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残光のシグルド ―黄昏の智慧と竜の威風で、二度目の生を謳歌する―  作者: 和本明子


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深い森の奥、月光さえも木々の天蓋(てんがい)に拒絶された静寂のなかで、鏡のように澄んだ泉のほとりに辿り着いた時、彼の肉体に背負わされた負債のような力は、ついに完済の時を迎えた。


地を這うような重低音の呻きが、巨躯の喉から漏れる。


水面に映り込んだのは、月光を吸って鈍く光る灰色の異形――かつてジークがその生涯のすべてを担保にしてまで追い求めた、最強にして至高の竜の姿だ。



それは、恐ろしいほどに醜く、そして残酷なまでに美しかった。



(まあ、自分が望む姿になれたのだ……最後の最期で幸運な人生だったのかもしれない……)



これほどまでの力を手にしながら、その対価として支払ったのは、人間だったすべて。


一人の娘に投げられた小石が、竜の鱗よりも分厚かったはずのジークの自尊心を、いとも容易く粉砕してしまった。

後悔と悲壮、そして使い道のない全能感が混ざり合った溜息をついた瞬間、世界が激しく明滅した。


全身の血管を流れる魔力の奔流が、一滴残らず枯れ果てた「(から)」の音を立てたのだ。



「――――ッ、あ、がッ!!」



それは変化の解除などという優雅なものではなく、肉体の構造が瓦解していく「崩壊」そのものだった。


月光を弾いていた灰色の鱗が、熱を失った炭のようにボロボロと剥がれ落ち、灰となって風に散る。

膨張していた筋肉は自重に耐えかねて潰れ、内側から凄まじい熱気が噴き出した。


熱い。肺が焦げ、骨が液状化するような感覚のなかで、彼は泥の中へと放り出される。



――――――――

――――――

――――

―――

――



どれほどの時間が経っただろうか。

焦げた肉の鼻を突く臭いと、降り始めた夜露が湿った土の香りを引き立てるなか、銀色の灰が積もった山の中から、一人の男が這い出した。



「……はぁ、はぁ……っ、く……」



呼吸の一つひとつが、肺の粘膜をヤスリで削るような激痛を伴う。


ジークは、泥に塗れた震える腕に鞭を打ち、這うようにして水辺へ向かった。


己の最期を看取るための、無慈悲な鏡――。水面に(てのひら)を突いた瞬間、刺すような水の冷たさが、焦熱に浮かされていた意識をかろうじて現世に繋ぎ止める。


だが、揺れる水面が映し出した「真実」を見た瞬間、ジークの思考は凍りついた。



「…………なんだ、これは。誰だ、貴様は?」



水溜まりの中にいたのは、深い皺が地層のように刻まれ、人生の疲弊を隠しきれなかった壮年の自分ではなかった。


月光を鮮やかに弾き、白銀の輝きを放つ濁りのない髪。

重力という名の束縛さえも味方につけたような、しなやかで張りのある身体のライン。


そして、何より――かつて絶望と諦念で濁りきっていた瞳が、今は獲物を狙う鷹のように鋭く、剥き出しの生命力に満ち溢れている。


そこにいたのは、魔力と活気が肉体という名の器から零れ落ちんばかりの、青年の自分だった。



「まさか、これが……わしか? 一体、何の冗談だ……?」



ジークは、若々しく瑞々しい己の掌を、まるで他人の忘れ物を見るような眼差しで見つめた。

脳内の魔導知識が、冷徹な利害計算のごとき回答を導き出す。


「変化の杖」は、竜という絶大な負荷を伴う「至高の器」を維持するために、搭乗者であるジークの魂を無理やり適合させようとしたのだ。


老いさらばえ、ガタの来た肉体では、竜の魔力燃焼に耐えられず崩壊してしまう。

ゆえに、最も効率よく魔力を燃焼させられる「全盛期」の状態へと、肉体を強引に再構築(オーバーホール)したのだろう。


それは神が与えた慈悲深い奇跡か、あるいは死ぬまで戦い続けろと命じる悪魔の呪いか。


ジークは、もはや痛むことのない膝の感触を確かめるように、ゆっくりと立ち上がった。

青年の肉体は、彼がとうの昔に忘却していた「万能感」を、神経一本一本に電撃のごとく叩き込んでくる。


彼は静まり返った森を抜け、かつての住処へと足を向けた。

そこにあるのは、壮年期の残骸だ。


腐りかけた木材には所々カビが生え、主の停滞を象徴するように湿りきっている。

――「ジーク」という男が燻っていた証。


ジークは迷わず、指先をパチンと鳴らした。

紡がれた火の魔法は、かつてないほど鋭く、熱く、一筋の閃光となって火球をあばら家へと放つ。


乾燥した藁の屋根を起点に、火は一気に燃え上がった。

夜空を焦がす炎は、ジークという(ほこり)のような過去を、その未練や悔恨ごと焼き尽くしていく。



「さらばじゃ、過去(ジーク)よ。わしは……いや、俺は、新しい人生を歩む」



炎の爆ぜる音を背に、彼は踵を返した。

明日になれば、村には「偏屈な魔術師ジークは竜に食われて死んだ」という噂が、風に乗って流れるだろう。


リアの涙を想像し、胸の奥にチリリと微かな痛みが走ったが、彼はそれを「若すぎる心臓ゆえの過敏」として、冷徹に切り捨てた。


長い歳月で培った「酸いも甘いも噛み分けた狡猾な智慧ちえ」。

そして、何者にも屈しない「全盛期の若い肉体」。

さらに、この身の奥底に燻る、すべてを灰にすることが出来る「竜の力」。


これだけの手札があれば、次はもっと上手くやれるはずだ。


「そうだ。名前…て…」


彼は夜明けの予感に震え、白み始めた空を見上げた。

新しい人生には、新しい名前が必要だ。


「……シグルド」


御伽噺に出てくる、無謀にも竜に挑んだ英雄の名前を、ふと口ずさんだ。

竜をその身に宿しながら、竜殺しの名を継ぐ。これ以上の皮肉はあるまい。



「うむ、シグルドだ。それでいいな」



ジーク……いや、シグルドは、溢れんばかりの日差しが降り注ぐであろう街道へと踏み出す。

背筋をかつてないほど真っ直ぐに伸ばし、古びた、しかし今は軽い音を立てる靴の音を楽しみながら。


「さあ、新たな人生を謳歌しようじゃないか。……まずは、この空腹を満たすために、なにか食うものを探すとしよう」


失われた時間を取り戻すのではない。

全く新しい、そして誰よりも鮮烈な物語を綴るために。


青年は、その顔に不釣り合いな老練の笑みを浮かべ、新しい冒険の第一歩を、力強く大地に刻んだ。




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