第15話 挑戦!! ゴブリンとらいあすろん!!
ライガスに案内され、俺は魔王軍本拠地への道を進んでいた。いや、正確には進まされていた。
目の前にそびえ立つのは、空へ突き刺さるような断崖絶壁。見上げるだけで首が痛くなりそうな高さがあり、岩肌には足場らしい足場も見当たらない。まさかとは思うが、嫌な予感しかしなかった。
「……ここを登るんですか?」
「ああ。登れ」
ライガスは崖を見上げながら、さも当然のように答えた。
「いや、道とか階段とか、せめてロープくらいは……」
「そんなものはない。自分の手足で登れ」
(脳筋か!! 魔王軍って、全員こんな入隊試験を受けてるのか!?)
あまりにも容赦のない指示に頭を抱えたくなったが、ほかに道があるわけでもない。俺は渋々岩肌に手を掛けた。魔王軍の本拠地へ向かうとなれば、秘密の抜け道や転移魔法のような便利な手段を期待したくなるものだが、現実はただの命懸けの崖登りだった。
「うおっ、危なっ!」
足を滑らせかけ、慌てて岩の出っ張りにしがみつく。尖った岩で手のひらは擦り切れ、腕はすぐに悲鳴を上げ始めた。少し登るだけで息が切れ、下を見れば足がすくむ。対してライガスは、まるで散歩でもしているかのような身軽さで、どんどん先へ進んでいく。
(なんであんな涼しい顔で登れるんだよ……。こっちは今にも腕が取れそうなんですけど!?)
魔族と一般人の身体能力の差を嫌というほど思い知らされながらも、俺は歯を食いしばって岩肌をよじ登った。途中で何度も諦めかけたが、ここで落ちたら本当に終わりだ。金貨五百枚どころか、報酬を受け取る前に人生が終わってしまう。
そして、数十分後。どうにか頂上までたどり着いた俺は、岩場に転がるように倒れ込んだ。
「つ、着いた……。もう一歩も動けない……」
全身から力が抜け、しばらくは指一本動かす気にもなれなかった。せめて五分、いや一分だけでも休ませてほしい。そんなささやかな願いを込めて目を閉じた、その直後だった。
「よし、次は飛べ」
「……は?」
聞き間違いだと思いたかった。
ライガスが顎で崖の向こうを示す。恐る恐るそちらへ目を向けた俺は、広がる光景を見て言葉を失った。眼下には巨大な大河が流れているが、その水面は遥か彼方。向こう岸までの距離も相当なもので、どう考えても人間が飛び越えられるような場所ではない。
「ちょ、ちょっと待ってください! ここから飛び降りるんですか!?」
「そうだ」
「いやいや、めちゃくちゃ高いですよ!? 普通に死にますって!」
慌てて崖から離れる俺に、ライガスは涼しい顔で言い放った。
「安心しろ。俺はここから飛び降りても死なん」
「俺は死ぬんですよ!!」
何を当たり前のように言っているんだ、この人は。そりゃあ、二メートルを超える巨体で岩壁を軽々と登るような化け物なら、これくらい平気なのかもしれない。だが、こっちは特殊能力もなければ、身体を鍛えているわけでもない、ただの元会社員だ。
「下は川だ。うまく落ちれば問題ない」
「その『うまく』ができないから困ってるんですけど!?」
どうにか説得しようと食い下がったものの、ライガスはまるで聞く気がなかった。やがて俺の背後に回ると、何のためらいもなく背中に手を添えた。
「では、行け」
「待っ――まさか押す気じゃ――」
ドンッ!
「ぎゃあああああああああああぁぁぁぁぁぁぁぁ!!」
抗議の言葉は最後まで続かなかった。背中を押された俺の身体は、あっけなく崖の外へ放り出されていたのだ。猛烈な風が全身を叩きつけ、景色が凄まじい勢いで遠ざかっていく。自分が今、落ちているのか飛んでいるのかすら分からなくなりそうだった。
「死ぬぅぅぅぅぅぅ!! こんなの絶対死ぬってぇぇぇぇ!!」
(クソジジイ!! 見てるなら助けろぉぉぉ!! お前が俺を異世界に送ったんだろうがぁぁぁ!!)
空中で必死に手足をばたつかせたところで、何の役にも立たない。眼下の大河がみるみる迫り、俺は自分の人生を振り返る暇もなく水面へと突っ込んだ。
ドボォォォン!!
凄まじい水柱が上がり、全身に強烈な衝撃が走った。身体がバラバラになったかと思ったが、どうやら意識はまだ残っている。俺は必死にもがき、なんとか水面へ顔を出した。
「ぶはぁっ! げほっ、げほっ!」
激しく咳き込みながら、肺に入りかけた水を吐き出す。息をするだけでも精一杯だったが、どうにか川岸まで泳ぎ着き、震える手で岸辺にしがみついた。
「い、生きてる……。俺、まだ生きてるぞ……」
(マジで死んだと思った……。危うく異世界で二度目の死亡を迎えるところだったぞ。しかも今度は事故死ですらない。完全に突き落とされたんだけど!?)
全身ずぶ濡れのまま、俺は荒い息を整えながら岸辺を見上げた。そこには、腕を組んで平然と立っているライガスの姿があった。まるで、少し遅れてやって来た部下を待っているだけのような顔である。
「ほらな。死なんと言っただろう」
(いや、殺しかけたのお前だからな!? なんでそんな得意げなんだよ!)
もちろん、そんなツッコミを口に出す余裕などなかった。悠真は全身ずぶ濡れのまま、ただひたすら生きていることに感謝していた。
――しかし、地獄はまだ始まったばかりだった。
翌日からは夜明けとともに歩かされ、山を越え、谷を越え、川を渡り、日が沈むまでひたすら進み続けることになった。休憩らしい休憩はなく、水を飲むために数分立ち止まれる程度。ライガスにとっては当たり前の行軍らしいが、体力も筋力も一般人並みの悠真には、もはや拷問でしかなかった。
夕日が山の向こうへ沈む頃には、足の感覚もすっかりおかしくなっていた。棒どころか丸太になったような足を引きずりながら、悠真はついにその場へ膝をつく。
「ま、待って……もう無理……。足が……俺の足じゃない……」
声を出すのもやっとだった。足を動かそうとしても、身体が言うことを聞かない。どうにか顔を上げると、先を歩いていたライガスが振り返り、意外そうに片眉を上げた。
「ほう。途中で倒れると思っていたが、根性だけはあるようだな」
(根性の問題じゃねえよ……! こっちはもう限界なんだよ……!)
そんな本音を言えるはずもなく、悠真は震える腕を持ち上げ、親指を立てた。青白い顔に無理やり笑みを浮かべ、最後の力を振り絞る。
「じぇ……じぇんじぇん……だ、だいじょおぉぶでしゅ……」
自分でも何を言っているのか分からなかった。もちろん、ライガスに伝わるはずもない。言い終えた直後、悠真の身体は糸の切れた操り人形のように前へ傾き、そのまま地面に倒れ込んだ。
バタッ。
「……全然大丈夫ではないな」
ライガスは倒れた悠真を見下ろし、呆れたように息を吐いた。返事はない。完全に意識を失っているらしい。仕方がないとばかりに襟首を片手で掴むと、荷物でも運ぶように軽々と持ち上げた。
「うぅ……金貨……五百枚……」
ライガスに担がれた悠真は、意識を失ったまま何やら幸せそうに寝言を漏らしていた。
「……金貨だと?」
聞き捨てならない言葉に、ライガスは思わず眉をひそめる。つい先ほどまで人間への復讐を熱く語っていた男が、気を失った途端に金の夢とは、いったいどういうことなのか。
「にーと……最高……」
「……ニート?」
聞き慣れない言葉に首を傾げたものの、問いかけたところで返事があるはずもない。悠真は相変わらず夢の中で何かを呟いている。
ライガスはしばらくその寝顔を眺めていたが、やがて小さく息を吐いた。
「……妙な奴だ」
人間への復讐を誓う姿には、それなりの覚悟を感じた。だが、こうして見る限り、どうにも締まらない男である。もっとも、だからこそ興味が湧くのかもしれない。
ライガスは再び歩き出し、悠真を担いだまま夜の山道を進んでいった。




