2025年5月2日(金)②
各務医院を出るころには、外の空気が少し冷えていた。
昼間は暖かかったのに、夕方になると風が変わる。制服の袖口から入り込んでくる空気に、私は少しだけ肩をすくめた。
スマホを取り出して、メッセージを開く。
『今から帰ります』
いつきさんに送ってから、少し迷って、歩ちゃんと朱鷺子にも同じように送った。
『相談終わった。今から帰るね』
すぐに歩ちゃんから返事が来る。
『おつかれ! 無理してない?』
続いて、朱鷺子。
『了解。気をつけて』
短い言葉なのに、少しだけ息が抜ける。
前なら、心配されるたびに申し訳ないと思っていた。今も、少しは思う。
でも、ちゃんと連絡すると言った。
だから、ちゃんと返す。
『大丈夫。ありがとう』
送信してから、スマホを鞄にしまった。
言葉にすること。
遥さんに言われたことが、まだ頭の中に残っている。
どうしたいのか。
どうしてそうしたいのか。
どこまでなら大丈夫なのか。
考えるだけで、少し緊張する。
でも、言わなければ伝わらないこともある。
家へ向かう道を歩きながら、私は何度か、頭の中で言葉を練習した。
困らせたいわけじゃないです。
嫌なら、ちゃんと止まります。
私は、いつきさんとちゃんと向き合いたいです。
ひとつずつ並べてみるけれど、どれも少しだけ大げさに聞こえる。
いつきさんの前で、ちゃんと言えるだろうか。
通りの角を曲がる前に、スマホが震えた。
『了解。気をつけて帰れ』
いつきさんからだった。
それだけの文面を見て、足取りが少しだけ軽くなった。
急がなくていいのよ。
でも、なかったことにしなくてもいい。
遥さんの声を思い出しながら、私は家への道を歩いた。
***
玄関の鍵を開けると、内扉の向こうから御子神さんの鳴き声が聞こえた。
「ただいま」
靴を脱ぎながら声をかけると、内扉の向こうで尻尾が揺れているのが見えた。
開けると、御子神さんは足元に寄ってきて、一度だけ私の靴下に鼻先をつける。
「はいはい。ただいま、御子神さん」
しゃがんで頭を撫でると、御子神さんは当然のように喉を鳴らした。
けれど、すぐに部屋の奥へ向かって歩いていく。
どうやら、出迎えは済んだということらしい。
部屋に入ると、キッチンの方から湯気が上がっていた。
「おかえり」
いつきさんが、片手に菜箸を持ったまま振り返る。
「ただいま。遅くなってごめんなさい」
「別に遅くはない。各務先生のところか?」
「はい」
「そうか」
それ以上は聞かれなかった。
いつきさんは鍋の中を軽く混ぜて、火を弱める。味噌汁の匂いがした。たぶん、朝の残りに具を足したものだと思う。
「話せることなら聞く」
ふいに、いつきさんが言った。
声はいつも通りだった。
短くて、少しだけぶっきらぼうで、でもちゃんとこちらに向いている。
私は鞄を置き、制服の袖を軽く整えた。
「まだ、少し整理中です」
「なら、急がなくていい」
「はい」
その返事をしながら、指先に少しだけ力が入った。
急がなくていい。
遥さんにも、同じようなことを言われた。
でも、急がなくていいことと、言わなくていいことは、たぶん違う。
「夕飯、手伝います」
「もうほとんど終わってる。皿だけ頼む」
「はい」
私は手を洗って、食器棚から茶碗と小鉢を取り出した。こたつ机の上に並べる。
こたつ布団はもう片付けてあるけれど、机はそのまま、私たちの食卓になっている。
いつも通り、私はいつきさんの正面に自分の箸を置いた。
今日は、ちゃんと話したい。
そう思ったら、横に座るより、正面に座った方がいい気がした。
距離はいつもと同じ。
けれど、言葉だけは少し変えなければいけない。
いつきさんは何も言わなかった。
ただ、味噌汁をよそいながら、一度だけこちらを見た気がした。
***
夕飯は、焼き魚と味噌汁、冷や奴、それから作り置きの煮物だった。
いつきさんが仕事の合間に用意してくれたらしい。凝ったものではないと言っていたけれど、味噌汁には豆腐とねぎのほかに、少しだけきのこが入っていた。
「いただきます」
「いただきます」
箸を持って、静かに食べ始める。
御子神さんは、自分の皿の前で食事を終えたあと、当然のようにこちらへやってきた。いつきさんの足元に座り、しばらく見上げている。
「もう食っただろ」
いつきさんが言うと、御子神さんは短く鳴いた。
「これはお前の飯じゃない」
「分かってて来てますよね」
「分かってる顔だな」
そう言いながら、いつきさんは追加の餌を出す代わりに、御子神さんの頭を軽く撫でた。
「それでいいんですか?」
「よくはなさそうだな」
御子神さんは不服そうに、尻尾だけを揺らした。
食事中、私は何度か言葉を探した。
けれど、味噌汁の湯気や、箸の音や、御子神さんの尻尾の動きに紛れて、結局その場では切り出せなかった。
「……何か言いたいことがあるなら、今聞くぞ」
不意にそう言われて、箸が止まる。
見られていたらしい。
「あります」
「あるのか」
「でも、食事が終わってからでもいいですか」
いつきさんは一拍置いて、短く頷いた。
「ああ」
それだけだった。
けれど、その声はちゃんと待ってくれるものだった。
***
片付けを終えて、湯呑みにお茶を淹れた。
いつきさんはこたつ机の前に座り、ノートPCを閉じて脇へ寄せている。
私は湯呑みを置いてから、夕飯のときと同じように、正面に腰を下ろした。
距離は、いつもと変わらない。
けれど、言葉だけは変えなければいけない気がした。
湯呑みの表面が、ほんの少し揺れている。
指先に力を入れすぎているのだと気づいて、私は一度だけ息を吐いた。
「遥さんに、ちゃんと言葉にした方がいいって言われました」
「何を」
「どうしたいのか、とか。どうしてそうしたいのか、とか。どこまでなら大丈夫なのか、とか」
「……各務先生、余計に難しくしてくれたな」
「余計じゃないです」
少しだけ強く言うと、いつきさんは黙った。
それから、諦めたように息を吐く。
「そうか」
「はい」
「それで?」
促されて、私は膝の上で指先を重ねた。
「私は、ちゃんと好きって気持ちを言葉にしたいです」
言った瞬間、自分の声が少し震えた。
「それに、言葉だけじゃなくて、行動でも示したいです」
湯呑みの表面が、小さく揺れている。
指先に力が入っているのが分かった。
「抱きしめてほしいとか、そばにいたいとか。そういう気持ちも、ただ甘えたいだけじゃなくて……ちゃんと、好きだからなんです」
部屋が静かになる。
御子神さんが、キャットタワーの下で爪を研ぐ音だけが聞こえた。
いつきさんは、湯呑みに視線を落としたまま、少しだけ息を吐いた。
「……かなり恥ずかしいことを言ってる自覚はあるか」
「あります」
「なら、少しは加減しろ」
私は膝の上で重ねた指先に、少しだけ力を入れた。
「分かっています。でも、それでも、ちゃんと伝えたいです」
いつきさんは、困ったように眉を寄せた。
「……そういうところだぞ」
「どういうところですか」
「真っ直ぐすぎて、こっちが困るところだ」
「困らせたいわけじゃないです」
「知ってる。だから余計に困る」
その言い方が、少しだけ優しかった。
「嫌、ですか」
聞いてから、息を止める。
いつきさんは、少しだけ間を置いた。
「嫌なら、とっくに止めてる」
その言葉に、胸の中で何かがゆっくりほどけていく。
「……はい」
「ただ、ひとつ言っておく」
いつきさんは湯呑みに視線を落としたまま、少しだけ声を落とした。
「俺は、最低限の線引きはする。そこは変えない」
その声は静かだった。
けれど、拒むためのものではなかった。
「でも、お前の気持ちまで俺が止めるつもりはない」
「……気持ちを」
「ああ。好きだと思うことも、言葉にすることも、俺が禁止することじゃない」
いつきさんは、少しだけ言葉を選ぶように黙った。
「ただ、行動は別だ。止めるところは止める」
「はい」
「でも、止めることと、否定することは違う」
その言葉に、私は湯呑みを持つ手を少しだけ握った。
「俺も、そこは間違えないようにする」
「……はい」
「俺の都合で、お前を悲しませるのは違うからな」
息が、少しだけ詰まった。
好きだと返されたわけではない。
けれど、私の好きだという気持ちは、そこに置かせてもらえた。
それだけで、今は十分だった。
「じゃあ、私は……ちゃんと言います」
「ああ」
「止められても、嫌われたわけじゃないって思うようにします」
「そこは疑うな」
「……はい」
「止める理由があるだけだ。嫌いだからじゃない」
また、少しだけ息が詰まった。
「ただし、調子に乗るなよ」
「乗りません」
「今の返事、少し早いな」
「乗りません」
「二回言えばいいわけじゃない」
少しだけ笑ってしまった。
いつきさんも、ほんの少しだけ口元を緩める。
それだけで、さっきまで張っていた空気が少しやわらかくなった。
「俺はたぶん、お前が思ってるより慎重だ」
「知ってます」
「そこまで即答されると、少し傷つくな」
「でも、そこがいつきさんだと思ってます」
「……そうか」
いつきさんは湯呑みを持ち上げて、一口飲んだ。
「だから、すぐに変わるとは言えない」
「はい」
「その代わり、勝手に我慢するな」
その言葉が、静かに落ちてくる。
私は小さくうなずいた。
「ありがとうございます」
「礼を言うところか?」
「たぶん」
「たぶんなのか」
「まだ、私も少し整理中なので」
そう返すと、いつきさんは少しだけ困ったように息を吐いた。
***
しばらく、湯呑みの湯気を眺めていた。
肩が触れているわけではない。
手を繋いでいるわけでもない。
それでも、言葉にしたことで、部屋の広さが少し変わったように感じる。
「そういえば」
いつきさんが、話題を変えるように口を開いた。
「明日から連休だな」
「はい」
「何かしたいことあるか」
聞かれて、すぐには答えられなかった。
連休。
前なら、休みの日は少し怖かった。
学校がなくて、家にいる時間が長くなるから。
でも今は、その言葉の響きが少し違う。
いつきさんと過ごせる時間が増える。
そう思ってしまって、また少しだけ恥ずかしくなる。
「いつきさんは、普段のお休みって何をしてるんですか」
「俺か?」
「はい」
「掃除。買い物。御子神さんの世話。たまにゲームか、ボードゲームカフェ」
「ボードゲームカフェ、ですか」
聞き慣れない言葉に、思わず顔を上げる。
「卓上ゲームを遊ぶ店だな。カードを使うやつとか、駒を動かすやつとか、いろいろ置いてある」
「お店で遊ぶんですか?」
「ああ。店員がルール説明してくれるところもあるし、初心者でも遊びやすい」
「楽しそうです」
「食いついたな」
「少しだけ」
そう答えてから、少しだけ考える。
いつきさんの家に、そういうゲームがいくつかあるのは知っていた。
箱の側面に、見慣れない文字や絵が並んでいて、前から少し気になっていた。
「……行ってみたいです」
いつきさんは少し考えてから、頷いた。
「明日か明後日なら行けるな」
「いいんですか」
「連休だしな。遠出ってほどでもないし」
その言い方が自然で、少しだけ嬉しかった。
明日か明後日。
予定が、少しだけ形になる。
そこで、歩ちゃんと朱鷺子の顔が浮かんだ。
歩ちゃんは、たぶん説明の途中で「とりあえずやってみよう」と言う。
朱鷺子は、説明を一度聞いただけで静かに盤面を見始める。
想像しただけで、少し楽しくなった。
「それなら、歩ちゃんと朱鷺子も誘っていいですか」
「歩と朱鷺子か」
「はい。二人も好きそうなので」
「いいんじゃないか。あの二人なら」
「本当ですか」
「ああ。歩は勢いで場を荒らしそうだし、朱鷺子は普通に強そうだな」
「……分かります」
「否定しないんだな」
「たぶん、強いので」
朱鷺子が静かに盤面を見て、淡々と勝っていくところが、また少し想像できた。
歩ちゃんはたぶん、よく分からないまま勢いで動いて、場をめちゃくちゃにする。
それを考えたら、自然と笑ってしまった。
「連絡してみるか?」
「はい」
スマホを取り出して、三人のグループを開く。
文章を打ちかけて、少し止まる。
『明日か明後日、予定空いてる? いつきさんとボードゲームカフェに行くことになったんだけど、二人もどうかな』
送信する前に、一度だけ画面を見直す。
「これで大丈夫でしょうか」
「俺の名前、普通に出すんだな」
「一緒に行く話なので」
「まあ、そうだな」
「じゃあ、送ります」
指先で送信ボタンを押す。
すぐに既読がついた。
たぶん歩ちゃんだ。
『なにそれ楽しそう! 行く!』
早い。
思わず笑ってしまう。
「歩ちゃん、行くそうです」
「早いな」
「早いです」
少し遅れて、朱鷺子からも返事が来た。
『予定確認する。たぶん行ける。歩、即答しすぎ』
その次に、歩ちゃん。
『楽しそうなものには即答が礼儀』
朱鷺子。
『違う』
画面を見ながら、また笑ってしまった。
「楽しそうだな」
いつきさんが言う。
「はい。楽しいです」
答えてから、ふと思う。
まだ、どこにも行っていない。
けれど、歩ちゃんと朱鷺子の返事を見ているだけで、もう楽しかった。
その言葉を、何のためらいもなく口にできるようになっている。
それが少しだけ不思議で、少しだけ嬉しかった。
御子神さんが、いつの間にかこたつ机のそばまで来ていた。
スマホの横に、前足をちょこんと置く。
「御子神さんも行きたいんですか」
「猫は入れないだろうな」
「残念です」
「本人は不満そうだ」
御子神さんは、まるでその通りだと言うように、尻尾を一度だけ揺らした。
明日から、連休が始まる。
何かが大きく変わったわけではない。
ただ、正面から少しだけ言葉にして、ひとつ予定ができただけ。
それでも、私には十分だった。
スマホの画面には、歩ちゃんと朱鷺子の返事が並んでいる。
御子神さんの前足が、その端に少しだけ重なっていた。




