第六話 マエストロの友達
オルバルド帝国のある街で野外コンサートを開催した日。マエストロはふと気がついた。
観客の中に、このごろ必ず見かける顔がある。本人は顔をふせ、目立たないかっこうをして、かくれているつもりみたいだけれど。ある時は観客席の一番後ろ、ある時は真ん中、ある時は立ち見をして、必ずマエストロたちの演奏をじっと聴いている。
それは、まだあどけない顔をした女の子だった。額にバンダナを巻き、ボロボロの服を着ている。演奏が終わると、彼女は小さく拍手をした。そして、さっさと立ち上がり、その場を去ろうとした。
「後はよろしくね」
マエストロはオーケストラのリーダーにささやき、その子を追った。
すぐに追いつき、声をかけると、少女が振り返った。うす茶色の瞳がじっとマエストロを見上げる。浮かぶ表情は固い。きゅっと結ばれた口元を、風にあおられた長い黒髪が隠した。
「いつも聴きにきてくれてありがとう」
マエストロがにこにこと笑いながらお礼を言うと、少女は黙ってうなずいた。
「楽しんでもらえたかな?」
マエストロがそう尋ねたのは、当たり前のことを確認するつもりだった。けれど、予想に反して、彼女は首をはっきりと横に振った。
「おや、どうして?」
マエストロは眉を上げ、また聞いた。少女はちらりとマエストロの後ろに視線を投げ、無言で立ち去った。
「あ、ちょっと」
「マエストロ」
後ろからマエストロを呼んだのは、陸軍将校のダミアンだった。
「コンサート、ご苦労様でした」
「ああ、はいはい。魔法の調子はどう?」
「上々です」
「それは何よりだね」
ダミアンは唇をゆがめ、首をかしげた。
「今しゃべっていたのは、お友達ですか?」
「ちがうよ。最近よく見かけるお客様」
「そうですか。――では、あちらへ。打ち上げの席を用意しておりますので」
「ああ、ありがとう」
マエストロは大人しくダミアンについていった。
オルバルドでも、猫は人気者だ。行く先々で、マエストロが演奏会の指揮や練習の指導をしている間、フラットは子どもたちと遊んでいた。漆黒の毛皮をつやつやと光らせ、もう子猫とはいえないほどすっかり大きくなったフラットだが、相変わらず疲れた時はマエストロの肩や胸の上に乗って移動するのが好きだ。重いとマエストロが文句を言おうがお構いなしである。
ある日、マエストロは魔法使いたちの食事会に招かれた。飾りつけから、カトラリーに、セーブされる料理までふんだんに魔法が使われた高級レストラン。ブリキのおもちゃのようによちよちと皿の上で動くアミューズに、口に入れるまで焼きたてのままのバターつきパン。メインディッシュの肉と共に付け合わせの花びらを口に運ぶと、ほろほろと甘じょっぱいソースに変わった。当たり前の顔をして噛みながら、いつまで経っても慣れない食感だと思う。
何人かの魔法使いが連れてきた子どもたちが、大人たちのテーブルから少し離れたところで遊んでいたが、そのうちマエストロの膝に乗るフラットに目をつけた。
「猫だ!」
「そうだよ」
子どもたちが集まってきたので、マエストロはにっこりしてフラットを見せた。
「フラットだよ。なでてあげてね」
「フラットー」
「こいつ、何か芸する?」
「さあ、どうかな」
不意に、フラットが「ぎゃん!」とさけんだ。一人の幼い子が、フラットのしっぽを引っ張ったのだ。
マエストロは、子どもの手をしっぽからやんわりと遠ざけた。
「痛がるから、やめてあげてね」
「えー」
「ね、フラットと遊んでいい!?」
「うーん……」
その時、フラットが立ち上がり、するっとマエストロや子どもたちの腕の間をすり抜けて、レストランの外へ逃げてしまった。
「あーっ、行っちゃった」
子どもたちは残念そうな顔をしていたが、じきに別の遊びを始めた。
食事会が終わり、レストランを出たマエストロは、いつものようにフラットを呼んだ。
「おーい、フラット? 終わったよ」
けれど、返事はない。
「フラット、どこにいるの?」
マエストロは建物の周りを探し回った。レストランの表は、立派な建物と華やかな通りだ。しかし裏に回ると、壁は汚れ、でこぼこの道にはごみが散らばっている。
マエストロは苦笑いした。
「ここは、変わらないな」
生ゴミを漁っていた野良猫が、マエストロを見るなり毛を逆立ててうなった。
「やあ、うちのフラットを見なかった?」
野良猫は、またフーッと威嚇する。
「知るもんか、って言ったわ。その猫」
美しい声が路地に響いた。
見ると、コンサートを聴きに来たあのバンダナの少女が、腕に黒猫のフラットを抱いて、歩いてくるところだった。野良猫を見てフラットが身を縮めた。野良猫は、かじっていた魚の頭をくわえ直し、どこかへ走っていった。
「はい、あなたの猫でしょ」
「あ……ありがとう」
フラットを渡す時、少女は付け加えた。
「いきなりしっぽを引っ張られて、痛かったって。あと、あなたが子どもたちを追い払ってくれなかったから、がっかりしたんですって」
フラットが少女の言葉にうんうんとうなずいている。
「君は、猫の言葉が分かるの?」
少女はうなずいた。ちょっぴり誇らしげだ。
「猫だけじゃない。生き物の言葉なら、たいてい」
「すごいね。すてきな魔法だ」
少女は、マエストロを見上げて口を開いた。けれど、何も言わないままに、またつぐんでしまった。
「君の名前は?」
「…………マヤ」
あまり聞いたことのない名前だなと思ったが、マエストロは口に出さなかった。
「マヤ。明日は、西ゴフ地区の公園でコンサートをするよ。ぜひ聴きにきてね」
マヤは小さくうなずいた。
オルバルドに来てから、コンサートの予定はみっちりと詰まっている。陸軍のダミアンから渡された予定表には、一日の余暇もない。ここで吹奏楽を演奏したかと思えば、今度は隣の地区でオーケストラ。同じ日に、軍人たちの前で合唱。こんなにタイトなスケジュールである理由は明白、魔力の枯渇があちこちで頻発しているからだ。
マヤと別れた後、マエストロは楽団の練習場へと急いだ。ずいぶん時間をロスしてしまった――そう考え、らしくないなと我に返る。オルバルドにしばらくいると、考え方まで彼らに似てきてしまうらしい。
練習場までの道のりの間に、新しい工場をいくつも見かけた。灰色の漆喰で壁を塗り固め、面白みのない四角形の建物と窓。三本の煙突から絶えることなく流れ出る、黒い煙。
何度も通ったことのある道だが、数年間の間にすっかり様変わりしてしまった。昔はだだっ広い田畑があった場所は、全て工場や軍事施設にとって変わり、人々は晴耕雨読をやめて毎日必死に働いている。
マエストロには、その是非を問う気はない。国の数だけ、そしてそこに生きる人の数だけ生き方の差異がある。誰かにとって大切なものは別の誰かにとっては無価値。オルバルドという国の目指す未来は、ラポールともクロスランドとも違う。
マエストロはただ密やかに願う。進歩を続ける国の未来にも、音楽の居場所が残り続けることを。
「明日も、あの子が来るといいな」
マエストロのつぶやきに、フラットが鳴いて賛成した。
コンサートは大成功だった。観客の盛り上がりは今までで一番、ソロ(一人で吹くこと)はどれも完璧だった。魔法無しとして普段苦境を強いられている楽団員たちにも、笑顔がもどっていた。その無邪気な表情を見ていると、いつも温かい気持ちになる。彼らのために自分はオルバルドに来たのだ、と改めて思った。
コンサートの後は、練習場でささやかなパーティーをした。手作りの料理や、マエストロが差し入れたお菓子を机に並べ、お茶で乾杯をした。
「今日のコンサートは、よかったですね」
「ええ、まあ」
「僕ら、もしかしたらオルバルド中で一番上手いかも」
はしゃぐヴァイオリン奏者に、コントラバス奏者の女子が白い目を向ける。
「調子乗っちゃって」
「だって、そうでしょ。この前のオーケストラ・コンクールだって金賞だったしね。ね、マエストロ!」
マエストロは微笑んだ。
「いい線いってるとは思いますよ」
これまたいつものことだが、賞賛を当たり前だと思ってしまうといつしか油断が生まれ、質は落ちてしまう。だからマエストロは手放しでほめることは滅多にしない。
人混みの中からフラットが抜け出し、扉の前で鳴いていた。マエストロも立ち上がり、扉を開けてやった。
用を足し終え、後ろ足で砂をかけるフラットに話しかけた。
「あの子、来てたかな」
演奏が始まる前にざっと探した限りでは、彼女の姿は見えなかった。だが、客の数がそれなりに多かったため、まぎれてしまったのかもしれない。
フラットがにゃあと鳴き、歩き出した。見送っていると、何度も振り返り、マエストロを呼んだ。
「なになに、どこに行くの」
フラットが向かったのは、コンサートの会場である公園だった。舞台はすでに撤去され、さびた遊具や皇帝の像ばかりが残っている。
フラットが像の後ろに回り込み、鳴いた。
「どうしたの……おや」
フラットについていき、像の後ろでマエストロはおどろいた。マヤが、ひざを抱えて地べたに座っている。
「マヤ」
呼びかけると、マヤははっと顔を上げた。マエストロに気づくなり人差し指を口にあてた。
「静かにして!」
「……どうしたの?」
「見つかっちゃう」
「見つかるって、だれに」
数人分の声と足音がした。振り返ると、公園に若者たちの集団が入ってくるのが見えた。
「いたぞ!」
彼らは像の後ろにいたマヤに気づくなり、駆けよってきた。その手には杖や剣がある。
マエストロはとっさにマヤを背中にかばった。フラットがぴょんとマヤの頭の上に乗った。
「どけよ、魔法無しのおっさん」
マエストロは、杖を構えた若者たちに笑いかける。
「どうしたの。たくさんで、一人の子を追いかけてるの? 物騒だなあ」
「あんたにゃ関係ないだろ!」
「あるよ。だってマヤは自分の友達だ。ね、君たちさっき吹奏楽の演奏を聴きに来てくれてたよね?」
「それが何だよ」
「自分はね、楽団の魔法無しのみんなとも友達だし、このコンサートを企画してくれた軍隊の皆さんとも友達だ。だから、せっかく演奏を聴いてくれた君たちとも仲良くなりたいな」
ね、と右手を差し出され、若者たちは何が何だかよく分からないままに握手をした。そして、ぽんと肩をたたかれると、毒気をすっかり抜かれた顔で帰っていった。
うずくまったままのマヤが、マエストロをじっと見た。
「どんな魔法を使ったの?」
「魔法じゃないよ。ただ、思ったことを言ってみただけ」
フラットが鳴いた。
「今なんて言った?」
「変な人でしょ、って」
マエストロは黙ってフラットの頭をこづいた。
「あの子たちはだれ?」
「知らない」
「知らない人たちなのに、追いかけてきたの?」
「そう。ずっとそう。みんな、わたしのことを捕まえようとするの」
どうして、と言いかけ、マエストロはのみこんだ。マヤは目をふせ、フラットの毛皮に顔をうずめた。
「お父さんやおじいちゃんは、軍隊に殺された。お母さんもおばあちゃんもおばさんもお姉ちゃんも、捕まっちゃった。友達も、どこにいったのかわからない」
わたしが最後の一人なの。マヤはそうつぶやき、バンダナをとった。額に見知らぬ文字が彫られている。
「だから、軍はわたしを探し回ってるの」
「そうだったのか」
マエストロはしゃがみこみ、マヤに手を差し出した。
「捕まらなくて、本当によかった。おいでよ。安全なところへ行こう」
マエストロがマヤを連れて行ったのは、魔法無したちが住む町だった。オルバルドでは、魔法使いと魔法無しが住む場所ははっきりと分けられている。ラポールやクロスランドなどとはちがうのだ。
フラットをマフラーのように首に巻きつけたマヤは、おどおどと辺りを見回した。
「大丈夫、この町にいるのは皆自分の友達だからね。胸を張って。堂々と歩きなさい」
フラットが『そうそう』と言った。
町の代表は、自分の家で本を読んでいたが、マエストロと少女を見て目を丸くした。
「マエストロ、その子は……」
「マヤ。最近知り合ったんです。ねえヨゼフさん、この子、ひとりぼっちなんだって。この町に住んでもらう訳にはいきませんか?」
ヨゼフはマヤのおでこに入った紋章をじっと見つめた。そして、首を振った。
「いくらマエストロの頼みでも、それはできません」
「どうして?」
マエストロが怒ったように聞いた。代表は、まずマエストロとマヤに、イスに座るようすすめた。それから、静かな口調で言った。
「マエストロ、あなたがオルバルドのニュースについてどれぐらいご存じか分かりませんが……一ヶ月前、ソーガという自治区が、地図上から消されました。オルバルドの南端にある、もともとは一つの小さな国だった地区です。おでこに特徴ある紋章を入れ、動物と言葉を交わす特別な魔法を持った人々も、オルバルドの国民となりました。地区は数年前に併合され、ある程度の自治を許されながらも、軍の監視下に置かれていました……まあ、我々と似たような立場ですね」
ヨゼフはちょっと笑った。マエストロもマヤも、つられなかった。
「ところが、今年に入って事態は大きく変わりました。ソーガ自治区内に、とても貴重な資源が見つかったそうです。さっそく採掘隊が派遣されました。けれど、その小隊と住民の間で争いが起こり、結果、住民のほとんどが軍によって殺されてしまいました」
ヨゼフは、そう言った後で、きょろきょろと周囲を見回した。
「ソーガ自治区のあるあたりは国境も近く大事な場所である上に、とても役に立つ資源が見つかったので、軍は直接その地域を統括したいと考えたのでしょう。ソーガ系住民の絶滅を理由に、自治区の解体を宣言しました」
「絶滅? でも、今の話で言うと、マヤはソーガの子なんでしょ。まだ生きてるじゃないですか」
マヤが、ぎゅっと拳を握りしめた。ヨゼフが苦笑いする。
「だから、軍はソーガの生き残りを目の色変えて探しているんですよ。ソーガの民が生きていて、その上近隣国にこの国の悪行を訴えでもしたら大ごとですからね」
分かるでしょう、とヨゼフはマエストロに念を押した。
「我々魔法無しの立場がいかにもろく、危ういものか。だから……彼女に同情はしますが、かくまうことはとてもできません」
マエストロは、ため息をついた。
「結構です、よく分かりました。行こうか、マヤ。とりあえずラポールまで出よう」
「それはできないでしょう」
ヨゼフがあっさりと言った。
「できないですって?」
「申し訳ありません、マエストロ。私は自分たちの生活を守ることが何より大事です」
その言葉が終わるか終わらないかのうちに、部屋の扉が開き、ダミアンと他数人の軍人たちが入ってきた。マヤが真っ青になり、立ち上がった。フラットは彼女の肩から飛び降りて、ダミアンたちに向かってうなる。
ダミアンは、杖を抜き、マヤに突きつけた。それから、マエストロにいんぎんな口調で言った。
「マエストロ。ご協力、感謝いたします。あなたのおかげでソーガの生き残りを追い詰めることができました……」
「ま、待って。マヤをどうするつもりですか?」
「さあ。あなたは知らない方がいいでしょう」
ダミアンは口のはしをつりあげた。
「明日も、コンサートの予定が入っています。どうぞあなたは、魔法無しのお友達と一緒に、おいしいものでも食べて、楽しくお過ごしください。いつもそうしていたように」
マエストロは、黙ってマヤを見た。怯えた表情の彼女が、じっと見返した。ついさっき、友達だと自分自身が呼んだ少女。
マエストロは、ポケットから一本のホイッスルを取り出し、ためらいなく吹いた。
ものすごい音がして、ヨゼフの家の屋根がくずれた。頭を押さえ、逃げ惑う軍人たち。ダミアンの放った魔法が、マヤの後ろの壁を砕いた。
「こっちだ!」
マエストロはマヤを抱き寄せ、見上げた。屋根がくずれた後からのぞく空を、緑の巨大なつばさが覆い隠した。
代表が、自分の机のそばで気絶していた。マエストロは「ごめんね」とさけび、財布から金貨をばらばらとまいた。天井の穴から、とげつきのしっぽがたらされる。マヤとマエストロはしっぽにしがみついた。フラットがにゃごにゃごと文句を言いながらとげの一つによじ登る。
「ラポールへ!」
マエストロがそう命じた瞬間、迎えに来たドラゴンは町長の家から飛び立った。
ドラゴンの背中で風を受けながら、マエストロは思った。らしくない。こんなこと、普段の自分はしない。権力側を敵に回すなんて。
ドラゴンのつばさなら、ラポールまでは半日足らずで戻ることができる――そうマエストロは思っていた。だが、国境付近の森の上で、ドラゴンは忌々しげなうなり声を上げてぐるぐると飛び回った。
「国境には……きっと、魔法の壁が」
マヤが息も絶え絶えにつぶやく。
「そうか。関所破りを防ぐためだね」
遠くから、甲高い鳴き声が聞こえた。見ると、数十頭のドラゴンが追いかけてきていた。きれいな横並びで飛ぶ様子に、マエストロはうめいた。
「あれは野生のドラゴンじゃないな。追っ手だ」
それから、ドラゴンに向かって指示を出した。
「もういいよ、ドラちゃん。どこか森の中で下ろして、後は全力で逃げて。奴らが狙っているのは俺たちなんだから」
マヤが震える。
「きっと、すぐに見つかるわ」
「どうかな。森は、思っているよりもずっと深いよ」
森の中を歩きながら、マエストロはまた思う。やっぱり、自分らしくない。ここから先は何の計画も、あてもない。勝てない勝負は決してしなかったマエストロなのに。
風で重たい木の枝が揺れ、二人の顔を叩いた。
頭上で小鳥がにぎやかに鳴いている。
「マヤ、あの鳥たちの言葉は分かる?」
マヤはしばし耳を澄ませ、答えた。
「お腹がすいた、とか、もうすぐ夜になる、とか」
フラットが小鳥たちを見上げ、歯を鳴らした。
「どいつから食ってやろうか、って」
マエストロはフラットを抱き上げた。
「お腹壊すよ、フラット」
マヤが笑う。
「フラットは、ネズミとかは捕まえないの?」
「捕まえないな。自分が泊まるところには、大抵ネズミなんていないから。……ああでも、一度、すごくボロい宿に泊まったことがあったな……」
ラポールの場末の宿屋を思い出し、なつかしく思った。あの時の自分も、「らしく」なかった。猫のために、わざわざランクを落としたホテルに泊まって。リゴの子どもたちと一緒に、泥棒と戦って。
「自分らしいとか、らしくないとか、どうでもいいことだったね」
マエストロのひとりごとに、マヤは気づかなかったようだ。右の耳に手をそえて、じっと動かない。
「どうかした?」
「しっ! ……」
マヤは、つぶやいた。
「だれかが、呼んでる!」
マエストロはフラットと顔を見合わせる。
「こっち、こっち、こっちに来てって……そう繰り返してる。すごく小さい声だけど……」
マヤが耳を澄ませながら歩いていくので、マエストロたちもついていった。
「あ」
木の上から、一匹のりすが降りてきた。そして、マヤの顔を見て、身をひるがえす。
「呼んでいたのは、あのりすかな?」
「うん、きっと。行こう!」
二人は、りすを見失わないように目をこらしながら進んだ。マエストロの腕の中のフラットが、下ろせともがく。
「だめだめ。下ろしたら、りすを食べちゃうでしょ」
だんだん暗くなってきた。一メートル先も見えなくなってきたころ、マヤはとうとう追跡をあきらめて、その場に座り込んだ。初冬の野外はかなり冷え込む。マヤのひざの上にフラットをのせ、マエストロも草の上に腰を下ろした。
「カバンも持ってくればよかったな。マッチや携帯食料が入ってた」
つぶやくと、マヤが自分のポケットを探り、あめを一粒くれた。
「ありがとう。おいしいね」
「うん」
「どこで買ったの?」
「お母さんが作ってくれたの。最後の一粒」
マヤはフラットをなでながら、マエストロに尋ねた。
「どうして、わたしをかばってくれたの?」
マエストロは微笑んだ。周囲はすっかり暗かったので、マヤには見えないだろう。
「どうしてかな。自分でも、よく分からない」
十秒ほど経ってから、付け加えた。
「そうした方が良いと思ったからかな」
マヤが顔を動かす気配がした。
「いつも、そうなの?」
「どういうこと?」
「いつも……そうした方が良いと思うから、魔法使いのために音楽をするの?」
マエストロはまばたきをした。月が出て、彼女の真剣な表情が白く浮かび上がった。
「あなたの音楽で、魔法使いが魔力を取り戻す。みんな知ってるわ。それで、また魔法を使えるようになった彼らは……わたしの家族を殺したり、わたしをいじめるために魔法を使う」
マヤはマエストロの胸元のシャツをつかみ、訴えた。
「わたしたちをいじめる奴のために、あなたは音楽をするの?」
マエストロは、しばらく黙っていた。かわりにフラットが、ごろごろとお愛想のようにのどを鳴らす。けれどそれはただの時間稼ぎだ。マヤの問いに答えるのは、マエストロ自身でなければならない。
マエストロは、言葉を探した。彼女をなぐさめることができ、なおかつ自分のことも弁護できる言葉を。けれど見つからない。いつもぺらぺらと回るはずの舌が、なかなか動かない。
自分が音楽に関わっているのは、楽しいからだ。そして、みんなにも楽しんでほしいから。みんなはみんなだ。そこに魔法無し、魔法使いの差別はしたことがないし、するつもりもない。
けれどいつからか、正確には思い出せないほど昔に、自分の音楽にはそれ以外の意味ものるようになった。自分が指揮をする音楽が、魔力を失った魔法使いを救う。魔法使いに虐げられた魔法無しを救う。自分の動向が、政治的な材料になる。そして――自分の音楽が、マヤたちを間接的に追い詰める。
それが本当に自分の望んでいることなのか。これまで考えもしなかった……いや、あえて考えないようにしていた疑問が今、マエストロの目の前に立っている。
「自分のために。俺は、自分自身を満足させる、ただそれだけのために、音楽を愛しているんだよ」
やっとマエストロがそう言った時、マヤは目をつぶり、軽い寝息をたてていた。フラットも、むにゃむにゃと寝言を言っている。マエストロは笑い、自分のコートをかけてやった。
みつを溶かしたあめの味が、まだかすかに口の中に残っていた。
次に目を覚ました時、まだ辺りは真っ暗だった。寒くて眠っていられなかったのだ。身動きすると、体中が痛かった。
マヤにかけてあげたはずのコートが、いつのまにか自分を包んでいた。そして彼女とフラットは――いなかった。
「マヤ!」
さけぶと、遠くでフラットの声がした。ふらふらと立ち上がり、声がした方向へとゆっくり進む。
ざくざくと足音がして、ぱっと光がはじけた。思わず手で目をかくしたその向こうから、少女の明るい声がした。
「おじさん!」
マヤだ。ほっとしたマエストロの手を、少女が引いた。
「おじさん、来て!」
「ど、どうしたの」
たいまつを持ったマヤは、泣いていた。泣きながら、顔いっぱいで笑っている。
「信じられない! ねえ、おじさんも、きっとびっくりするわ!」
「一体何が――?」
ぱっと木々が開け、小さな野原に出た。当惑するマエストロの前に、少年二人、少女一人が立っていた。
彼らはマヤと同じように、おでこにいれずみを入れていた。そして、りすや小鳥を肩にのせ、らんらんと輝くうす茶色の瞳で、マエストロを見つめている。
息をのむマエストロに、マヤが笑いかけた。
「わたしの友達よ! この子は、ケトリン。おとなりさん同士だったの。男の子たちが、髪の毛をおさげにしているのがアーロで、後ろでおだんごにしているのが、トベ」
ケトリンがマエストロに微笑んで会釈した。アーロとトベは握手を求めた。
「ソーガ国の友達だね」
四人はうなずく。
「軍が僕らの家を焼き払ったから、命からがら逃げてきたんだ。マヤのことは、ずっと心配してた……」
「ちっちゃな時から、四人一緒だったの」
ケトリンがまだ泣いているマヤの頭を優しくなでた。
「泣き虫マヤは、ちっともかわってないな」
「だって、一ヶ月しか離れてないもの」
マヤが、トベに言い返した。
「一ヶ月なんて、あっという間だったね」
アーロが微笑み、それから真剣な表情になった。
「ラポールへの抜け穴を、山賊に教えてもらったのさ。夜が明ける前に、オルバルドを出よう。……あなたも来るでしょう?」
最後の言葉は、マエストロに向けられていた。
「ええ。お供させてもらえると助かります」
マエストロもうなずいた。今自分だけ町に戻っても、いいことはないだろう。
森を歩く道のりは、さっきよりも楽しかった。マヤが笑顔になったからだ。四人の子供たちがふざけあう様子が、マエストロの気分を和ませた。
アーロの言う通り、抜け穴はそこにあった。魔法無しのマエストロにさえ分かるほど空気がゆがんでいる。
「あそこに飛び込めば、ラポールだ」
トベが呟き、走りだした。
「ちょっと、抜け駆けしないで――」
悲鳴が、ケトリンの文句をかき消した。ぎょっとして残りの仲間は動きを止める。
軍服姿の男たちに、トベが押さえつけられていた。
「トベ!」
悲鳴を上げて駆け寄ろうとするマヤを、マエストロとケトリンが制止した。アーロは唇をかみ、トネリコの枝を突き出した。
「出てきなさい!」
厳しい声が、四人に命じた。おそるおそる森から抜け穴の前に進む彼らを、軍人たちが取り囲む。
中心にいたのは、ダミアンだった。
「陸軍の情報網を、なめるな」
吐き捨てたつばと共に彼はそう言って、口を歪めた。部下たちが、手早く五人に手錠をかけていく。もちろんマエストロにもだ。
「マエストロ、もはやあなたに自由はないものと思ってください。あなたはご自分だけでなく、他の魔法無しの立場も悪くした。魔法使いへの奉仕だけでは償いきれませんよ」
マエストロは肩をすくめてみせた。
フラットが、ダミアンに飛びかかろうとした。
「やめなさい、フラット」
マエストロに止められ、おしりを振りながらまだかまえ続けるフラットに、軍人たちが杖を向ける。
「猫はどうしますか」
部下に尋ねられ、ダミアンは「とりあえず、一緒に連れて行け」と答えた。
手錠をかけられ、一列に座らされたマヤたちは、ダミアンを睨みつけた。後ろの軍人が、脅すように杖を振ってみせる。
ダミアンが、にやりと笑い、子どもたちに向かって手を広げた。
「安心しなさい。君たちを処刑することはない。何故なら、皇帝陛下が素晴らしきお慈悲を君たちにくださったからだ」
アーロは警戒して目を細めた。
「君たちは、ソーガ国の最後の生き残りだ。ソーガ特有の文化を受け継いでいる。だから、貴重な文化を保護するために、博物館で君たちの暮らしを展示することになった」
「僕らを見世物にするのか?」
「そうだ。ガラスの檻の中で、昔ながらのソーガのくらしをしてもらう。つまり、丸太小屋で、動物たちと語り合い、互いの肌にいれずみを入れながら、野蛮なくらしをするのだ」
マヤたちは黙った。けれど、その提案に不満であることは、雄弁に表情が物語っている。
「剥製としてかざられたくなかったら、大人しく従いたまえ」
ダミアンはそう言って、笛を鳴らした。降りてきたのはドラゴンではなく、檻つきの馬車を引くペガサスだった。
「中へ。マエストロ、あなたもです」
馬車の中は大人も混じった五人にはせまかった。おりのついた窓は高さがあり、立ち上がらなければ外の景色をのぞけない。けれどだれかの足がだれかの体にのっかっているようなこの状況では、立つことはおろか、体勢を変えることすら難しい。
ケトリンがつぶやいた。
「すべて、終わりね」
トベが無理に明るい声を出す。
「終わりじゃないぞ。連中、おれたちを殺さないってさ」
「でも、動物園の動物みたいに自由を奪われて、見世物にされるのよ。死ぬよりマシだって言える?」
「そうかみつくなよ」
「よせ、けんかは」
アーロがなだめ、マヤに目を向けた。
「一番泣き虫のマヤが泣いてないんだから、僕たちもしゃんとしないとな」
マエストロが口をはさんだ。
「マヤはさ、君たちがいない時も、泣かなかったよ。きっと、ずっと耐えてた。ね、マヤ」
マヤは口をぎゅっと引き締めた。
不自由な手でふところを探り、金属の鎖がしゃらしゃらと鳴るのを確かめると、マエストロは四人の子どもたちに言った。
「あのね、ちょっと聞きたいんですが。博物館でそれまでのくらしをするのは――やっぱり――いやなものですか?」
「当たり前じゃないですか!」
ケトリンが怒った。
「文化の保護なんて、ただの口実だ。本当はあいつら、見せびらかしたいだけなんだよ。自分たちがどれだけたくさんの国を併合してきたか」
「オルバルド人に笑いものにされるだけの生活なんて、ごめんだね」
マエストロはマヤを見下ろした。
「マヤはどう?」
フラットがかわりに返事をした。
「あいつら嫌い、って」
そう通訳してから、マヤはマエストロを見上げた。
「今までも、これからも、変わらない。幸せだった泣き虫マヤは、ソーガを燃やされた時に死んだの。だから、もう何も望まない」
マエストロは微笑んだ。
「そう。じゃあ、君の気持ちが変わるよう、時を動かしてみようか。ずっと昔へ、あるいははるか先へ」
マエストロは、手錠された手で苦心しながら、銀の懐中時計を取り出した。四人の注目が集まる。
人差し指をたて、声をたてないようにと指示を出してから、マエストロは時計のねじを五回ひねった。
せまい馬車はあっという間に消え去り、五人は古く広々とした城の中にいた。マヤたちはあっけにとられて、散らかり放題の女王の部屋を眺めた。
「何これ、夢?」
「夢じゃないよ」
ぱたぱたと足音がして、幼い見かけのクロッカンが近づいてきた。そして、マエストロにうやうやしくおじぎをした。
「お待ちしておりました、陛下」
「陛下??」
ぽかんとする四人を一旦置いて、マエストロはクロッカンに頼む。
「まず、この手錠を外してくれるかな。みんなの分も」
「お安いごようです」
その言葉通り、クロッカンはどこからともなく鍵を取りだし、マエストロやマヤたちの手錠を外してくれた。
「おじさん……王様だったの?」
「ほんの短い間だけね」
マエストロは、まだ茫然としているマヤたちに説明した。
「時の国を治めていた女王様から、国とお城をゆずりうけたんだ。でも、自分にはあまり必要ない。だから、この国まるごと君たちにあげるよ。今日からは、君たちが王様だ」
マエストロは、クロッカンが差し出した王冠を受け取り、そのままマヤに渡した。
「ここは、王たちが望まない限り、誰も入ってこられない。くわしいことは、この子に教えてもらってね。俺よりもこの国のことをわかっているから」
クロッカンが優雅にお辞儀をした。王が代わることを、前から分かっていたようだった。
「でも……そんな、おじさん……」
「ほんとに、いいんですか」
マヤたちが食い下がる。
「かわりに、二つだけ約束してほしい。それまでの君たちのように、困っている人がいたら、友達になってあげて。それから……」
マエストロが辺りを見回すと、クロッカンがそっとひとふりの楽器を差し出した。ヴァイオリンだ。
「音楽を始めてほしい。楽器を奏で、聴く人と心を通わせることがどんなに楽しいことか、君たちには知っておいてほしい。そして――いつか、一緒に音楽をしよう。約束だよ」
ヴァイオリンを受け取り、マヤはうなずいた。
「わかりました、マエストロ」
彼女の目には、涙が浮かんでいた。
ケトリンにはビオラ、アーロにはチェロ。そしてトベにはコントラバス。四人にそれぞれクロッカンが楽器を渡したのを見届けてから、マエストロは懐中時計をまた取り出した。
「さて、自分はそろそろ戻ります。元気で。あ、時計は残しておくから、好きに使って」
フラットが飛び上がり、マエストロの肩に乗った。けれどマエストロは、彼をゆっくりと床に下ろした。
「フラット、君は、マヤたちと一緒にここに残るんだよ」
「にゃあ!」
フラットが大声で鳴いた。いつものように通訳しようとしたマヤを、ケトリンがそっと止めた。
「今まで、一緒に旅をしてくれてありがとう、フラット。君のおかげでずいぶん楽しかった。元気でね」
「にゃあ!」
「聞き分けのないことを言わないで」
マエストロは最後に、フラットののどをくすぐってやった。思わず閉じたフラットの瞳の周り、真っ黒な毛皮が少しだけぬれた。
「さよなら、またいつか会いましょう」
マエストロは時計のねじを五回、逆に回し、時計をぽいっと手放した。銀の城は消え去り、また元の馬車の中にいた。
一人きりで座り込み、マエストロは鼻歌を歌った。自由になった手で、空に向かって指揮をした。
「さあ、次は何の曲を演奏しようかな?」
マエストロは、愛する音楽を思い浮かべ、微笑んだ。




