を起点に、火は一気に燃え上がった。
夜空を焦がす炎は、ジークという埃のような過去を、その未練や悔恨ごと焼き尽くしていく。
「さらばじゃ、過去よ。わしは……いや、俺は、新しい人生を歩む」
炎の爆ぜる音を背に、彼は踵を返した。
明日になれば、村には「偏屈な魔術師ジークは竜に食われて死んだ」という噂が、風に乗って流れるだろう。
リアの涙を想像し、胸の奥にチリリと微かな痛みが走ったが、彼はそれを「若すぎる心臓ゆえの過敏」として、冷徹に切り捨てた。
長い歳月で培った「酸いも甘いも噛み分けた狡猾な智慧」。
そして、何者にも屈しない「全盛期の若い肉体」。
さらに、この身の奥底に燻る、すべてを灰にすることが出来る「竜の力」。
これだけの手札があれば、次はもっと上手くやれるはずだ。
「そうだ。名前…て…」
彼は夜明けの予感に震え、白み始めた空を見上げた。
新しい人生には、新しい名前が必要だ。
「……シグルド」
御伽噺に出てくる、無謀にも竜に挑んだ英雄の名前を、ふと口ずさんだ。
竜をその身に宿しながら、竜殺しの名を継ぐ。これ以上の皮肉はあるまい。
「うむ、シグルドだ。それでいいな」
ジーク……いや、シグルドは、溢れんばかりの日差しが降り注ぐであろう街道へと踏み出す。
背筋をかつてないほど真っ直ぐに伸ばし、古びた、しかし今は軽い音を立てる靴の音を楽しみながら。
「さあ、新たな人生を謳歌しようじゃないか。……まずは、この空腹を満たすために、なにか食うものを探すとしよう」
失われた時間を取り戻すのではない。
全く新しい、そして誰よりも鮮烈な物語を綴るために。
青年は、その顔に不釣り合いな老練の笑みを浮かべ、新しい冒険の第一歩を、力強く大地に刻んだ。




