彼女の背中
次の日、天気はあいにくの雨だった。
豪雨とはいかないものの、今日の雨は大粒だ。アサーさんは来ないだろうと胸を撫で下ろす。結局、納得して帰ったものの、彼女のあの悲しそうな目の前で説教をする気にはなれなかった。僕は彼女についてまだ知らないことが多すぎる。そう思いつつ、生徒達が帰った午後の空を見上げる。
室内訓練所から見上げる空にはあの巨大な十字橋の一角が見えた。霧に溶け込んだその橋はまるで異世界へと繋がっているよう。
そんなことを思って一人更けている。その瞬間、黒い影が落ちた。
「おわっ!!!!!」
「すみません。また驚かせてしまって…」
また情けない声を出しながら驚く僕に、彼女は柔らかな表情で返してくれた。
「あ、アサーさん!!来たんですか!?」
彼女は傘を持っていたが翼がびっしょりと濡れていた。黒色の羽はより一層艶めいていた。光っているようにすら見える。また彼女からビミット族と同じ濡れた毛の匂いがした。
「…エムリス先生が待っていると思って…翼濡れてるんですが…入ってもいいですか?」
彼女が出来るだけ水分を落とすために翼をバサバサとはためかせている。大きな翼が揺れる音に僕は見入ってしまっていた。気づけば彼女が不思議そうにこちらを見ている。動揺を隠すため急いで自身のタオルを彼女に手渡した。
「い、いいですよ!!早く入ってください!」
濡れたらいけないと慌てて室内訓練所に入れた。この訓練所はとても広く、天井も高い。そんな中二人だけしか人がいないのがなんともしれない気持ちにする。
彼女は器用に翼を拭いていく。慣れているのだろう。一瞬で表面の水気が取れる。しかし背中に近いところほど難しいようで、背中を反らせながらも拭こうとしていた。
そんな彼女を手伝わずにはいられず、すぐに駆け寄る。
「て、手伝いましょうか?」
彼女は僕を少しの間見て、ゆっくりタオルを手渡して来た。
「…お願いします」
渡されたタオルは湿っていたが、僕にはとても暖かい蒸しタオルのように感じた。彼女は翼を大きく広げてみせる。彼女の翼は全体的に黒色をしているが、背中に近い方は黄色の羽が生えている。そこの部分はまだ濡れており、深呼吸をし、できるだけ震えを止めてから彼女の羽にタオルを触れさせた。
触られるのが嫌いと言っていた。だから触れないようにするべきだった。それでも。見れば見るほど不思議だった。手の平より大きな羽に、背中に行くにつれてふわふわした羽が生えている。多分今僕は、相当な体験をしている。
その美しさに僕は陶酔しながらも付け根に差し掛かった、瞬間。
バサッ!!
「ッ!!」
何が起きたんだ。さっきまで手にタオルのふわふわとした感触があったのに、今は硬い地面の感触がする。見上げれば彼女は強い嫌悪の目をこちらに向けていることに気づいた。彼女は慌てて僕に駆け寄り大丈夫かと問う。どうやら僕は翼が羽ばたいた勢いで尻餅をついたようだ。
「い、いえ!大丈夫です!!アサーさんこそ…」
そう言えば彼女ハッとしたように目を逸らした。その理由がわかる。彼女の翼の付け根に、あまりにも大きい傷跡があったからだ。羽が抜け落ちた箇所、縦に大きく切り傷があった。切られたてではない。昔の戦士が腕に残しているような傷跡だ。傷跡の形に添い皮膚が膨れ上がっていた。生々しい手の感触を消すように僕は地面を撫でながら立つ。
「…その……」
傷跡のことを聞いていいのか、だめなのか。僕は教師になって生徒の過去に触れることなんてしたことがなかった。いや、してこなかった。それは担任の仕事だと僕自身でさえ割り切ろうとしていた気がした。
でも今。彼女の傷に触れたことで本物に近づける気がして。彼女に僕を変えてと救いを求めるように声を絞り出そうとした。
「き、傷はっ…!!」
「おい!!!エムリス!!」
訓練所全体にとてつもない音量の声が響き渡る。ビクつく背筋を回せば訓練所裏口のドアに人影が立っていた。一瞬で、空気が変わる。
「エムリス!!そいつを捕まえろ!!!授業泥棒め!!!!!」
彼は他クラスの担任だ。彼女は彼にも授業を受けさせて欲しいと言っていたのかもしれない。僕は彼の登場に慌ててえ、え、っと情けない声を短く吐き落とす。
捕まえろ。その声に僕は操られるように彼女をみた。
彼女はもう、いなかった。




