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2025年5月2日(金)①

 朝から、少しだけ落ち着かなかった。


 理由は、分かっている。


 昨日の夜のことだ。


 ハグは、前から短い時間ならいいことになっている。


 だから、近づくこと自体が初めてだったわけではない。

 それでも昨日は、少しだけ違った。


 お酒の匂いが少し残っていたいつきさんに、私は「今日はいいですか」と聞いた。

 いつもなら、短い時間で終わるように、いつきさんが少しだけ距離を戻してくれる。


 昨日も「長くは駄目だぞ」と言われた。


 でも、その声は拒むためのものではなかった。

 離すためというより、受け止めたまま線を引くためのものに聞こえた。


 それに――。


 背中に置かれた手が、一度だけ、ゆっくり動いた。


 ほんの少しだけ。

 さする、というほど長くはなかったと思う。


 お酒が入っていたからかもしれない。

 ただの気まぐれだったのかもしれない。


 それでも私は、その手の温度を、朝になっても覚えていた。


 朝ごはんの間も、私は少しだけ箸を動かすのが遅かった。


「味、薄かったか?」


 向かい側から、いつきさんがそんなことを言う。


「ううん。おいしいです」


「ならいいけど」


 いつきさんはいつも通りだった。

 少し眠そうに味噌汁を飲んで、御子神さんに足元を邪魔されて、「踏むぞ」と言いながらも、ちゃんと避けていた。


 いつも通り。


 たぶん、そこが少しだけ不安だった。


 私だけが、昨日のことを特別に感じているのかもしれない。


 そんなことを考えながら、味噌汁のお椀を両手で持つ。

 湯気が顔にかかって、少しだけ目を細めた。


「学校、遅れるぞ」


「あ、はい」


 慌てて返事をすると、いつきさんは少しだけこちらを見た。


「寝不足か?」


「……少しだけ」


「無理するなよ」


「はい」


 それだけだった。


 けれど、その一言がいつもより近く感じてしまって、私はまた、箸を持つ手を少しだけ止めた。


 ***


「和葉、今日なんか変」


 昼休み。

 お弁当を広げてすぐ、歩ちゃんがそう言った。


「変じゃないよ」


「その返しがもう変」


 困っていると、隣で朱鷺子が紙パックの紅茶にストローを刺しながらこちらを見た。


「弓削さん関連?」


「……どうしてそこでいつきさんが出てくるの」


「顔」


「顔?」


「出てる」


 短く言われて、思わず頬に手を当てる。

 そんなに分かりやすいだろうか。


「なになに、恋バナ?」


「違う」


「違わない顔してる」


「歩、深追いしない」


 朱鷺子が静かに止める。

 歩ちゃんは「えー」と不満そうにしながらも、それ以上は踏み込んでこなかった。


 少しだけ迷ってから、私は口を開いた。


「……放課後、遥さんのところに行こうと思ってる」


「各務先生?」


「うん。少しだけ、相談したいことがあって」


「体調?」


「体調じゃないよ」


 朱鷺子が一度だけ目を細める。

 歩ちゃんも、さっきまでの茶化す顔を少し引っ込めた。


「悪いことがあったわけじゃないの。ただ、ちゃんと自分で考えたいことがあって」


「なら、聞いてもらった方がいいと思う」


 歩ちゃんが、今度はまっすぐ頷いた。


「話せることなら、あとで話してね。無理にとは言わないけど」


「……ありがと」


 その声が少し小さくなったのは、照れたからだと思う。


「帰りが遅くなるなら連絡」


 朱鷺子がスマホを軽く持ち上げる。


「いつきさんに?」


「それもだけど、私たちにも」


「心配するから」


 その言葉が、少しだけ嬉しかった。


 前は、誰かに心配されることが怖かった。

 迷惑をかけている気がしたから。


 でも今は、その心配を受け取ってもいいのかもしれないと思える。


「うん。ちゃんと連絡する」


 そう言うと、歩ちゃんが満足そうに笑った。


「よし。じゃあ、無理しないこと」


「歩ちゃんに言われると、少し不思議」


「ひどくない?」


 そのやりとりに、少しだけ笑った。

 昼休みの教室には、誰かの笑い声と、椅子を引く音が混ざっていた。


 ***


 放課後、私は少し迷ってから、遥さんにメッセージを送った。


『今日、少しだけ相談してもいいですか』


 送ってから、すぐに画面を伏せる。

 返事を待つ時間は、いつも少しだけ緊張する。


 靴箱の前で立ち止まっていると、スマホが震えた。


『もちろん。診療が落ち着く時間なら大丈夫。無理せずおいで』


 その文面を見て、肩の力が少し抜けた。


 無理せずおいで。


 そう言ってもらえるだけで、行ってもいい場所がある気がした。


 ***


 各務医院に着いたころには、外の光が少し傾き始めていた。


 診療時間の終わりに近い待合室は静かで、消毒液の匂いと、空調の乾いた気配が薄く混ざっていた。

 何度も来た場所なのに、今日は少しだけ緊張した。


 受付の人に声をかけると、奥から遥さんが顔を出した。


「和葉ちゃん。お疲れさま」


「お疲れさまです。急にすみません」


「大丈夫よ。ちょうど落ち着いたところだから」


 遥さんは白衣の袖を少し折っていて、髪はいつも通り低い位置で束ねられていた。

 先生としての顔だけど、声はやわらかい。


「奥で話しましょうか」


「はい」


 案内されたのは、診察室ではなく、その隣の小さな部屋だった。

 テーブルと椅子があり、壁際には書類棚と電気ポットが置かれている。


「お茶でいい?」


「あ、はい。ありがとうございます」


 湯呑みを受け取ると、両手で包む。

 熱すぎない温度が、指先にゆっくり移ってきた。


 遥さんは向かいに座り、少しだけ首を傾げる。


「それで、今日はどうしたの?」


 聞かれて、すぐには答えられなかった。


 何から話せばいいのか、分からなかった。

 昨日の夜のこと。

 告白してからのこと。

 それより前から、ずっと近くにいたこと。


 同じような出来事なのに、今は全部、意味が違って見えること。


「……昨日」


「うん」


「いつきさんが、少しだけ……いつもと違った気がしたんです」


「違った?」


 遥さんは急かさずに聞き返してくれた。


「告白してから、少しだけ変わったことがあって」


「うん」


「その……帰ってきたときとか、短い時間だけなら、ハグしてもいいって話になったんです」


 口にしてから、少し顔が熱くなった。


「だから、近づくこと自体は、昨日が初めてじゃないんです」


「うん」


「でも昨日は、許してくれた、というより……ちゃんと受け止めてくれた気がして」


 言ってから、顔が熱くなった。


「長くは駄目だぞ、とは言われました。でも、それも拒まれた感じじゃなくて。ちゃんとそこにいてくれたまま、線を引かれた感じで」


「うん」


「それに……背中に手を添えて、少しだけさすってくれたんです」


 そこまで言って、私は慌てて付け加えた。


「あ、お酒が入っていたからかもしれません。いつきさん、少し酔ってましたし。だから、深い意味はないのかもしれないんですけど」


 でも、と小さく続ける。


「いつもより、そこにいてくれた感じがしました」


 遥さんは少しだけ目を細めた。


「そっか。樹くん、少し頑張ったのね」


「頑張った、なんですか?」


「うん。あの人の場合は、受け止めるのにも覚悟がいると思うから」


 遥さんの声は、茶化すものではなかった。

 けれど、どこか少しだけ呆れているようにも聞こえた。


「嬉しかったんです。でも、少し怖くもなって」


「怖い?」


「はい。私だけが、特別に感じてるのかなって」


 遥さんは黙って、続きを待ってくれている。


 だから私は、少しずつ言葉を続けた。


「前にも、近くにいたことはあったんです。お風呂で背中を流したこととか、一緒に寝たこととか」


 そこまで言ってから、自分の言葉がどう聞こえたかに気づいた。


「あ、でも、背中を流したときは……その、お父さんの背中を流す、みたいなことを一度やってみたくて。私がわがままを言っただけで」


 慌てて手を小さく振る。


「もちろん水着というか、湯浴み着みたいなものは着てました。ちゃんと。そこは本当に、ちゃんと」


「うん。そこは疑ってないわ」


 遥さんは落ち着いた声で頷いた。


 けれど、その目が少しだけ細くなる。


「ただ、樹くんはよく了承したわね」


「……かなり渋ってました」


「でしょうね」


 遥さんは小さく息を吐いた。

 少し困ったような、少し笑っているような顔だった。


「一緒に寝た方は?」


「えっと」


「布団は?」


「……同じでした」


「同じ」


「で、でも、最初からそういうつもりだったわけじゃなくて。私の寝相が悪くて、気づいたらいつきさんの布団に潜り込んでいたり、腕を掴んでいたり、そういうことが何度かあって……」


「何度か」


「……はい」


 遥さんは少しだけ黙った。


 その沈黙が、妙に長く感じる。

 私は湯呑みを持つ手に、少しだけ力を入れた。


「樹くん、よく無事だったわね」


「無事、ですか?」


「こっちの話よ」


 遥さんはもう一度、小さく息を吐いた。


「和葉ちゃんには悪いけど、今ちょっとだけ樹くんに呆れてる」


「いつきさんに、ですか?」


「ええ。真面目なのは知ってるけど、真面目すぎるのも考えものね」


 遥さんはそう言ってから、湯呑みに視線を落とした。


「でも、和葉ちゃんが言いたいのは、昔そういうことがあった、って話じゃないんでしょう?」


「……はい」


「同じように近くにいても、今は意味が違う気がする?」


 その言葉に、私は小さくうなずいた。


 そうだ。

 私がうまく言えなかったのは、たぶんそこだった。


「前は、怖かったから近くにいました。安心したかったから、そばにいたかったんです」


 声に出すと、その違いが少しだけはっきりした。


「家族みたいなことをしても、怒られないって、確かめたかったのかもしれません」


「うん」


「でも今は……少し違います」


 好きだから近くにいたい。


 それは、たぶん本当だ。


 でも、それだけではない気もした。


「今は、いつきさんをねぎらってあげたいんです」


「ねぎらう?」


「はい。昨日みたいに疲れて帰ってきたときとか、仕事で大変そうなときとか……私も、何かしてあげたいです」


 言ってから、少し恥ずかしくなった。


「守ってもらうだけじゃなくて、私も、いつきさんが少し楽になることをしたいんです」


 遥さんは、少しだけ表情をやわらげた。


「うん。それは、とても自然な気持ちだと思うわ」


 そう言ってから、少しだけ間を置く。


「でも、和葉ちゃん。それだけ?」


「……え?」


「樹くんをねぎらいたい。何かしてあげたい。それは本当だと思うの」


 遥さんは、私の目を見て、ゆっくりと言った。


「でも、和葉ちゃん自身はどうしたい?」


 すぐには答えられなかった。


 いつきさんをねぎらいたい。

 それは嘘じゃない。


 疲れているときに、お疲れさまって言いたい。

 少しでも楽になってほしい。

 それも、本当だ。


 でも、それだけかと聞かれると、喉の手前で言葉が止まった。


「……近くに、いたいです」


 ようやく出た声は、自分で思っていたより小さかった。


「いつきさんのため、だけじゃなくて」


 湯呑みを持つ指に、少しだけ力が入る。


「私が、近くにいたいんです」


 遥さんは、静かにうなずいた。


「うん。それを言ってもいいと思うわ」


「……わがままじゃ、ないですか」


「少しは、そうかもしれないわね」


 少しだけ息が詰まる。


 けれど、遥さんはやわらかく続けた。


「でも、誰かを好きになるって、相手のためだけじゃないでしょう。自分が嬉しいから近くにいたい。安心するからそばにいたい。それも、ちゃんと大事にしていいと思うの」


「……はい」


「“してあげたい”と“そうしたい”は、両方あっていいのよ」


 その言葉が、ゆっくりと胸の中に入ってきた。


 私はずっと、何かをしてもらってばかりだと思っていた。

 だから、今度は自分が返したかった。


 けれど、近づきたい理由を全部、いつきさんのためにしてしまうのは、少し違うのかもしれない。


 私が近くにいたい。


 その気持ちも、ちゃんと持っていていい。


「それに……」


 遥さんが、少しだけ言いづらそうに視線を落とした。


「これは、私が勝手に詳しく話すことではないんだけど」


「……はい」


「樹くんもね、和葉ちゃんを悲しませていないかは気にしていたわ」


 思わず顔を上げた。


「いつきさんが……?」


「ええ。自分が線を引くことで、和葉ちゃんを傷つけていないか。そこは、ちゃんと考えていた」


 知らなかった。


 いつきさんは、いつも落ち着いて見える。

 迷っていても、困っていても、必要なことを先に考える人だ。


 だから、私のことでそんなふうに悩んでいるなんて、あまり想像できていなかった。


「だから、和葉ちゃんだけが一方的に迷惑をかけている、という話ではないと思うわ」


「……迷惑じゃ、ないんでしょうか」


「迷惑かどうかは、樹くん本人に聞いた方がいいと思う」


 遥さんはそう言って、少しだけ笑った。


「ただ、二人とも、相手を大事にしたいから止まっているようには見えるわね」


「相手を、大事にしたいから」


「ええ。だからこそ、黙って我慢するだけじゃなくて、少しずつ言葉にした方がいいと思うの」


 部屋の中が静かになる。


 窓の外から、遠くを走る車の音が聞こえた。

 お茶の湯気はもうほとんど消えている。


「じゃあ、私は……どうしたらいいんでしょうか」


 聞いてから、少し後悔した。

 答えを丸ごと預けてしまった気がしたから。


 けれど遥さんは、すぐには答えを出さなかった。


「和葉ちゃんは、どうしたい?」


 返ってきたのは、問いかけだった。


 私は湯呑みを見つめた。

 もう湯気はない。けれど、指先にはまだ少しだけ温度が残っている。


「……遠慮していたら、たぶんこのままだと思うんです」


 言葉にすると、心臓が少し早くなった。


「だから、私もちゃんと、自分で動きたいです」


 遥さんは、穏やかに頷いた。


「なら、少しずつ言葉にした方がいいと思うわ」


「言葉に?」


「どうしたいのか。どうしてそうしたいのか。どこまでなら大丈夫なのか」


 遥さんは指先で湯呑みの縁に触れた。


「止めるのも、受け止めるのも、全部樹くんに任せると、あの人はたぶん一人で抱えるから」


「……いつきさんらしいです」


「でしょう?」


 少しだけ、二人で笑った。


「近づくこと自体が悪いわけじゃないのよ。ただ、近づき方を二人で決めていくことが大事なんだと思う」


「二人で……」


「ええ。和葉ちゃんだけが我慢するんじゃなくて、樹くんだけが線を引くんでもなくて」


 その言葉が、ゆっくりと胸の中に入ってきた。


 二人で決める。


 それは、少し怖い。

 でも、少しだけ嬉しい。


「……言えるでしょうか」


「簡単じゃないと思うわ」


 遥さんは、少しだけ笑った。


「でも、和葉ちゃんはもう一度、ちゃんと好きだって言えたんでしょう?」


 その一言に、四月一日の夜を思い出す。


 震えながら、それでも言った言葉。


 あなたのことが、心から好きです。


「……はい」


「なら、きっと大丈夫」


 遥さんはそう言って、私の湯呑みに少しだけお茶を足してくれた。


 新しい湯気が、静かに立ち上る。


「急がなくていいのよ。でも、なかったことにしなくてもいい」


 私は、ゆっくりとうなずいた。


 近づきたいこと。

 怖いからではなく、好きだからそばにいたいこと。

 それを、いつきさんだけに任せないこと。


 言葉にするのは、きっと恥ずかしい。

 でも、言わなければ伝わらないこともある。


 窓の外では、夕方の光が少しずつ薄くなっていた。

 湯呑みの湯気だけが、私たちの間で静かに揺れている。

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