第一章:黒の目覚め
※アーク視点
今回はちょっと短め
全てが闇に閉ざされた“そこ”は、安らぎで満たされていた。
誰からも脅かされる事のない“そこ”は、自身を柔らかく、優しく包み込む微睡みの海の中だ。
その中で、“彼”はゆっくり、ゆったりと浮き沈みを繰り返す。
絶対的な安心感に満ち足りた、とても穏やかな深き眠り。
“彼”……アークは初めて感じる揺り籠のような暖かさに包まれ、微睡みの海を揺蕩うていた。
眠りというものが、これ程までに穏やかで優しいものだと、初めて知った。
これまでにも、何度も眠りと覚醒を繰り返してきた。
魔人として生まれ、一人で生き抜いて来た時も、殺戮人形として戦いと殺戮に明け暮れた時も。
魔剣となり封印されてからも、力を奪われ魔核となってからも、何度も、何度も……。
なれど、こんなに安らいだのは初めてだった。
アークにとって眠りとは、恐怖と苦痛に満ちたものでしかなかったのだ。
人と魔が殺し合っていた時代、両者の血を引く魔人には、安息などありはしなかった。
どこへ行こうとも忌み嫌われ、子供だからと優しかった人も、魔人と解るや否や、怯え、拒み、怒りと憎悪を剥き出しにして攻撃してきた。
魔族に至っては卑しい者から生まれた忌み子と、目についただけで殺されかけた。
戯れに、嗤いながら、奴らは魔人をいたぶり嬲り、飽きたら殺すのだ。
そうやって、この世の全てを憎み、嘆き、恨んで死んでいった魔人を、何人か見た事があった。
力なき魔人の魔核は粉々に破壊され、物好きな魔族は糧とした。
同じ境遇だから、という魔人族同士の仲間意識もない。
元からそんな意識などないのだから、己が生きるために他の魔人を犠牲にもした。
どこまでも、苦痛と憎悪と猜疑で満たされた悪辣な世界。
そんなところに安息など、ある筈もない。
睡眠は無防備な姿を晒してしまうが故に、いつだって危険と共にあった。
殺戮人形と呼ばれ恐れられるようになっても、それだけは変わらなかった。
魔剣となってからは、眠りを必要としなくなった。
激化していく戦争。そこかしこで憎悪が渦巻き、生命が消える一方だった時代。
魔剣として、ただ使われ利用される日々。
休む間もなく人を、時に魔人を、時に、人との共存、平穏を望んだ魔族を、斬り続けた。
休めたのは鞘に収まっている間だけ。
それでも、剣を通して殺した者達の怨念が伝わり、休まる筈もなかった。
その憎悪や怒りは、己が殺された時の事を思い出させる。
己を取り囲み、数の暴力で捩じ伏せ嬲り、あまつさえ死角から背後への刺突。
『殺戮人形は、この****が討ち取ったぁ!!』
姑息な悪魔の声と勝鬨が、嫌に耳についた。
悪魔の名など早々に忘れた。
ただ姑息極まりない悪魔に使われているという屈辱が、彼に平穏も安らぎも与えてくれなかった。
彼の中に、憎悪と怨念が積り積もっていく。
それが抑え切れない殺戮衝動へと変わり吹き出したのは、アークが将校の魔核を“喰った”直後だった。
最早、何人殺したか解らない。
誰を殺したのかも、記憶にない。
魔剣として取り憑いた者の顔も、己を封印した魔導師の顔も。
覚えていないというより、記憶していなかった。
それくらい、取るに足らない存在達。
そんな中で、唯一、はっきりと覚えている者が、一人。
人類の“英雄”。
その名をアーデルベルト・ランセル。
魔剣と対をなす、精霊の魔核を宿した“聖剣”を振るう、“勇者”と呼ぶに相応しい男。
光輝く純白の鎧を身に纏い、煌めく金の髪を靡かせて。
ただ真っ直ぐに己を見据え、その麗しい顔を雄々しく引き締めた、希望を体現する者。
思えば、あの男と戦い、討ち取られ、剣を破壊された時、それらが楔となって己の中に打ち込まれたのかも知れない。
世の全てに絶望していたわけではない。
…そう思いたかっただけで、己の内から来る憎悪も怒りも殺意も全て、深き絶望から来ていたのか。
今となっては解らないが、楔はゆっくりと長い年月をかけて、彼の憎悪や絶望を溶かしていった。
残ったのは空虚だけだった。
力を奪われ魂を削られ、忘れ去られても怒りすら湧いてこない。
空虚な状態で迎えた眠りもまた、空っぽだった。
それは己の生き様であるかのようで、苦しみと虚しさを残していく。
そこに痛みが伴い始めた頃、彼の前に“あれ”が現れた。
欠けた魂、未完成の魔核、自分と同じ器なき空虚な存在。
されど、“あれ”の御霊に芽生えた意識は、己とは正反対の平穏と優しさで満ちていた。
一体どんな世界でどのような人生を歩めば、これ程までに美しく力強く、芯の通った意識が育つのか…。
まるで疑う事を知らないかのように、得体の知れない空虚な存在である自分と、何の偏見もなく言葉を交わす。
それは、彼にとって初めて味わう事ばかりだった。
己に向けられるのは、いつだって負に満ちたものだけだった。
侮蔑、嘲笑、嫌悪、畏怖、狂気、憎悪、憤怒……。
唯一、強烈に記憶に残っている彼の英雄ですら、憤怒と憐憫、そして憎悪に満ちた目を向けてきた。
魔族に対する憎悪、怒り。
そして最後に残った憐憫は、躯を乗っ取られた将校か、暴れ殺す事でしか己を誇示できない、空虚な自分のどちらに向けられたものだったのか…。
だが、“あれ”は違った。
その思想の深淵までをも覗き見る経過となり、そうして触れた“あれ”の心には、特別な感情などなかった。
それは己の過去を知っても変わらず、『黒歴史』等という簡単な言葉で一纏めにしてしまった。
そうして触れた“彼の者”の心は、どこまでも芯が強く、何よりも高潔で眩しくすら感じた。
肉体はなく、未熟な魔核と人の半分にも満たない、欠片のような魂。
とてもじゃないが彼の者が一個の生命体として生きていける程、この世界は優しくない。
それでも、どのような姿になろうと、右も左もわからぬ異世界だろうと、己の存在意義を探し、己らしく生きようとする様は、目を見張る程美しく、眩かった。
それこそ、自分も同じように生き直したい。そう思える程に…。
だから提案をしてみた。柄にもなく“守る”などと口にしてまで。
奪われた力を取り戻したい、などただの口実でしかない。
ただ、“彼の者”と…ノアと一緒ならば、世界の見え方も変わるかも知れない。
そう思って、生前の姿とは似ても似つかない、愛らしい子供の人形を新たな器とした。
己の命よりも大切にしていたと言う、ノアの魂の欠片が僅かに宿っていた、この人形を…。
────あぁ、そうか。これは、あいつの…、ノアの気配に触れているからか…。
この器を通して、俺の中に流れ込んでくる…。
こんなに穏やかな眠りを得られたのは、本当に初めてだった。
安らかな温もりに包まれ、空虚で冷え冷えとしていた己の中が満たされていくようで、心地好い。
目覚めたら、ノアの覚醒を待って、もう一つ“やるべき事”をやり、それから旅に出よう。
そう考えていたのに────────…。
「……予定が狂いすぎだ」
「「「も、申し訳ございません…………ッ!!」」」
ポツリと呟いたアークは、目の前で一列に並んで土下座している三人の盗掘者をじろりと見下ろした。
深い、夜の闇に沈む森の中で、彼らの様子は非常に浮いていた。
……いや、街中であったとしても、その異様さに注目を集めた事だろう。
まず土下座している三人。
一人はずんぐりむっくりしている、成長しすぎた小人族。…いや、もしかしたら色の白いドワーフかも知れない。
その反対側には灰色の毛並みを持つ、獣人犬族の冒険者の男。
背が高く体格も良いので大型種の犬族か。今は耳も尻尾も垂れている。
そして、その二人の間に挟まれているのが、やたらド派手な出で立ちの魔術師風の女だった。
どでかい三角帽子なんて、時代錯誤ではなかろうか。
世の常識や世俗の記憶が、500年以上前で止まっているアークに言われていたらお仕舞いだと思われる。
そんな大・中・小 とサイズの異なる階段トリオが、地面に膝をつき額も擦り付ける勢いで、見事な土下座を披露していた。
頭を下げたまま身を起こさない三人の前には、一人の少年が古い切り株に腰を下ろしている。
腕を組み、足も組んであらぬ方を見据え、『やれやれ』とばかりに溜め息を吐いた。
夜の闇に溶け込みそうな漆黒の髪は長く、後ろで結い上げているのに流した毛先が地面を少し掠めている。
目尻は少し吊り上がり気味ながらその瞳は大きく円らで、宝石を溶かし込んだという表現がしっくりする程、美しく透き通った柘榴石の赤だ。
薄い唇は紅を指したような薄紅色に色付き、深い黒髪が頬にかかり滑らかな白皙をより引き立てる。
年の頃は12、3歳くらいで漆黒のコートを纏い、三人を見下ろす様はとても子供とは思えない貫禄が滲み出ていた。
まだ十二分に幼さの残るその顔ははっとする程に美しく、性を超越したかのような中性さを持つ。
だが、その顔立ちは知っている者が見ればすぐ理解した筈だ。
三人を見下ろすその美貌が、神殿から持ち出された人形にそっくりである事を…。
黒銀の少年…アークが覚醒した時、彼は何とも奇妙な状態に身を置いていた。
…否、置かされた、と言った方が正しい。
目覚めて即座に見えたのは、夜の闇に沈んだ森の鬱蒼とした風景だった。
────何がどーなっとるんだ?これは。ここは……神殿の外か?
ちらりと視線を右横に向ければ、暗闇の中でもその存在が認識できる神殿の外観が見えた。
それは間違いなく己が封印されていた神殿で、己の記憶にあるそれと全く変わりなかった。
そしてすぐに、己が何者かの手によって、後ろ手に抱えられているのだと気付く。
己の周囲に、そいつ以外にも何人か人の気配がする事にも、同時に。
更には、言い争うような女の声と、男の威圧的且つ高慢な声も聞こえてきた。
とりあえず人形の姿のまま様子を窺っていれば、馬の嘶きが聞こえてすぐに、馬車が走り去る音が耳に届いた。
その場に残ったのは己の他に、今現在土下座中の三人のみ。
三人…特に女がヒステリックに騒ぐためにその言葉を聞き取るのが大変だったが、彼らが神殿に入り込み自分達を外に持ち出したのだと知った。
まさか神殿の封印術式や結界を解除出来るものがいるとは…、と思わず感心する。
しかし、次に聞こえてきた会話に、我を失いそうになった。
「なんだい、この端金!?たかだかこれっぽっちって、あの成金貴族もどき、どんな鑑定眼してんだい!?あれで大商人とか、聞いて呆れるよ全く!!」
「いや姐さん。これどう考えても俺らがバカにされてんですよ。これは人形の代金ってーより、口止めッつーか、そんなとこじゃないかと…」
「おいら達盗掘したようなもんっスからね。お宝盗られたって訴えても、おいら達の方が捕まっちまうっス…」
「だとしてもこれじゃ強奪もいいトコだよ!!あぁ…、あたしの可愛い白い子が…っ!まだ名前も決めてなかったのに!!」
「名前、つけるつもりだったんスね……」
白い子、とは間違いなく白銀の人形に入ったノアの事だろう。
己と一緒に連れ出され、先程馬車で去っていった高慢そうな男、…商人に売り渡されたのだ。
三人の会話で解ったのはそれくらいだが、それだけで十分だった。
「でも、相手はメティオールでも有名な豪商ですからねぇ。無断で神殿に入った以上、こっちのが断然フリ…。
でもほら姐さん。こうして黒い人形は無事だったんですから」
「相手が豪商だろうと強奪は強奪だよ!それにこの子達は双子の人形なんだよ!?二人一緒じゃなきゃ意味ないんだよ!!」
「─────全くもってその通りだな」
男…犬族の手から派手な女の手へと物同然に渡され、扱いにムッとしながら口を開く。
その声は己が“黒靄”だった時と同じ声だったが、数百年ぶりに口から発せられたそれは、完全に少年の物だった。
この場にいない筈の少年の声に、盗掘者三人は一瞬にして固まる。
その声が手の中の人形からだと気付いたようで、ややあって彼らの視線が己に向いた。
それを真紅の瞳で、睨むように見据える。
「俺の“相棒”を売り飛ばした報いは受けてもらうぞ、盗人共」
「「「うっきゃああああああぁぁぁぁぁぁぁぁあ!!人形がしゃべったぁぁぁぁぁぁ!!」」」
「うぉっ!?」
夜の森に、三人組のみっともない悲鳴が轟く。
その絶叫に耳を塞ぐ間もなく、アークは中空へと放り出された。
人形としては少し重くとも、人形は人形。
軽く放り投げられたそれは、自力で体勢を整えると、地面に落ちる事なくふわりと浮いた。
「全く…。さっきから随分な扱いだな」
人形が、しゃべって、動いて、浮いている。
いくらノア曰く“ファンタジー”な世界と言えど、そんな人形が普通に存在している筈もない。
三人の驚きは当然の事であり、彼らは身を寄せ合うようにぴったりくっついて怯えていた。
大方、ゴーストが憑依した人形だとでも思ったのだろう。
まだあんなくたばり損ないと一緒にされるのか、と不愉快になり、アークは魔力を集中させた。
一気に周囲へと濃度の高い魔力が放出され、人形の姿を覆うように黒い靄が立ち込めていく。
その黒靄が霧散した頃、その場には黒い長髪に、漆黒で全身を覆った美しい少年が立っていた。
人形を媒介にして人化した、アークの姿である。
こうして、かつて魔剣クラルヴァインクラルヴァインと呼ばれた元殺戮人形は、アーク・シュヴァルツリッター・クラルヴァインとして、復活を遂げたのである。