第50話 今日のことは、誰にも売らない
二度目の結婚式は、驚くほど小さなものになった。
招いたのは、家族と親しい友人、それからこの数か月を一緒に走ってきた人たちだけだった。
王宮の大広間も使わない。公爵家の紋章を掲げた行列もない。新聞社には日付すら知らせていない。
場所は、王都から少し離れた小さな礼拝堂。
白い石壁と古い木の扉があるだけの、どこにでもありそうな場所だった。
「本当にここでよかったの?」
控え室で、リオラが私の髪を確認しながら尋ねた。
「うん。ちょうどいい」
「前は王都中が知ってる結婚式だったらしいわよ」
「覚えてないし」
「便利ね、その言葉」
鏡の中の私は白いドレスを着ている。
以前の婚礼衣装とは違う。
あのとき何を着たのかは、記録を見れば分かる。でも今回は見なかった。
仕立て屋へ行き、自分で生地を触り、自分で形を選んだ。
装飾も少ない。
胸元に小さな刺繍があるだけ。
「緊張してる?」
リオラが聞いた。
「してる」
「逃げる?」
「それはしない」
「なら大丈夫」
私は鏡越しに彼女を見る。
「そういうもの?」
「知らない。私、結婚したことないもの」
「適当だなあ」
二人で笑った。
その笑いが収まったころ、私は机の上に置いてある小さな銀の鍵を見た。
七年間の記憶晶を封印したときに渡されたもの。
今日も持ってきた。
開けるためではない。
むしろ、開けないままここへ来たことを、自分で確認するためだった。
「最後まで戻さなかったね」
リオラも鍵を見る。
「うん」
「今日だけ、一個くらい見たいとは思わなかった?」
少し考えた。
「思ったよ」
嘘をつく必要はない。
「最初の結婚式とか?」
「それも。前の日に何を話したのかなとか、あのときどんな気持ちだったのかなとか」
七年前の私。
同じ男との結婚を控えて、きっと今の私とは違う夜を過ごした。
知りたくないわけではない。
「でも、やめた」
「どうして?」
「比べたくなかったから」
鏡の中の自分へ向かって答える。
「あっちのほうが幸せそうだった、とか。昔のほうがギデオンを愛してた、とか。そんな採点をしながら今日を過ごすの、嫌じゃない?」
リオラが微笑む。
「あなたらしい」
「それ褒めてる?」
「半分くらい」
「残り半分は?」
「面倒くさい」
「弁護士にだけは言われたくない」
また笑った。
*
白鐘広場事件について、法院の最終判断が出たのは結婚式の二週間前だった。
オルレナ・ヴェイスには、白鐘広場証言記憶の不正改変、証拠隠匿、私の記憶偽造への関与、ユリウスの家族を利用した強要について有罪判断が出た。
ただし、マルセル判事殺害の指示については証拠不十分。
そこは最後まで分けられた。
アーノルド・ケインには、マルセル判事殺害と証拠隠滅、記憶偽造への直接関与が認定された。本人は事故だったと主張し続けたが、現場記録と傷の状態、持ち去られた封緘印、移動記録を合わせ、法院はその説明を退けた。
白鐘広場については、先王と当時の王室治安部門の責任も公式記録に残された。
亡くなった王を処罰することはできない。
でも、王だったから記録から消すこともなかった。
十六人の記憶は本人または遺族の意思を確認したうえで扱われ、公表されたのは必要な事実だけだった。
誰かの罪を証明するために、今度は被害者の記憶を勝手に使う。
そんな終わり方にはならなかった。
縁切り売却制度も変わり始めている。
結婚時の包括的な誓約だけでは、離婚時の具体的な記憶処置への同意とみなさない。
所有権移転。
抽出範囲。
生活技能への影響。
代替手段。
拒否した場合の扱い。
説明して。
考える時間を置いて。
それから本人が決める。
当たり前に見える。
でも、その当たり前へ戻るために、多くの人が記憶を失った。
ユリウスも自分の責任について処分を受けた。
家族を脅されていたことは考慮されたが、記録持ち出しそのものは消えなかった。
それでも彼は、最後まで自分の署名で証言した。
叔父のマルセルが残した、
《番号そのものが証言している》
という言葉も、正式な事件記録へ収められた。
全部が綺麗に終わったわけではない。
傷が消えた人はいない。
でも。
隠したままにはしなかった。
それで十分だと、今は思っている。
*
礼拝堂の扉が開いた。
私は一人で歩いた。
誰かに腕を引いてもらう形にはしなかった。
そうしたいと思ったから。
祭壇の前にはギデオンがいる。
黒い礼服。
公爵家の紋章は小さい。
昔の結婚式の彼がどんな顔をしていたのか、私は知らない。
今日の顔は分かる。
緊張している。
かなり。
目が合うと、ほんの少しだけ笑った。
私も笑う。
前の席にはリオラ。
少し離れてユリウス。
彼は以前より痩せたが、母親も妹も甥も無事だった。
アルベルト王は来ていない。
招いていないから。
代わりに、王室から祝いの品を送りたいという申し出があった。
断った。
二度目の返事で、「では書状だけ」と来たので、それは受け取った。
しつこい。
王様でも、そのくらいはするらしい。
祭壇まで着く。
ギデオンが手を差し出さない。
私は少し笑った。
「そこは出していいですよ」
「確認したほうがいいかと思った」
「結婚式でそこまで?」
「今日だけ基準を変えるのも違うだろう」
「もう」
私は自分から手を出した。
彼が取る。
少し冷たい。
「緊張してます?」
「している」
「私も」
「よかった」
「何が?」
「私だけではなくて」
小声。
司式者に軽く咳払いされた。
私は口を閉じた。
*
誓いの言葉は、以前と同じものを使わなかった。
王国の一般的な婚姻誓約を土台にして、必要なところだけ私たちで書き直した。
過去を永遠に変えない、とも。
何でも共有する、とも。
互いを必ず守る、とも言わない。
そんな約束は、たぶん守れない。
司式者がギデオンを見る。
「ギデオン・ヴァルデン。あなたは、エステル・ローヴェンの意思を自らの意思と同じく尊重し、その選択があなたの望みと異なるときにも、彼女の人生を彼女へ返すことを誓いますか」
ギデオンが私を見る。
「誓います」
次に。
私。
「エステル・ローヴェン。あなたは、ギデオン・ヴァルデンを過去の夫としてではなく、今日ここにいる一人の人間として選び、ともに生きることを望みますか」
胸が熱くなる。
この言葉は。
私が入れた。
「はい」
少しだけ。
声が震えた。
「望みます」
ギデオンの目が。
ゆっくり細くなる。
泣くのかなと思った。
泣かなかった。
私も泣かなかった。
たぶん。
あとでリオラに「面白くない」と言われる。
指輪を交換する。
第49話で受け取ったものと同じ指輪。
二度目の結婚だからといって。
昔の指輪は使わない。
青い石の指輪は、今も七年間の記憶と同じく保管されている。
捨ててはいない。
戻してもいない。
それでいい。
*
「誓約は成立しました」
司式者が告げる。
拍手が起きた。
そのあと。
ギデオンが私を見る。
何か。
待っている。
私は首を傾げた。
「何です?」
「いや」
「言って」
「……口づけてもいいか」
一瞬。
笑ってしまった。
「ここで聞くんですか」
「聞かないほうがよかったか?」
「そうじゃないけど」
後ろからリオラの声。
「早くして!」
礼拝堂が笑いに包まれる。
私は振り返る。
「うるさい!」
もっと笑われた。
ギデオンまで笑っている。
もう。
厳かな式は終わったらしい。
私は彼へ向き直る。
「いいですよ」
「本当に?」
「二回聞いたら取り消します」
「分かった」
彼が少し身を屈める。
触れる前に。
一瞬。
止まる。
私は自分から、その距離を埋めた。
短い口づけだった。
七年前。
最初の結婚式でも。
同じことをしたのかもしれない。
もっと長かったかもしれない。
泣いたかもしれない。
笑ったかもしれない。
知らない。
でも。
今日のこれは。
覚えている。
私自身の記憶として。
*
式のあとの食事会も、小さかった。
ギデオンは何度も席を立たされ、親族や友人に捕まっている。
私はリオラと窓際にいた。
「で?」
彼女が聞く。
「何が?」
「二回目の結婚式」
「よかったよ」
「一回目と比べて?」
「覚えてないって」
「便利ねえ」
最初と同じやり取り。
私は笑った。
外では、夕方の光が庭へ伸びている。
もうすぐ。
ギデオンと同じ家へ帰る。
公爵邸。
昔。
七年間暮らした場所。
でも以前使っていた夫婦の寝室は、そのまま使わないことにした。
私が決めた。
新しい部屋を整えた。
寝室も最初は別。
いつ一緒にするかも、まだ決めていない。
周囲は少し驚いた。
ギデオンは。
「分かった」
それだけだった。
結婚したから。
全部が自動的に許されるわけではない。
そのことを。
私たちはもう知っている。
「エステル」
ギデオンがこちらへ来た。
「そろそろ写真を、と」
「写真?」
「記録画」
「ああ」
記憶術ではない。
普通の肖像記録。
「撮りましょう」
三人で庭へ出る。
その途中。
私は鞄の中の銀の鍵へ触れた。
七年間。
今も封印されたまま。
たぶん。
明日も開けない。
一年後も。
十年後も。
分からない。
いつか見たいと思う日が来るかもしれない。
そのとき。
私は自分で決める。
見てもいい。
戻してもいい。
そのままでもいい。
誰にも。
先に決めさせない。
庭で。
ギデオンが隣に立つ。
「近くても?」
「いいですよ」
肩が軽く触れる。
それくらい。
今は自然だった。
記録師が機械を調整する。
「こちらを見てください」
私は前を見る。
今日のドレス。
今日の空。
今日の人たち。
今日選んだ夫。
全部。
今の私が知っている。
「エステル」
隣から小さな声。
「何?」
「幸せか?」
私は少し考えた。
聞いたギデオンが緊張する。
すぐ答えないだけで。
昔なら。
何を考えただろう。
今は。
待っている。
私はその横顔を見て、笑った。
「今は、かなり」
彼も笑う。
記録師が困った声を出す。
「お二人とも、前を向いていただけますか」
「すみません」
二人で前を向く。
その瞬間。
私は思った。
記憶は。
失うことがある。
歪むこともある。
誰かに奪われることだってある。
だから。
記憶していることだけが。
人生ではない。
選んだこと。
選び直したこと。
そして。
今日。
自分で決めたこと。
それも。
私の人生だ。
記録機の光が瞬いた。
私はギデオンの隣で笑っていた。
七年前の私がどんな顔で結婚したのかは、知らないままでいい。
今日の私は。
自分で覚えている。
「今日のことは、誰にも売らない」




