第9話
視界の端が、わずかに歪んだ――。
ほんの一瞬。
だが、それは確かに起きた。
「……?」
ソファに沈めていた体を、ゆっくりと起こす。
見慣れた天井。
静まり返った部屋。
窓の外からは、遠くの車の音がかすかに届く。
すべてが、いつも通りだ。
――だが。
「……今のは」
空気が違う。
わずかに重い。
いや、違う。
密度が変わったような、妙な圧迫感。
立ち上がり、床に足をつける。
その瞬間。
感触が、消えた。――足裏の現実が、抜け落ちる。
「――っ」
反射的に身構える。
遅れて、視界が崩れる。
上下の感覚が消える。
重力が抜ける。
音が遠ざかる。
落ちているのか。浮いているのか。
それすら分からない。
「……チッ」
舌打ちが漏れる。
この感覚は、覚えている。
あの世界に引きずり込まれた時と同じだ。
(またか)
次の瞬間。
唐突に、“立っていた”。
「……」
息が詰まる。
何もない空間だった。
足元はある。
だが、確かな感触はない。
踏みしめているのかどうかも曖昧だ。
視界は開けている。
だが、距離感が成立していない。
遠くが近く、近くが遠い。
上下の区別も、完全ではない。
わずかに“上”らしき方向は感じるが、それすら確信は持てない。
「……どこだ、ここは」
声を出す。
だが、反響はない。
音が空間に吸い込まれるように消える。
一歩踏み出す。
踏み出した感覚はある。
だが、進んだ実感がない。
「……ふざけてるな」
低く吐き捨てる。
「誰だ」
短く、問いを投げる。
沈黙。
だが次の瞬間。
“意味”が、直接流れ込んできた。
「――観測者」
“それ”は、言葉ではなかった。
声ではない。
思考の奥に、直接触れてくる。
「……名乗る気はないか」
「不要。名は意味を持たない」
即答。
感情の気配はない。
「……ここは何だ」
「境界」
「……境界?」
「二つの世界の、間」
思考が一瞬止まる。
(……やっぱり、繋がってる)
森の光景が脳裏に浮かぶ。
土の匂い。湿った空気。
そして――あの遺体。
「……俺を呼んだのはお前か?」
「正確ではない」
「……じゃあ何だ」
「選ばれた」
「誰にだ」
沈黙。
答えは返ってこない。
「……都合のいい話だな」
吐き捨てる。
「時間がない」
空気が、わずかに変わる。
“何もなかった”はずの空間に、圧が生まれる。
「この世界は、既に壊れ始めている」
言葉が、重く落ちる。
「……何の話だ?」
「この世界の歪みが、お前たちの世界に影響を及ぼし始めている」
「……」
息が止まる。
現実の光景が、脳裏に浮かぶ。
山中で発見された遺体。
外傷のない死。読めない文字。
(……やはり、繋がっている)
「既に侵食は始まっている。原因を特定し、排除しろ」
「……」
意味は分かる。
だが――理解が追いつかない。
「何をどうしろって言ってる」
「異常を排除しろ」
「……異常?」
「歪み」
曖昧だ。
だが――
(……あの現場)
(あの死体)
(あの文字)
点が、確実に繋がり始めている。
「……断ったらどうなる」
わずかな間。
「選択は自由。ただし、選択次第ではどちらも、いずれ崩壊する」
「……」
言葉が出ない。
“自由”と言いながら、選択肢は一つしかない。
「……面倒な話だな」
だが。
(無関係じゃない)
それだけは分かる。
「……分かった」
納得したわけじゃない。
「放っておく気もない」
その瞬間。
空間が、歪んだ。
視界が崩れる。
重力が戻る。
音が戻る。
次の瞬間。
土の匂いが、鼻を突いた。
「……っ」
短く息を吐く。
目の前には、森。
前回と同じ場所。
だが――空気が違う。
重い。静かすぎる。
何かが潜んでいるような圧。
「……さて」
小さく呟き、一歩踏み出そうとして――
ふと、足元に視線を落とす。
「……あ?」
裸足だった。
「……またかよ」
湿った土の感触が、足裏にまとわりつく。
冷たい。
やけに現実感が強い。
自分の格好を見下ろす。
ワイシャツにスラックスだけ。
上着もない。
「……ああ、そりゃそうか」
自宅でソファに沈んだ時、上着も靴も脱いでいた。
「律儀にそのまま反映すんなよ……」
小さく呟き、顔を上げる。
(……今はそれどころじゃない)
森は、静まり返っていた。
不自然なほど音がない。
獣の気配も薄い。
だが――
(……何かいるな)
わずかな違和感。
皮膚の奥で感じる、異質な気配。
「……さて、どこから手をつけるか」
ゆっくりと、一歩踏み出す。
2026.04.04 文章を修正しました
2026.04.26 文章を修正しました




