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庭の生け垣の側を歩きながら、ナリアは溜息を吐いた。自分に関する根も葉もない噂が、リベリオの耳に入っているかもしれない。そう考えただけで、震えるような恐怖を感じた。
----呆れてしまわれたかしら。…ううん、知ったところでリブ様には関係の無いことだもの。
生け垣をぐるりと回って、側にあるベンチに座った。ちょうど生け垣の高さで影になり日差しが遮られる。涼しい風にあたりながら空を流れる雲を眺めていると、先ほどまでナリアがいた場所の辺りから話し声が聞こえた。
「で、どうだったの?」
「リベリオ様のことでしょう?相変わらず、すごく目立っていたらしいですよ。」
----この声、お母様とラティね。今『リベリオ様』って言った?
妹のメラティスは18歳になってすぐに父クレトンの旧友であるスタリシオン子爵の息子の元へ嫁いだ。夫が夜会に出席する間、会場からに近いアマティスタ家に夫婦揃って滞在している。
「主人はリベリオ様ご本人とはお話しできなかったそうなのです。けれど、リベリオ様と一緒に戦地からご帰還なさった騎士の方が主人と仲の良いご友人で。偶然その方も出席されてらしたから、それとなく聞かれたの。」
「そうなのね!で、まだ独身でいらしたの?」
「えぇ、まだ独身だと仰っていました。でも…」
「でも?どうしたの?」
メラティスが少し声を落とし、躊躇うように口を開いた。
「なんでも、心に決めている女性がいたそうなのです。でもその女性はすでにご結婚なさっていて、叶わない恋だと仰っていて…。」
「まぁ…。」
メラティスの言葉に、ナリアは頭の中が真っ白になった。
----そう、だったんだ…。
かつての夜会で再開した時の、リベリオの笑顔が脳裏をよぎる。自分を相手にする、しないの話ではなかった。その場で情熱的に見つめる相手が誰であれ、リベリオの心にはすでに愛する女がいたという事実が、ナリアの胸に重くのしかかる。
「ほら、あの方ってその…女性関係が派手な方でしょう?だから、それを聞いたご友人もとても驚いたそうなのです。戦が終わって気が緩んだのか、その日はたまたまお酒をたくさんお召しになっていたから本音が出たのではないか、って。」
「そうだったの。それじゃあ独身を貫いてらっしゃるのは、そのお相手の方が忘れられないからかしら…。」
「うーん…主人から聞いた感じだと、ご結婚そのものにご興味がないのかもしれませんね。ご友人もそれとなく結婚しないのかを聞いたそうなのですが、するとしても相手は誰でも良いっていう風だったようです。きっと、その女性以外に興味が無いのでしょうね。」
エドラが大きな溜息を吐き、沈黙が落ちた。
ナリアは目を伏せ、震える手で口を覆いながらフフッと小さく笑った。
----そうか…、それじゃあ最初からいくら頑張ってもダメだったのね。なぁんだ、そっか…。
「ラティ、この事はナリーには伏せておいてちょうだいね。」
「そうですね…。たとえ奇跡的に寄り添えたとしても、お姉様が辛い思いをするだけですもの。愛する男性に愛されないまま夫婦になるなんて、互いに愛のない結婚よりも辛いことだわ。」
「ただでさえ、おかしな噂のせいでナリーは今とても辛い思いをしているのだもの。これ以上、あの子が傷付くところを見たくないわ。」
「本当に。どうしてそんなお相手ばかりなのかしら…。」
「お母様、ラティ、私の事なら気にしないで下さい。」
ナリアは深呼吸をして立ち上がり、ゆっくりと二人の元へ歩み寄った。まだ微かに震える手足とは裏腹に、妙に胸がスッキリしている。二人の前で立ち止まると、ナリアはニコリと微笑んだ。
「私はもう気にしてはおりません。元々ご縁が無かった、それだけです。」
「ナリー、今のお話し聞いて…」
「はい。ですがもう良いのです。私に関する噂にしましても、それらのおかげで面倒な縁談話も無くなりましたし、むしろ良かったぐらいです。ただ、世間様から後ろ指をさされるような娘になってしまった事だけが、皆に迷惑をかけてしまったと反省しております。」
ナリアが眉尻を下げて目を伏せると、エドラとメラティスが寄り添った。
「ナリー、あなたは何も悪い事なんてしていないでしょう。」
「そうよお姉様。私たちはお姉様の事を恥だなんて思った事、一度も無いわ。むしろ、お父様のお仕事を陰から支えてらっしゃるのですもの。尊敬しているぐらいよ。」
「ふふ、ありがとうラティ。私は十分幸せだわ。」
抱き締めるエドラの腕に額を置いた。
----もう忘れよう。私にはやらなければならない事があるもの。もう二度と会う事はないわ。
*
十の月。
空が高く澄みわたり、木の葉が色付く頃。ナリアはいつもより早めの朝食を済ませ、書斎の片隅で書類に目を通していた。領地内の資源生産量を保ちつつ、まだまだ続く戦後の復興支援にも資金を割り当てなければならない。ナリアが収支の報告書を読んでいると、扉をノックする音がした。
「お忙しいところ失礼いたします。ナリアお嬢様にお客様がいらっしゃいました。」
「お客様?そんなお約束はしてないのだけれど。どなたかしら?」
「お嬢様が通われていた孤児院の修道女だということですが。」
「なんですって!?わかったわ、ティールームへすぐにお通ししてちょうだい。私もすぐに向かいます。」
「畏まりました。」
----ミネラだわ!まさか来てくれるなんて!
ナリアは急いで書類を引き出しに片付け、ティールームへと向かった。扉を開けて入るとミネラがパッと立ち上がり、ナリアの顔を見るなり駆け寄ってきた。
「あぁ、ナリー!久しぶりね。元気にしてた?」
「ミネラ!私は元気よ。ミネラも皆も元気にしてる?本当に嬉しい。来てくれるなんて思わなかった…。」
「何言ってるのよ!リドット先生も子供たちも他の人たちも、皆元気にしているわ。」
二人は抱き合い、ナリアは涙を浮かべた。ミネラがそっと身体を離して肩に手を添えると、ナリアの顔を覗き込んだ。
「ナリー、あなたまた痩せたんじゃない?皆あなたの事を心配しているのよ。」
「あの時は本当にごめんなさい、私のせいで皆に迷惑をかけてしまって…。」
「だから、ナリーは何も悪くないじゃない!リドット先生も仰ってたわよ。孤児院への嫌がらせよりも、ナリーの心の傷の方がよっぽど深刻だって。先生も私も、小さい頃からあなたを見続けているのですもの。あなたがどれほど気に病んでいるのか手に取るようにわかるわ。」
ナリアが求婚を断り続けた男たちの中には、断られた腹いせに孤児院への誹謗中傷や嫌がらせを指示する者たちがいた。石を投げつける者、壁に落書きをする者、夜中の内に菜園を荒らす者、汚物を撒き散らす者。ついには孤児院で働く修道女にも手を出そうとする者まで現れた。
「それでも、やっぱり私のせいよ。私がもう少し上手く立ち回れていたら…彼らの自尊心を傷付けずにお断りできていたら、皆あんな目には遭わなかったのだもの。」
「とにかく、座って話しましょう。」
ミネラが小さく息を吐いてナリアの手を引いた。テーブルに着く頃、侍女がお茶の用意を持って入ってきた。柑橘系の爽やかな香りが立ち込める。数種類の小さな焼き菓子を添えて、侍女は部屋を出た。
「ねぇ、ナリー。もう孤児院へは来ないの?あなたが来なくなって一年以上も経つのよ。子供たちもあなたに会いたがっているわ。また踊りを教えてほしいって。」
「ミネラ…。ううん、私は行けないの。今年ね、二年ぶりに夜会に参加したのだけれど…。」
「え!?参加したの!?大丈夫だった?」
「それが…。」
ナリアは口を噤んだ。言いかけたものの、ミネラに心配をかけたくない。
ナリアが黙ったまま俯いていると、ミネラは静かに口を開いた。
「ナリー、無理して言わなくてもいいわ。きっと辛い思いをしたのでしょう?でもね、これだけは忘れないで。私はいつでもあなた味方よ。ううん、私だけじゃない。リドット先生も、子供たちも、皆も。私たちはいつでもナリーを歓迎するわ。」
ミネラがニコリと微笑む。昔から変わらないミネラの優しさに目を細め、ナリアは小さく頷いた。
「気持ちが落ち着いたらいつでも来てね」と言って、ミネラは孤児院へと帰っていった。
*
ドレリア暦1575年、一の月。
年が明け、国内外の新年ムードも落ち着き出した頃。午後の昼下がりに居間でお茶を飲んでいるクレトンの元に一通の手紙が届いた。手紙には色とりどりの豪華な花束が添えられている。包まれている花を見れば、この寒い時期には大変高価なものばかりだった。
クレトンは側にいたエドラに花束を手渡すと、すぐに差出人を確かめた。
「王宮第五騎士団副団長、リベリオ・デガート?」
「なんですって!?今、何と仰いまして!?」
クレトンの言葉にエドラは飛び上がり、驚愕に目を見開いた。突然の大声にクレトンが「ヒェッ」と小さく悲鳴を上げると、二人は固まったまま見つめ合った。
エドラが駆け寄り、手紙の差出人を確認する。そこには確かにリベリオ・デガートと書かれていた。
「エドラ、どうしたのだ。知り合いなのか?」
「いえ、知り合いといいますか…。とにかく、早くお読みになって!」
「え?あ、あぁ。わかった。」
エドラの謎の気迫に視線を泳がせながら、クレトンは封を開けて読み始めた。
「これは…。ナリアへの婚約願いだ。」
「なっ、まさか…!」
クレトンが一通り読み終え、エドラに手渡す。エドラも急いで内容を確かめると、ソファに座り込み呆然とした。
「なんだ、どうしたのだ?彼がどうかしたのか?」
「このお方は…ナリアの初恋のお相手なのです…。」
「なっ、なんだと!?それは本当なのか!?」
クレトンが慌ててエドラの隣に座ると、エドラは手紙に視線を落とした。
「でも、どうして今さら…。」
エドラが小さな声で呟くと、クレトンはハタと気になった。
「うん?ちょっと待て。ナリアに良い男がいたのなら、なぜ私に何も相談が無かったのだ?」
「父親に恋の話をする娘などおりませんわよ。」
「だからと言って私だけのけ者か?エドラは知っていたのだろう?」
「あら、可愛い娘が見知らぬ殿方に頬を染めているところをご覧になりたいの?」
「…。」
「ほら、ごらんなさい。」
「しかし…」とブツブツと口を尖らすクレトンを横目にエドラは立ち上がり、手紙と花束を持ってナリアの部屋へと向かった。
*
「ナリー、ちょっといいかしら。」
「お母様。えぇ構いません…まぁ、素敵な花束ですね!こんな高価なもの、どうなさったのですか?」
ナリアがエドラの腕に抱えられた花束に目を見張ると、エドラは部屋へと入りナリアに手渡した。
「これはあなた宛てよ、ナリー。」
「私にですか?一体どなた様からです?」
「先ほどお父様の元にこの手紙と一緒に届いたの。」
「それは…まさか、縁談のお話しでしょうか。」
「えぇ、その通りよ。」
「お母様、私は…」
「いいから、これを見てごらんなさい。」
エドラが手紙を手渡す。ナリアは差出人の名前を見た瞬間、大きく目を見開いた。あまりの驚愕に頭の中が真っ白になり、呼吸が止まる。すぐに息苦しさを覚え深く息を吸い込むと、手紙を持つ手が震えた。
「『リベリオ・デガート』…これって…、リブ様からのお手紙、ですか…?」
「ええ、そうよ。リブ様があなたと婚約を結びたいと仰っているの。」
「なぜ、なぜ急にそんな…。どうして…。」
「とにかく、落ち着いて。座りましょうか。」
エドラが椅子に座るように促すと、ナリアはふらつくような足取りで座り込んだ。早鐘を打つ心臓に痛みを感じながら、手紙の内容に目を走らせる。リベリオの誠実さと情熱が伝わるような文章に、胸が高鳴り、困惑した。
手紙を読み終え呆然とするナリアの肩に、そっと手を置いた。
「あなたはどうしたい?このお話を受けるのかどうかは、あなたが決めても良いのよ。」
「私…私は…」
「いいわ。今すぐ決めなくてもいいのよ。ゆっくり考えて、それからお返事すればいいのだから。ね?」
「はい…。少し考える時間を下さい。…できるだけ早くお返事するようにします。」
エドラは小さく頷くと、ナリアの部屋を出た。そっと扉を閉めて小さく息を吐く。
----ナリーがすぐに断らなかった。なら、このお話は受け入れるということね。
エドラはふわりと微笑み、居間へと向かった。




