第48話 別れ
あっという間にひと月が過ぎ去った。
雪解けにつられてその日は春の陽気で、空は晴れ渡っていた。
結局妹やエルフを説得できなかったアルは、複雑な顔をしている。
一方で、小さな少女たちの別れは、涙に彩られていた。
「ぜっだい、また会いまじょぉね! ぜっだいよぉ!」
「うん……うん……ぐす」
「また遊びましょぉね。またお花を摘んで、刺繍を作って、あとあと、治癒魔術も教えてあげるから!」
「うん……うん……わかった……ぐす」
リエラは大人しい子だった。
対照的ともいえる利発的な娘の言葉に、涙ぐんで頷いている。
守ってあげたくなる保護欲がリエラから発されているのか、さっきから娘は手を握ってずっと話している。
美少女がふたり並んで別れを惜しむ光景は、見ていて心がほっこりする。
「解毒も上級治癒も中途半端になってしまったな」
「いえ、あとは自力で習得しますよ。基礎だけでも教えてもらえて、感謝してます」
「はは、アルがそういうなら素直に礼として受け取っておこう」
「それにしても急な召喚状でしたね」
実質、半年くらいしか村にいられなかった。
領主から急を要する手紙が届かなければ、一年でも二年でも滞在しただろう。
治癒魔術を持つ神官が村に留まることに誰も文句はつけない。
村長以外は。
あれから私はムダニには相当嫌われたらしい。
村人と仲良くし、アルとリエラを可愛がるという理由だけで。
……あの男の評価などどうでもいいことか。
「すまないな。おまえたちのことは気に入ってるから、もっと長く一緒にいてやりたかったよ。あの村長の元におまえたちを戻すのかと思うと気が気ではない。できるだけ早く戻ってくるから、しっかりやるんだぞ」
「大丈夫です。ぼくらは五歳の頃からあそこにいたんですから」
「それを聞くとなおさらな」
今は八歳の彼らだが、それで身を守れる歳になったとは言い難い。
私は顔をしかめたが、アルは任せてとばかりに頷いた。
またムダニの下で暮らすことに、何の憂慮もないのだ。
彼には強い部分と弱い部分がある。
そして強い部分は、こちらを安心させてくれる。
「リエラに治癒魔術を教えてくださいましたし、俺じゃうまく教えられなかったので感謝しています。これで俺がいなくてもリエラは自分の怪我を治せます」
「……まず怪我をしないことが大事なのだがな」
アルは「そうですね」と頷くが、怪我をすることもパフォーマンスなのだということを私は知っている以上、突っ込んで説教することができないのも事実だ。
「ただ、エドさんがいなくなると、ひとつ気になることがあります。あの魔術師です。あんまりいい感じじゃなかったので、エドさんにはまだいてほしかったです」
「そうだな。元宮廷魔術師だったか? 私が言えた義理ではないが、こんな辺鄙な村に好んで滞在するような変わり者なのは確かだな。ただ、悪い感じの男ではなかったがな」
元宮廷魔術師ジェイドに対する評価は、私とアルとでは大きく違うようだ。
私には温室育ちの青白い青年にしか見えなかった。
権威ある宮廷付きだったにしては覇気がないのだ。
この村に逗留するのも転移魔術の研究のためで、廃村で研究を進めるのも、内容が危険だから人の寄り付かない場所でひっそりと研究を進めたいと言う彼の意見は正しく、理には適っていると思う。
ただ、なんの研究を進めているのかわからないところがある。
彼が魔物を呼び寄せているのだとアルは言い、それが事実だとすれば危険な魔術師と言うことだ。
アルは同じ魔術師であるからか、ジェイドについて話すときは十分に警戒した上で緊張感を漂わせていた。
「でもまあ、なんとかします」
「本当に何とかするからアルは可愛げがないんだよな」
私はアルと、顔を見合わせて笑った。
少女ふたりの別れが済んだのか、とことこと手を繋いでやってきた。
ふたりとも目の周りが赤い。
「アリィ! お別れよ!」
うちの娘は威勢がいい。
相手を呑む勢いで猛烈に食って掛かる。
リエラの手を解き、娘はアルの前に立った。
アルはどことなく緊張しているように見えた。
大人びているとはいえ、女の子の前では背筋が伸びるのだなと笑いが込み上げてくる。
アルはそれに気づき、恨めしそうな目を向けてきた。
「こっちを見なさい!」
「……はい」
娘に一喝されて、アルはおずおずと向き直る。
齢八歳にして尻に敷かれてる。ざまあないな。
今日だけはその仲の良さも目をつぶってやろう。
「…………」
「…………」
お互いに目を合わせ、何かを口にしようとするが、何を口にしていいのかわからない状態だった。
「ファビー、短い間だったけど、お世話になりました」
「……うん」
男の甲斐性か、アルから口を開いた。
丁寧に頭を下げる。
対する娘は、むすっとして頷くだけだ。
何か言いたくて、堪えているような感じがする。
アル、そうじゃないだろう。
それは大人の社交辞令だ。
私は思ったことを言わないでおいた。
それこそ野暮というものだ。
「ファビーがいてくれたおかげで、妹もすごく楽しい時間を過ごせたと思います。ありがとう」
「……うん、わたしも、楽しかった」
でも、そうじゃないんだよと言葉が続きそうだ。
娘が言いたいことが手に取るようにわかる。
アルと娘だけの時間もあったのだ。
きっと娘は、それを惜しんでほしいと思っている。
「また来てくださいね。歓迎します」
「……がう」
「?」
「違うの! そうじゃないの!」
娘が爆発した。
堪え性がないのは気になったが、腹に溜め込んだまま別れさせるのも私はいけないと思っていたところだ。
「ああもう、しょうがないわね! 触っていいわよ! わたしの髪!」
目の周りを赤くした娘は、精いっぱい偉そうにしながらアルの前に立つ。
恥ずかしいのか、堪えるようにぎゅっと神官服の袖を握りしめている。
なんだそれは、と思ったが、私はかつてアルが娘の髪を触りたいと冗談で言っていたことを思い出した。
あのときの娘は絶対に触らせないと頑なだったが、いまはその険も取れている。
「……いいの?」
「いいから!」
おっかなびっくり、アルはつま先を伸ばして娘のプラチナブロンドの髪に触れた。
アルの身長より、娘の方が五センチは高いので、自然と背伸びをする必要がある。
娘は目をぎゅっと閉じて、じっとしている。
俯いた顔が強張っていた。
ぎこちない空気だ。
私は、こんな空気も嫌いではない。
初々しい。
思わず微笑んでしまう。
ただ惜しむらくは、最愛の娘が他人の男に「髪を触らせてあげるわ」と言っていることが悲しい。
「わたしの初めてをあげるわ」よりも格段に難易度は易しいのかもしれないが、いずれはそこに至るためのステップだと思うからだ。
「アルにわたしの初めてをあげたいの」と娘から相談を受けたら、私は舌を噛んで死ぬ準備がある。
このエドガール・マリーズ、娘を傷物にした野郎を殺すことになんの躊躇いもない。
神に誓ってもいい。
……いや、神官にしてはいささか不敬すぎた。
まあ子供を作れるような年齢になったら、年頃な娘は父親に相談なんてしないだろうがな。
私が余計なことを考えている間に、髪を触るという儀式は終わったようだ。
アルが手を放す。
きっと感触なんてあってなかったようなものだ。
アルが今までにないくらい緊張しているのがわかった。
ふたりが視線を交わす。
「…………」
「…………」
何も言わない。
お互いに照れているのか。
「じゃあね」
先に娘が動いた。
逃げるように背を向ける。
しかし咄嗟にアルの手が動き、娘の手を掴んだ。
驚いて振り返る娘に、アルは何かを言おうとして躊躇い、そしてぎこちなく微笑んだ。
それだけだった。
感動の抱擁もなく、別れの言葉もない。
それが娘とアルが交わした別れの挨拶だった。
手は解かれ、娘は俯いて私の元に足早に駆けてくる。
ぽろぽろと涙が落ちている。
目元を拭った娘が顔を上げて、アルたちに向き直った。
その横顔は心なしか上気しているようにも見える。
娘的にはアルとの別れは及第点らしい。
惚れたな。
いや、想像したくない……。
でも見てみろ、この娘のやり遂げたような誇らしい顔を。
アルに向ける熱い視線を……。
娘をアルにやるのは躊躇われる。
王族にやるのだって躊躇うだろう。
この身は神のもの、なんていうつもりもないが、娘を男に嫁がせることに抵抗はある。
将来、アルがまともな男になったら考えてやることにしよう。
それまでは保留である。
アルが娘を選ばない場合だってあるし、娘がアルへの初恋を実らせることなく終わるかもしれない。
そう、娘がここまで入れ込む男はアルが初めてなのだ。
私は見守っていくのが使命だ。
若く、青い蕾たちの行く末を……。
領主に召喚され役目を果たした後、必ずこの村に戻ってこよう。
双子に何かあれば、神事だろうが投げ出して、いつでも村に飛んで帰るつもりだ。
そして娘が十五歳になった頃に、巡回神官を再開しよう。
その頃にはアルも師匠離れして、私たちについて旅ができるかもしれない。
最後に私は振り返って、アルの姿を目に収めた。
立派になれよ。
言葉にはせず、目で伝えた。
リエラは泣きながら手をちぎれんばかりに振り、アルは一度だけ私に頷き返した。
私たちは馬車に乗り、ゆっくりと揺られるのだった。
こうして私たちは旅立った。
私の腕の中で、娘は目を赤くし、いつまでも声を上げて泣き続けた。
日が落ちる頃にようやく泣き疲れて眠った。
私はそれでもずっと、娘の頭を撫で続けていた。
名前 / エドガール・マリーズ
種族 / 人間族
性別 / 男
年齢 / 三十四歳
職業 / 神官戦士、治癒師
信仰心は特にないと言うが、神官の風格が滲み出ているおじさん。
神官の父を持ち、反発心から神殿を飛び出して冒険者になった。
冒険者時代に嫁に出会い、嫁の懐妊とともに冒険者を引退。
娘を世界一愛している。嫁も世界一愛している。どっちが一番とかない。どっちも一番。これだけは譲れない。
アルが将来娘を貰いに来たら、断固応戦する構え。




