何者でもない者の記録
影、目線
ある日、王族に連なる大公令嬢がこの世に生を受けた。
そして同じ日、王都の孤児院からとある資質を持った女児の姿が消えた。
十四年間、様々な訓練に明け暮れた日々だった。
魔法に武術に破壊工作、野営に野戦に離間工作、諜報術や記憶術や果ては誘惑する技まで。
黒く染められた薄手の皮鎧に同色のトラウザーズ、コイフも黒色で鼻から下を覆っていて、滅多に外すことのないソレは最早第二の皮膚と化している。
夜もそろそろ明けようかと言う刻限、幻術魔法で姿を消し、長と共に大公のタウンハウスに忍び込んだ。
目的の部屋の天井裏には、既に同じような格好の人物が一人潜んでいて、中の様子を窺っている。
長に促され私も部屋を覗くと、天蓋付きのベッドに少女が眠っていた。
「あのお方がお前の主となられる、大公令嬢クレリット・エルランス様だ」
「……」
この少女の影となる為だけに、幻術魔法の適性があった私は見出され、そして生かされた。
それを不幸と考えた時期は、とうに過ぎ去った。
今はただ、私の存在理由を受け入れるだけだ。
「影として務め、あのお方を主とするかは己で決めよ」
「はい」
魂に刻まれているのは、王と主に対する絶対服従の呪い。
影に許された唯一の自由は、主を己の主とするかしないか、それ一点。
長と共に引き上げよう先達の影が、私に向かって目元だけでニッと笑うと
「まっ、良かったんじゃない」
そう一言だけ言って消えた。
僅かに日が窓に当たりはじめ、カーテンの隙間から光が差し込んできた頃合いに、部屋の空気が動いでベッドが軋んだ。
その気配で寝覚めた私は、そっと部屋の中を窺う。
対面ではないが、初めて主との顔合わせだ。
クレリット様は腕を伸ばし背筋を張ると大きな欠伸を一つ、そして
「影、おはよぉ~」
瞬間、自分の時が止まった。
私に挨拶したと!? いや、聞き間違いか?
影は王族のみに仕える秘密の存在、その姿を見せられるのは王が求めた場合か、己の主にのみ。
だから存在を知ってるわけはっ、そう思って再び部屋を覗くとクレリット様としっかり視線が合った。
固唾を呑んで様子を窺っていたら、紫目が緩く細められる。
「あら、人が変わったのね。 今日から貴女がわたくしの影? よろしくね」
至極まっとうに挨拶され、唖然とするしかなかった。
私が度肝を抜かれていようとも、時間は過ぎていくわけで……。
今宵、クレリット様はデビュタントをされるので、その準備で朝から大忙しだ。
侍女が何人もついて風呂場で磨かれ、髪にも全身にもたっぷり香油が塗り込められ、プラチナブロンドの髪は半分ほど結い上げられて毛先は縦ロールに巻かれ化粧を施される。
悲鳴が出そうなほどコルセットで締め上げられてから、レースやフリルではなく、淡い光沢を放つ布タックで寄せられたスッキリとしたデザインの純白なドレスを纏う。
侍女達が満足げな吐息を這うほど出来栄えは素晴らしいが、着飾ることに縁のない私からしてみれば、新手の拷問かと思ってしまう。
私も王族の方々にお会いするのは初めてで、緊張で身が竦むような思いを堪えながら、魔法で姿と気配を消し遠巻きに、クレリット様のデビュタントに付き従う。
王との謁見も済ませ、ファーストダンスも踊り、クレリット様のデビュタントは終了した。
そして少し早めの刻限に、屋敷へと帰られた。
今、湯浴みと身支度を終えられてベッドの上で休まれている。
私は魔法で姿と気配を消したまま息を殺して、部屋の隅からそんなクレリット様を眺めている。
絶対主である国王を垣間見たことより、今、私の頭を占めているのは考えてはならない事、だ。
自分の存在理由の根源に関わる事だが、どうしても頭を離れないのだ。
あの第一王子の在り様は、酷いのではないのだろうか。
クレリット様とのファーストダンスの適当さ然り、エスコートがなかったこと然り、会話さえなかったこと然り。
婚約者ではなかったのか?
第一王子の影は、あれを見てどう思うのだろう?
ずぶずぶと考えが深みにはまりそうになっていた時、部屋のドアがノックされ侍女の声が聞こえた。
「お嬢様、お腹がお空きではありませんか? 夜食をお持ちしました」
「あら、ありがとう」
貴族が使用人に礼を言うなんて話は、聞いたことがないし普通はあり得ない。
それなのに礼を言ったクレリット様も、言われた侍女も何も特別なことをした様子がない。
侍女はドアを開け、ワゴンを運び入れテーブル近くで給仕を始めるし、クレリット様はソファーに腰かけ小ぶりのサンドイッチに手を伸ばす。
いたって普通の日常なのだと物語っていて、不思議な気持ちだ。
クレリット様は三段プレートスタンドのオードブルや焼き菓子を、半分ほど食べると手を止めた。
「もう、よろしいのですか?」
「でもまた食べたくなるかもしれないから、ここに残しておいてくれる」
「片付けるのは、朝でよろしいのですか」
「えぇ、お願い」
侍女は最後に紅茶をカップに注ぐと、一礼して部屋を後にした。
クレリット様は紅茶を飲み終えて、大きく息を吐く。
「初日から大変だったわね、残り物で悪いけれど良かったらこれ食べて頂戴。 毒なんて入ってないから安心してね」
魔法で姿は見えていない筈だ、気配も感じてない筈だ。
それなのにクレリット様の目は、真っ直ぐこちらに向いている。
「お休みなさい、影」
もう本当に、これまで私が培ってきた認識が崩壊した一日だった。
「クレリット・エルランス、貴様との婚約破棄を言い渡す!」
思ってはいけない事だと何度となく思った、でもやはり思う。
何だこいつは、と。
私が第一王子に敬意の欠片も抱けなくなったのは、かなり早い段階だった。
ただクレリット様は王妃教育を修められていらっしゃるけれど、王妃になりたいなんて権力欲は微塵もない。
だから婚約破棄は願ってもない、と思われている節がある。
ならば構わないかと油断していると、思わぬ方向に事態が転がっていく。
「泥水を掛けたのだろう」
「ノートを破ったとも聞きましたよ」
「ローズのお母さんの形見のブローチを盗んだんだって? 最低だね」
「ドレスにワインを零して汚しましたね」
「あまつさえ、ローズを階段から突き落としたではないか」
この男達は、クレリット様にありもしない罪を着せようというのか!?
あぁ何と言う事、私は全てそれらを見て聞いて知っているのに、口に出すことが許されないなんて!
「恐れながら陛下、影の直答を許して頂ければと存じます」
「ふむ、まぁ、それが早かろうな。 良い、許す」
──っ!
王から許された、姿を現しても構わないんだ!
魔法を解いてクレリット様の隣に立つと、王に向かって両膝を着いて傅く。
「影、直答を許す。 他の者からの問いに答えよ」
「はっ、有難き幸せに存じます」
有難うございます、有難うございます、影の本分を果たさせて頂きます。
「ふざけるなっ、貴様は影とつるんで王族を騙そうとしているのだろう! そうはさせぬぞ」
王族の直接の怒りは唯それだけで魂を締め付ける、呪いなのだから仕方ない。
しかし、魂の苦しみが不意に楽になる。
僅かに顔を上げれば王族に連なる方、が半歩前に出て私を庇って下さっていた。
「殿下、影は王と主に絶対服従する者。 その事に命と誇りを持っている者達なのです。 それを王族である殿下が否定してはなりません」
嗚呼もう、そう言ってもらえるだけで私は十分です。
第一王子も引き下げられ王とクレリット様が語らい、何とか無事に収まりそうな雰囲気に、私は気配を断ってそっと下がる。
「では、私が名乗りを上げよう」
思わぬ人物が名乗りを上げて私も驚くが、だがそれでも何となく察しはついた。
クレリット様は全く気が付いてはおられなかったけれど、晩餐会以降に時折学園で見かけた。
その視線に次第に熱が籠っていったのを感じたのは、私だけではなかった筈だ。
大方の予想通りザーク帝国第三皇子が、クレリット様の周囲を固め逃げ道を塞ぐ形で、話が纏まっていく。
そしてふと思う、クレリット様がザーク帝国に嫁がれたら、私はどうなってしまうのだろう?
私はクレリット様の影だ、でもそれはエルドラドン国に限ってのことで、他国では諜報行為になってしまう。
「帝国がわたくしに監視役を付けるのでしたら、侍女でも従者でも構いませんから目の前で監視してくださいませ」
「ずっと天井裏で潜んでいるとか、魔法をかけ続けて姿を消して息を殺しているとか、かなり大変で見ていて気の毒になりますの。 わたくしの精神衛生上よろしくありませんので、堂々と監視していただいて結構ですわ」
息が詰まる。
クレリット様は優しかった。
私は答えることができないのに毎朝毎夜、挨拶をしてくれた。
時折、お菓子を分けてくれたりして、気遣ってくださった。
それでも四六時中監視されている、と分かっているのは気疲れするだろう。
影とは本来、その正体を知っている筈の主にさえ認識させることなく、任務を遂行しなければならない。
負担をかけてしまっている自分の技の未熟さに、心苦しく思う。
「もしアルン殿下が皇帝になるようなことになったら、わたくしと離婚してくださいませね」
「………………承知した」
どうやら話はまとまったようだ。
クレリット様がザーク帝国に嫁ぐまでの間、私はこの人の影でいられるだろう。
では、その後は?
目の前が暗く閉ざされていくような感覚に陥っていたら、思いがけず面前に手が差し出された。
「え?」
「陛下、わたくしの望みを叶えて下さるのはまだ有効ですの」
「あぁ、勿論」
「では、わたくしの影を貰い受けますわ。 もう、必要ございませんでしょう」
そう言って、クレリット様は私の手を両手で握られた。
「「ミカゲ」」
重なる二つの高音に名を呼ばれ振り返ると、この家の主人と瓜二つの容貌の少年達が駆け寄ってくる。
「どうされました?」
「寝るまで、母上の話をして」
「出来るだけ小さい頃の話がいい」
両手を取られて、二人の部屋へと連れて行かれる。
「本当は、僕達と同じぐらいの年の話が聞きたいけど」
「申し訳ありません、私がクレリット様付きになったのが十四歳でしたので……」
「可愛かった?」
「えぇ、それに使用人にも、とてもお優しいお嬢様でしたよ」
本当にお優しい方。
使い道のなくなった影を拾って、この先どうしたいのか尋ねてくださった。
影であり続けるか、市井に下るか、婚姻を望むなら相応の相手を探すとまで。
だから私は願った、大それた願いを。
「ところで、お二方共どうされたのですか? いつもはクレリット様に寝かしつけてもらっていますでしょう」
「「……父上に盗られた……」」
「あら」
旦那様も大人げない、とも思わなくもないが、クレリット様を誰にも渡したくないという気持ちはよく分かる。
ミカゲ……美しい影と名付けて頂いた誇りを胸に、侍女としても元影としてもお仕えいたします。
私の主様。
「他力で何か」完結です。
王子達へのざまぁは、七年間冷遇されていたって事で一つ。
で、多分、弟君に喰われる未来しかみえませぬ。




