〈file7〉誰がタメの強さ
「あ、二人ともおかえ―――けほっ、けほっ……!」
廊下の曲がり角から、レジ袋を下げた星凛が手を振りながら走ってきた。
しかし、挨拶の途中で激しく咳き込んで胸を押さえる。
「おいこら星凛。まだ大声出すなっつってんだろ」
後ろから歩いてきた和李が、星凛の頭をペシリと軽く叩いた。
「はぁ〜い……。―――おつかれ〜、未宙!」
喉をさすりながら、ガラガラのかすれ声でヘラリと笑ってみせる星凛。
その萌葱色の制服の襟元は、いつにも増してヨレヨレに崩れている。
和李は呆れたように大きなため息をつくと、レジ袋から冷えたペットボトルを取り出し、星凛の頬にポンと押し当てた。
「星凛……。お疲れ」
「初の受電どうだった〜〜〜っ?緊張したよね!?」
痛々しくもどこか誇らしげな親友の姿に、未宙の唇から自然と小さな笑みがこぼれ落ちる。
張り詰めていた来望街警察本部の冷たい空気が、星凛が連れてきた温かな熱によって少しずつ解解けていくようだった。
「いや何と言うか……。みんな凄いなって……。あんなにスラスラ対応出来て……俺出来なかったから……」
「スラスラ……」
「特に宵街チーフ。全体を俯瞰して見てたから対応も早かったし……」
未宙の素直な感嘆の言葉に、星凛はガラガラ声をさするように喉を押さえながら、どこか意味深な笑みを浮かべた。
「……未宙は今日の兄さんを見てそう思った?」
「え、?あ、あぁ」
当然だろうと言わんばかりに頷く未宙に対し、星凛はレジ袋から冷えたお茶を取り出すと、キャップを回しながら静かに視線を落とした。
「そっか。なら、未宙もまだまだ成長出来るね」
「どういう事だ……?」
「今日、兄さんを見てて気づいたことなかった?」
話の意図が見えず、眉をひそめる未宙。
星凛はお茶を少しだけ口に含み、喉を潤してから未宙の瞳を真っ直ぐに見つめ返した。
「……特には……。みんなの言葉にもすぐ対応してたし……」
「そう、そこだよ」
「……??」
未宙の頭上に浮かぶ疑問符を払うように、星凛はゆっくりと首を横に振る。
「兄さん、絶対に自分から動いてなかったでしょ?未宙の言葉、水瀬の感覚、俺の指示だけを頼りに葬儀場や警察に掛け合ってくれてた」
「あ……確かに。俺たちに指示は飛ばしてたけど、宵街チーフから現場に声をかけるって事はしてなかった、かも……」
言われてみれば、和李は終始司令室の椅子から立ち上がらず、画面と自分たちの声だけに集中していた。
その理由を解き明かすように、星凛の声からいつもの脱力感が消え、静かなトーンへと変わる。
「……兄さん、昔の事故で感覚を少し見失ってるんだよね」
「……!感覚……を……?」
星凛はその淀みない瞳でまっすぐ、本当の事を伝えた。
―――視空間認知障害
脳梗塞や麻痺等の頭への強い衝撃により自身と人、物との距離感が掴めなくなってしまう障害。
一目見ただけでは気づく人はおらず、話すのも面倒だと言うことで和李の意向で普段は黙っていた星凛だったが、これから同じ職場で働くことになる未宙には、知っておいて欲しかったのだろう。
静かに、ただ僅かな温かみを帯びたその声で話を続けた。
「人との距離とか、物との距離感とか、そう言うのが分かりづらいみたい。視空間認知障害って言うんだって」
「それで宵街チーフの机は物が手の届く所に置いてあったのか?」
未宙の脳裏に、和李のデスク周りの異常なまでの配置——すべての機材や書類が完璧な半径の中に収められていた光景がフラッシュバックする。
星凛は小さく頷いた。
「うん。もしぐらついてもすぐに対処出来るように、俺も近くにいるしね」
「……」
衝撃の事実に言葉を失う未宙。
星凛は廊下の奥、水瀬が姿を消した方向へ視線を向け、どこか愛おしそうな、それでいて切ない眼差しを浮かべた。
「だから、兄さんの右腕が水瀬だって事にも大きな意味があるんだ」
「視空間認知障害の宵街チーフを補ってるのが、感覚過敏の水瀬さん……ってことか……」
「うん。俺も兄さんが8-Signalに水瀬も招き入れた最初は、ただ水瀬が兄さんに心酔して着いてきただけだと思ってたんだけど……」
「けど?」
「……本当は、兄さんの方が……」
そこまで言いかけた時、廊下の曲がり角から低い足音が近づき、会話が不自然に途切れた。
「―――星凛」
いつの間にか戻っていた和李が、手に温かい缶コーヒーを握ったまま、壁に寄りかかって二人を見下ろしていた。
その表情には、いつもの穏やかなチーフの微笑みはない。
「兄さん!水瀬は?」
「あ?あぁ……飲み物買いに行かせた」
「そっか」
「……っ」
和李は静かに歩み寄り、未宙の前に立った。
その深遠な瞳に見つめられ、未宙の背筋に冷たい緊張が走る。
「その目」
「え?」
「未宙くんのその目。同情だろ」
「っ……!」
射抜くような和李の言葉に、未宙は息を呑んだ。
和李の声音は驚くほど静かだったが、そこには決して他人に踏み込ませない絶対的な領域が横たわっている。
「いらないからな、そう言うの」
「……でも……」
喉を詰まらせながらも、未宙は諦めずに視線を食らいつかせた。
警察本部の冷たい蛍光灯の光が、和李の横顔に深い影を落としている。
和李はふっと小さく吐息を漏らすと、自嘲めいた、だが揺るぎない力強さを秘めた笑みを口元に浮かべた。
「……もう見飽きたんだよ。同情も、心配も、憐れみも……」
その言葉は、かつて数多の人々から向けられてきた「可哀想な人」を見る目を切り捨てるための刃だった。
あまりの静かさに、未宙の胸の奥がキュッと締め付けられる。
「……感覚がないって……大変、じゃないんですか……?」
「……ふむ。大変、か。今聞かれるまで考えたことも無かったな」
「何で……」
「悪いな。お前と違って俺には、最強の感覚が着いてるもんで」
言い切った和李の顔には、一片の陰りもなかった。
あるのは、一人の人間に対する誇りと絶大な全幅の信頼。
和李はその場で目を閉じてあの無愛想な背中を思い出した。
何度言っても話は聞かず、自分を責め、和李の為に怒り、悲しんでくれたあの不器用で小さな背中。
「あいつがいれば、俺の感覚何か必要ねぇ。そう言い切れるくらいには、水瀬の事尊敬してんだよ」
「……」
「……これから未宙くんにも、そう呼べる存在が出来ると良いな」
「あ……」
和李の視線が、一瞬だけ未宙のとなりに立つ星凛へと向けられた気がした。
その意味を察し、未宙の胸が強く締め付けられる。
「お、水瀬帰ってきたみたいだな。俺らはもう家に帰るが……未宙くんはどうする?」
「え、?」
「どうせ水瀬も家来るんだし、未宙も遊びに来てよ!母さんにも紹介したいからさ!」
沈黙を破るように、喉をさすっていた星凛が明るい声を上げた。
「わ、わかった」
歩き出した和李と水瀬の背中を追いかけるように、星凛が未宙の手首をキュッと掴んで走り出す。
来望街警察本部の無機質で冷たい廊下を抜け、外へ出ると、夕焼けのオレンジ色が四人を優しく包み込んでいた。
―――誰かにとっての悪で、誰かにとっての正義。
そんな不確かな世界の中で、未宙は確かに、自分の居場所となる「温かな光」の渦の中へと足を踏み入れたのだった―――……。




