第二章:精霊と生きる世界
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一昨日の早朝から降り始めた雨は、雨期の終わりを告げる豪雨である。
それは『水精霊の嘆き』と呼ばれており、この雨が上がると世界は最も暑い時期を迎える。
二ヶ月間降り続けた雨の恵みを蓄えた大地は、暑い時期にたっぷりの陽の光を浴びて、実りの時期を迎えるのだ。
その後世界の気温は下がり始め、それと比例するように天候も荒れ始める。
『雷精霊の憤怒』と呼ぶ大嵐を経て、気候はゆっくりと寒気へと移り変わっていく。
『氷精霊の眠り』と言う大寒波を乗り越えると、風が暖かさを緩やかにもたらす。
そうして、風が寒気と共に去っていくと、世界はまた雨期に入るのである。
これがエレオスでの季節……、精節の移り変わりである。
「えーっと、昨日までが水精節、今日から二ヶ月間が最も暑い火精節。
その次の地精節が実りの時期で、その後の雷精節で気温がぐー…っとさがる。
一番寒いのが氷精節で、それが明けると新年を迎えて風精節になる。……で、良いんだよね?」
「あぁ、正解だ。もう完璧に覚えたみたいだな」
「まぁ一般常識だから、覚えるのは当然なのだがな」
「アーク、横槍うるさい」
雨期である水精節が明けた翌日、若干湿った空気に包まれた回廊に、三人分の足音が響く。
とてとてとて、と一定のリズムで足音を響かせるのは、何故か後ろ向きで歩いている黒銀の髪の人形…アークだ。
後ろ向きだと言うのにその足取りは非常に安定しており、一切危なげがない。
では何故後ろ向きで歩いているのか。
勿論それには理由がある。
アークの目の前にその“理由”が存在し、それがこの妙に遅い散歩の原因である。
「ちょ、ちょい待ち、アーク、もうちょいゆっくり…」
後ろ向きで歩くアークに両手を引かれながら、白銀の髪の人形…ノアが、覚束ない足取りで歩いていた。
それは二足歩行を覚えたての赤ん坊のような不安定さで、正直見ている方がヒヤヒヤさせられる。
その内にカックリと膝から崩れそうなので、アークがノアの両手を取って歩いているのだ。
そんな二人の傍らには、非常にゆっくりとした歩調で紫呉が同行している。
ノアの歩みが非常に遅いので、それに合わせていれば必然的に紫呉の足も遅くなる。
しかし、これはノアの歩く練習なので、ゆっくりでも何の問題もないのだった。
しかし、ただ黙々と歩くだけでは、何だか時間が勿体ない。
そう考えたアークの発案で、これまでに教わって来た事のおさらいをする事にしたのだ。
森の廃墟で“拓榴石”の羈絆を構築し、拠点を岩窟神殿に移して今日で三日目。
ノアの歩行練習は廃村を出発する前から始まっていた。
まず自力でまっすぐ立つ練習から、ゆっくりと躯をならしていく。
簡単な動作をスムーズに行えるようになったら、次は歩く練習。
それだけに留まらず、最終目標である人化を目指して魔力の鍛練。
子供でも出来る基礎中の基礎魔術習得など、ここ数日間、ノアは多忙を極めた。
定期的に休眠すれば活動限界で強制休眠状態に入る事はなくなると言われ、夜は普通に休むようにしている。
羈絆の構築で魂の欠損を補ったおかげか、活動時間は前より格段に長くなっていた。
努力の甲斐あって日常的な動作や躯の反応速度は良くなり、前のような意思との“ズレ”も無くなってきた。
まだ己一人で満足に歩く事は出来ないが、支えがある上でゆっくりとであれば自力で移動出来るまで成長したのである。
それと同時進行で、ノアはエレオスで生きる上で知っていなければならない常識についても教わった。
基礎魔術や魔力制御もその一貫である。
今しがたノアがおさらいしたのは、エレオスの季節に関する事だ。
前世の世界では『季節』や『四季』と呼んでいたそれらは、エレオスでは『精節』と呼んでいる。
精霊によってエレオスにもたらされる時節。
それがエレオスの気候の移り変わりである。
春夏秋冬と年に四回移り変わる季節とは事なり、精節は六回、気候が移り変わる。
まず新年を迎えると同時に始まるのが、風精霊アウラがもたらす“風精節”である。
一年の間でも比較的気温が穏やかな日が続く節だが、風が吹く日が多いのも特徴の一つだ。
特に時折吹く突発的な強風は、『風精霊の悪戯』と呼ばれている。
空を飛ぶ者がこれに煽られて、飛ばされてしまう事がある程だ。
節の終わり頃、風は雨雲を運び、エレオスは雨期を迎える。
雨期と言うだけあってぐずついた天気が続き、長ければ十日間雨が止まない時もある。
特に水精節から暑い時期の火精節に入る直前には、世界の至る所で滝のような豪雨に見舞われる。
地精霊テララの恩恵により作物が大量に実り、花々や植物のみならず、昆虫や動物も活性化するのがこの時期である。
前世の感覚で言うなら地精節の方が春らしく感じられるが、この時期を終えると、エレオスの天候は一気に崩れやすくなっていく。
“雷精節”は雷精霊トニトルスの影響下にあるため、一年の中で最も海が荒れる時期だ。
雷雨が降る日も多く、候鳥にとって最も旅をしにくい時期でもある。
が、紫呉にとっては“とある事情”で、この時期の方が過ごしやすいと言う。
無論好きな精節や過ごしやすい精節が、人によっては様々なのは当然の事だが…。
一年を締め括るのは、氷精霊グラキエスの節となる、“氷精節"である。
前世で言うところの冬に当たるこの時期は、場所によっては『氷精霊の眠り』と呼ぶ大寒波の日まで雪が降り続ける事もある。
この大寒波を乗り切れば、あとは新年を迎える準備をするだけ。
こうやって、エレオスの気候は六属性を司る大精霊達の影響の下、移り変わっていくのである。
突然降り出した豪雨、『水精霊の嘆き』に驚いた事から教わった精節。
若干の違いはあれど前世と然程変わらないと感じたおかげで、すんなり覚えられた。
しかし、前世と大分異なるのがエレオスの暦であった。
ノアのおさらいは続く。
「次だ。今日は何日だ?」
「えーっとね。火精節光月1日、風旬…だっけ?」
「よし。では光月と闇月について答えろ」
「間髪入れず!?スパルタだな、アーク」
手を引かれたまま歩きながら、ノアは問われた事を頭の中で纏めていく。
因みに何かと言うとノアに甘くなる紫呉は、問答に関しては口出し無用とアークから言い渡されていた。
エレオスの一年は前世と同じく十二ヶ月である。
ただし、“一年十二ヶ月365日”ではなく、“一年十二ヶ月360日”なのだ。
すなわち、エレオスの一ヶ月は三十日、一週間は六日間となっている。
そして精節は二ヶ月毎に移り変わっている。
その最初の一ヶ月を“光月”、次の一ヶ月を“闇月”と言うのだ。
長命種の長老方などは上月、下月と呼ぶ事もあるし、時に“上弦”“下弦”と言うこともある。
呼称は色々あるが、その由来は月の満ち欠けに起因する。
夜になればエレオスの空にも月が登る。
しかし、その満ち欠けの周期は、前世の倍である。
凡そ三十日、一ヶ月で新月から満ちてまた欠ける前世と違い、エレオスの月は二ヶ月間で満ち欠けを行う。
最初の一ヶ月で新月から満月となり、次の一ヶ月でまた新月になる。
上月は月が満ちて夜でも明るいから“光月”。
下月は月が欠けて暗くなっていくから“闇月”。
今はこう呼ばれているが、上月下月の方が分かりやすいな、とノアは思っている。
因みにアークもこちらの呼び方だ。
更に余談だが、紫呉の一族では上弦、下弦と言っているらしい。
早い話がどれでも大して違いはなく、これと言って明確な決まりはない、と言う事。
だが、一応は光月闇月と呼ぶのが一般的らしい。
閑話休題。
「ついでに聞かれるだろうから話しとく。
旬は週間の各日を表す言葉で、これも六属性から来てるんだよね?」
分かりやすく言えば、前世の曜日に当たるのが“旬”である。
曜とは天体の総称を意味する文字であり、曜日はこれらを割り当てた名称だった。
…記憶は曖昧なので、“多分”が付くが。
しかし、この世のあらゆる事柄が精霊の影響下にあるエレオスでは、暦のみならず天候や昼夜の長さも精霊によるもの。
そう考えられている。
「えーっと、エレオスを構成する大精霊は全部で八柱。
火精霊、水精霊、風精霊、地精霊、雷精霊、氷精霊。
で、光精霊がラディウス…?で、闇精霊がテネラブレ…違った、テネブラエだ」
「若干危うかったがまぁ良いだろう。
大精霊の名も一般常識なのだから、次は詰まるなよ?」
ちゃんと答えたのにこの言い様…、と人形の玲瓏たる美貌が憮然とした面持ちになる。
…といっても人形に表情筋等ないので、無表情のまま変わる事はない。
が、その円らな目は半眼になってアークを見つめていた。
「紫呉ー。アークが厳しいよー」
「大丈夫。及第点取れてるよ。たった三日でそれだけしっかり答えられるんだから、大したもんだよ。
アークは人を誉め慣れてないんだろ」
「余計の事を言うな紫呉ッ。あと俺が厳しいのではなく、紫呉が甘いだけだ」
「そーかなーぁ?」
そんな他愛ない会話を交えながら、三人はゆっくりと神殿の回廊を進んでいく。
こうしておさらいをしながら歩行練習を始めてそろそろ一時間が経つ。
亀のような歩行速度ではあったが、ノアは視線の先に見慣れてきた大きな扉を見つける。
長い回廊を転ぶ事なく無事歩き切れた、と安堵した。
アーリアス山脈はエレンホス大陸の西側海沿いをなぞるように、縦に長く伸びている。
その中心にあるのがかつて霊山と呼ばれ、世界でも有数の高峰でもあるアーリアス山岳。
岩窟神殿はその山岳を中心にして、岩山の中を南北に掘り進めて造られた珍しい建造物だ。
外部から見れば岩山の麓に礼拝堂の入り口があるだけだが、その内部は非常に広く造られているのだ。
それも横にだだっ広いので、内部に作られた回廊は必然的に長くなる。
移動はなかなか大変だが、ノアにとっては歩行訓練にちょうど良い構造だった。
横に広い分一階しか存在せず、特にこれと言って段差もない。
当然階段もないので、まだ足元が覚束ないノアが段差に蹴躓く事もないのだ。
そんな平坦な回廊をゆっくり歩いて辿り着いたのは、憑依人形達にとって最も馴染みのある場所だった。