第50話 隷属の首輪
ムダニは顔を赤黒くさせて、ふぅふぅと息を荒げている。
かなり激怒している様子だ。
そのまま脳内の血管が破裂しないものかな。
台所にいたリエラが駆け寄ってきたが、俺はそれを手で制した。
「てめえ、少し自由にさせたら調子づきやがって」
「あなた、わたしも手伝いましょうか?」
「おまえは部屋に戻ってろ。オレがやる」
「……はい」
ムダニの妻は俺に冷ややかな視線を浴びせると、廊下を歩いていった。
顔面をただ殴られていた。
殴られる瞬間に顔を引いて、威力を少しだけ殺すことは忘れていなかったが。
それでも反撃とか、そういった意思を思い浮かべられなかった。
数年に渡る加虐が、いつの間にか俺の反抗の意思を縛ってしまったらしい。
それに、大して痛くない、というのもあるか。
「ガキの分際で! 何邪魔してくれてんだ! ああっ!」
ムダニは更に、一発一発に怒鳴りながら、顔面を殴ってきた。
倒れたところに蹴りが飛んでくる。
暴力を受け止めるだけのサンドバッグにでもなったみたいだ。
体には砂が詰まっているだけだから、痛みはないのだ。
目の前の小悪党を、俺は殺せるだろうか。
自分を虐める相手を殺したとしよう。
いままでの加虐は嘘のように忘れられ、ムダニは被害者になる。
転生前の日本の平和ボケをいつまでも引きずっているのかもしれない。
三十年間一度も誰かを殺すという場面に出くわさなかったことで、阿部聡介という人格形成に“ころしはわるいこと”が強く刷り込まれているのかもしれない。
しかし、その箍が外れるきっかけを俺は知っていた。
リエラ。
もし理不尽に俺からリエラを奪う者がいたら、俺は文字通り世界を敵に回すかもしれない。
俺を殴り終え、ムダニの目がリエラを捉えた。
「ひっ――」
リエラが小さく声を上げる。
見上げんばかりのムダニを恐れていても、それはしょうのないことだ。
「人の顔を見てなに悲鳴あげてやがる!」
ムダニが拳を振り上げた。
だが、その手はリエラに当たることはなかった。
首を竦ませて目をぎゅっと閉じるリエラは、恐る恐る目を見開く。
そして、拳が途中で止まっていることに気づく。
拳がそれ以上前に進まないことに驚きを隠せないムダニの表情を見る。
ムダニとリエラのちょうど真ん中あたりの空間が、波打ったように揺らいでいた。
風魔術で極限まで圧縮した空気が、まるで壁の様に間に立ちはだかっているのだ。
やろうと思えばムダニの拳をミキサーにかけたような状態にすることもできる。
俺はゆっくりと立ち上がって、殴られた箇所に手を当てて治癒魔術をかけた。
「なんだ? なんで魔術が使えるんだ? てめえ、大したことなかったはずだろ!」
「もうリエラに暴力を振るわないでください」
「オレをいままで騙してやがったのか! このクソガキがっ!」
「俺たちにひどいことをしないでください。もう限界なんです」
「いつかは反抗すると思ってたぜ! 親が親なら子も子だな! 腐った血だ!」
「――やめろ」
部屋に冷たいものが走った。
俺の殺意は爆発しそうだ。
ムダニもそれに気づいて怒りを一瞬だが忘れる。
俺の親を知らないムダニだが、それでも俺の沸点は最高潮に達した。
「それ以上は言わないでください。じゃないと、俺はあんたを殺さなくちゃいけなくなる」
「――ひっ」
俺の目を見て、ムダニが息を呑む。
初めて見せた怯えた姿だった。
おまえがいままで見ていた表情だろうよ。
「俺たちはちゃんと働いてきたはずです。少しくらいわがままを聞いてくれたっていいでしょう」
「てめえ、わかってるのか? 主人に向かって舐めた真似しやがって」
「殺さないだけ感謝してください。あなたから受けた暴力を同じだけ返せば、おそらくあなたは死んでしまう」
「主人に逆らうとはいい度胸だな! この野郎!」
威勢はいいが、殴ってくる様子はない。
俺が手をかざすだけで、ムダニは目に見えて顔を青くさせた。
こんなものだったろうか。
俺がいままで我慢してきたことは、こんなちっぽけなことだったのだろうか。
「やってみろよ、ああん! てめえはオレを殺せるのかもしれねえがなあ、オレはいままでおまえらを殺そうとはしてこなかった。オレは暴力を振るうクズかもしれねえが、オレを殺した瞬間、オレよりも救えねえクズになるんだよぉ、てめえは!」
俺の手に、わずかばかりの躊躇いが震えとなって現れる。
ムダニの言うことは屁理屈だ。
そんなことはわかってる。
しかし、殺人という重い罪を犯すことの重大さを突き付けられ、殺意が鈍ってしまうには十分だった。
「エルフを捕まえようなんて思わないでください。お願いします。もしエルフに手を出さないと約束してくれるなら、言うことを聞きますから」
「信じられるかよ。力を隠したことがどれほどの罪かわかっていねえようだな。てめえが魔術で人殺しできるようなら、初めから引き取ったりはしなかったんだよ! おまえは化け物だ! 魔術を人に向けた時点で、もう誰からも信用されねえ」
なんでこんな時ばかり正論を言うのか。
クズならクズらしく、クズ語で喋ってほしい。
「だが」と言って、ムダニはふっと嗤った。
「いまはその考えを変えてやってもいい。くく。いいものがある」
そう言ってのしのしとムダニは部屋に戻り、その手に持ってきたもの。
一見しただけでは変哲もない皮の首輪だった。
だが、俺の目にはおぞましく見えた。
隷属の首輪。
ステータスを開いてわかった。
一般的には魔道具と呼ばれるもので、制約を互いに結ぶことで主従を縛る効果があるようだった。
俺は魔道具というものを見るのも初めてだ。
魔剣は魔道具だろうか?
とにかく魔道具とは能力を付加された道具のことだ。
隷属の首輪は、主は従の設定した条件を破らない限り、従が主の命令に絶対的に従う拘束力を持つ、というものだった。
従が女性なら、たとえば“性的な虐待を受けない”という制約を条件に、主の命令に従順になるとか。
従が一方的に虐げられないようなルールがこの隷属の首輪にはある……ようでいて、実は違う。
しかし使い方次第では従の心をあっさりと踏みにじるのだ。
ひとつしか守ってもらえない制約と、死ねと言われても逆らえない命令。圧倒的に従が不利である。えげつない。
要は、ただひとつの制約は、従を徹底的に絶望させるためのエッセンスなのだ。
このルールを考えて隷属の首輪を作ったやつはイカレてる。
「俺の条件は“俺の知る人間に直接的、間接的な暴力を振るわない”ということだけです」
「なんだ、この首輪のことを知っていやがったか」
ムダニは途端につまらなそうに嗤いを止めた。
騙して一方的な条件を言わせようとしたのは明らかだ。
「もちろん“暴力を示唆することも間接的に含まれる”という条件です。この条件が破棄された場合、隷属しないことになります。そのときは、あなたは自分の命がないと思ってください」
脅しである。
だが十分だった。
ムダニの顔が引きつったのを見て、わずかばかりの溜飲が下がる。
「隷属の首輪は効果は一回限りだと聞きます。あなたが破ったとき、二度と使えなくなる」
「ふん。いいだろう。てめえみたいな魔術師の首に縄をつけられるなら安いもんだ」
ムダニから首輪を受け取ると、俺は条件を口に出して設定していく。
主と従の血を隷属の首輪に垂らすことで条件がすべて揃う。
淡く黒い魔力が発生し、条件の書き込みが終わったことを知らせる。
俺はそれを躊躇いもなく首に巻く。
すると首が締らない程度に密着する感覚があった。
自分の意思では外せなくなっているのだ。
試しに魔力を込めて破壊してみようとしたが、魔力を吸収、あるいは放出して、うまく込められなくなっている。
「じゃあ最初の命令だ」
ムダニがにやりと嗤う。
「エルフを殺せ」
俺は驚愕した。
「な、なにを……」
「くく……主の命令は絶対なんだろう? おまえがなんでエルフを擁護するのか知らないが、自分の手で殺して見せろよ!」
「……えっと」
首を占めていた隷属の効果がなくなっていた。
革のベルトを緩めると、隷属の首輪がぽとっと床に落ちた。
「あの、あなたが馬鹿なのことは知ってましたけど、ここまでとは……」
俺は哀れに思って、可哀想な人を見る目でムダニを見た。
直接的、間接的な暴力を禁止し、その上で暴力を示唆することも間接的に含まれると制約を口にしたばかりなのに、この様である。
「…………」
「…………」
「……!」
唐突にムダニはリエラに向かって飛び出した。
俺はそこに、エアハンマーを叩きこむ。
ムダニはあっさり吹っ飛んでいき、壁に激突した。
最弱の魔物よりも手応えがなかった。
「くおぉ……」
十分に加減したが、あばら骨くらいは折れているかもしれない。
刷り込みとは怖いものだ。
ムダニはもっと強いものだと思っていた。
いままで抑えていたものがなくなり、あっさりと立場が逆転している。
俺はゆっくりと歩いていき、ムダニの前に立った。
呻くムダニを見下ろしながら、俺の中には何も涌いてこない。
俺にとってこの男は本当にどうでもいい人間だった。
それを再認識しただけだ。
「オ、オレを殺すのか! や、やめろ! やめてくれ!」
「やっぱりあなたはクズだ。最後まで虚勢張るくらいしてくださいよ」
虫けらを見る目。
それが正しいだろう。
夏の日のアスファルトにひっくり返っているセミを見下ろすような、何の感慨もない目で、ムダニを見下ろしている。
倍以上の背丈を持つ癖に、這いつくばっている小悪党を。
俺は手をかざした。
「ひぃっ!」と悲鳴を上げて頭を抱える小悪党。
炎でも出せばいいか。土槍で貫けばいいか。
たぶん一瞬だ。一瞬で終わる。
迷った。
それが悪かった。
「お兄ちゃん! やめてよ、離して!」
「うちの旦那から離れなっ! 化け物っ!」
後ろからリエラの悲鳴が聞こえた。
振り返ると、リエラの首を捕まえて小刀を構える小悪党の妻がいた。
いつの間に忍び寄っていたのだろう。
でも大丈夫だ。
俺が腕を振れば、それだけで小悪党も小悪党の妻も、首をスパッと……。
いや、ダメか。
リエラが見ている。
そんなものを見せたくない。
トラウマになったらどうする。
心の傷は一生モノだ。
「動くんじゃないよ! さもなければ、わかるだろ!」
ヒステリック気味に叫ぶ小悪党の妻。
そんなに大声出さなくても聞こえているというのに。
「あんた、大丈夫なの!」
「ああ、くそ、いてえな畜生……」
妻に呼びかけられて、よろよろとムダニが起き上がる。
「こんなときのためにもうひとつ用意しておいてよかったぜ」
ムダニは痛みに顔をしかめながらも、にやりと嗤った。
その手には、もうひとつの隷属の首輪が握られていた。
「妹を助けたかったら、わかってんだろ?」
「……わかりました」
「首輪を付けろ」
俺の足元に首輪を放ってくるムダニ。
俺はそれをゆっくり拾い上げた。
「条件を変更します」
「なんだ?」
訝しむムダニを放っておいて、俺は続ける。
「“主となる人間の血縁者および配偶者は、従となる人間の知人への暴力を、直接的、間接的、あるいは示唆することを禁止する”です。俺に関しては、いくらでも暴力を振るえばいい。でもリエラにだけは、手を上げないでもらいたい。それでもいいなら装着します」
「四の五の言ってないでさっさと付けろよ!」
ムダニは今すぐにでも俺が魔術を使えない状態にしたいのか、制約をちゃんと聞かずに急き立てる。
血を垂らして条件が揃い、俺は首輪を嵌めた。
ぎゅっと締め付けられる感覚。
これで俺はムダニに隷属したことになる。
「もういい。おまえは二度と魔術を使うな。それから、納屋から出てくるな。オレの許可なくな」
俺は強い拘束力を感じ、大雨の降る外に出て、雨粒に負けて倒壊しそうな頼りなげな納屋へと入っていった。
「お兄ちゃん……」
解放されて後についてきたリエラが、背中から抱き付いてきた。
雨はいつまでも降り続いている。
ムダニは雷雨の中、会合に参加していた。
村人たちの主要な者と、冒険者の代表がふたり参加している。
「……それでは四十名が討伐隊の参加で、異議はありませんね?」
討伐隊を少し減らし、村の防衛に人を割くことで納得しつつある。
各人が頷くが、ムダニは黙して動かなかった。
頷けば小僧を縛る条件に抵触するからだ。
二度も失敗はしない。
稲光が空に走る。
間を置いて腹の底に響く轟音。
部屋の中にいた者は自然と口を閉じて、音が止むのを待った。
「それでは四日後、エルフ討伐隊は出発いたします」
ムダニはにやりと嗤った。
もう遅いのだ。
ムダニが何を言わずとも、すでに賽は投げられている。
小僧のあがきは無駄だった。
妹を護るために、あっさりと隷属の首輪を嵌めたのだ。
それに、冒険者たちはもとより乗り気なのだ。
大森林の魔物を狩り、一儲け企んでいるのだから。
人の心を動かすのは欲求だ。
平穏を取り戻すため、財を築くため、各々がそれぞれの欲求に従って、もはや討伐は避けようのないものとなっている。
ムダニは涌いてくる嗤いを抑えきれなかった。
あのいけ好かない小僧を出し抜いたのだ。
「そういえばさ、なんでクソ親父に隷属の首輪をふたつ持たせる提案をしたんだ? 魔術師はあの野郎だけなんだからひとつで十分だろ。しかも高価なんだろ、あの首輪」
実験しているジェイドの背中を手持無沙汰に見ていたイランが、ふと思い出したように言った。
ジェイドは手を止め、ゆっくりと顔を上げる。
「うん? 別にお金的には問題ないよ。ボク金持ちだし」
「さりげなく自慢するなよな」
「ふたつ渡したのはね、たぶんひとつだとすぐに制約が破れると思ったから」
ジェイドは羊皮紙になにやら書き綴っている。
手元から淡い発光があるので、魔力を込めているのだ。
「制約って首輪を付けるための奴隷側の条件だろ。いくら馬鹿でもそんな簡単に破るわけないだろ」
イランは鼻で笑った。
「いや、君の父親は相当の馬鹿だよ。だって息子も馬鹿だもん」
「おいテメェ」
「なはは」
彼らは知らない。
ムダニと言う男は想像通りの馬鹿だったことを。




