2025年5月1日(木)
本日より続編を開始いたします。
初回ということで、前作からの状況整理も含めて少し長めの話になっています。
次回以降は、基本的に隔日程度のペースで投稿していく予定です。
引き続き、和葉と樹のゆっくりした関係の変化を見守っていただけますと幸いです。
あの告白から、一ヶ月が経った。
何かが劇的に変わったわけじゃない。
和葉は朝になれば制服に着替えて学校へ行くし、俺は仕事机に向かう。夕方になれば帰ってきて、御子神さんにただいまと声をかけ、夕飯の支度を始める。
四月の半ばに、こたつ布団だけはしまった。
こたつ机はそのままテーブル代わりだ。足元が少し軽くなったくらいで、部屋の真ん中を囲む形は、冬の頃と大して変わらない。
変わったのは、たぶん距離の取り方だ。
前の和葉は、こちらの顔色を見てから動くことが多かった。
手伝っていいか。隣にいていいか。何かを頼んでもいいか。
そういう確認が、言葉の前にあった。
けれど最近は、少し違う。
夕飯のとき、和葉が俺の正面ではなく、角を挟んだ席に座ることが増えた。
「今日は、こっちでもいいですか」
聞く前に、箸はもうそこに置いてある。
確認はしている。
けれど、順番が前と少し違う。
台所でもそうだ。
俺が味噌汁の鍋を見ている横で、和葉は当たり前みたいに菜箸を持つ。調味料の位置も、保存容器の置き場も、いつの間にか俺より把握している。
「これ、明日のお弁当に回せますね」
「そこまで考えてたのか」
「はい。朝、少し楽になりますから」
そう言って、冷蔵庫の中身を手際よく整理していく。
家のことを覚えようとしている、というより、家の中に自分の手を馴染ませようとしているように見えた。
それ自体は悪いことじゃない。
むしろ助かっている。
問題は、助かっているだけでは済まなくなってきたことだった。
夕方、外階段を上がってくる足音がして、玄関の鍵が回る。
「ただいま帰りました」
「ああ、おかえり」
そのまま靴を脱いで、御子神さんに挨拶して、手を洗いに行く。
それで終わる日もある。
けれど、終わらない日もある。
「その、今日は……いいですか」
そう言って、和葉が玄関先で少しだけ立ち止まる。
約束したわけじゃない。決まりにしたわけでもない。
ただ、告白を受け取ったあと、和葉が一度だけ、そういう形を欲しがったことがあった。
おかえりのハグ。
口にすると、馬鹿みたいに甘い響きだと思う。俺の生活には、まず出てこない単語だった。
それでも和葉は、大真面目にそれを欲しがった。
だから俺も、大真面目に線を引いた。
毎回はしない。長くもしない。
そういう、我ながら面倒くさい条件をいくつも頭の中に並べていたのに、和葉はなぜか嬉しそうに頷いた。
「はい。じゃあ、ちゃんと大事にします」
何をどう大事にするのか。
そう聞き返すことは、できなかった。
最近は、御子神さんを構っているときにも視線を感じる。
膝の上に乗ってきた御子神さんの顎を撫でていると、和葉が少し離れたところからこちらを見ていることがある。怒っているわけではない。拗ねているわけでもない。ただ、何か言いたそうに見ている。
「……どうした」
「いえ」
「御子神さん、代わるか」
「そういうことじゃないです」
そういうことじゃない、らしい。
では何なのか、と聞けるほど、俺も鈍くはなかった。
見ないふりをしていた、という方が正しいのかもしれない。
子供じゃない、とは思っていた。
十八歳になった。法律上の区切りも越えた。自分の意思で告白までしてきた。
それでも、学生であることに変わりはない。受験もある。進路もある。今の生活を守ることが、まずは最優先だ。
そう考えるのは、間違っていないはずだった。
ただ。
子供として扱い続けるには、少しずつ無理が出てきている。
それもまた、認めざるを得なかった。
***
「……四月一日です」
五月一日、木曜日の夜。
連休前ということもあって、駅前の居酒屋はいつもより少し混んでいた。壁にはおすすめメニューの紙が貼られ、カウンターの向こうでは店員が忙しそうにグラスを並べている。
俺たちが座っているのは奥の四人席だ。
彼方さん、遥さん、小鳥遊、そして俺。
元々は彼方さんから「連休前に一杯どうだ」と声をかけられたのが始まりだった。小鳥遊もちょうど近くで仕事があるとかで捕まり、遥さんは「この面子だと変な話になりそうだから監督役」と言ってついてきた。
酒が入る前から、嫌な予感はしていた。
その予感は、だいたい当たっている。
「和葉の誕生日に、告白されました」
そう言った瞬間、彼方さんの顔から酒の席の緩さが消えた。
「……誕生日に?」
「はい」
「お前、それを今言うのか」
「今言う話だと思ったので」
「一ヶ月だぞ?」
「はい」
「一ヶ月黙ってたのかよ」
「黙っていたというか、整理していたというか」
「整理に一ヶ月かける話か、それ」
言い返せない。
遥さんはというと、グラスを片手に「ああ、やっぱりね」と小さく笑っていた。
「やっぱり、って」
「和葉ちゃん、分かりやすいもの」
「……そんなにですか」
「少なくとも、私から見ればね」
小鳥遊は、少しだけ目を伏せた。
「……そうですか」
その反応は、驚いているようで、どこか驚ききっていないようにも見えた。
だが、俺が何か言う前に、小鳥遊はいつもの調子で眼鏡を押し上げる。
「未成年ではなくなったとはいえ、学生であることに変わりはありません。弓削先輩が慎重になる判断自体は理解できます」
「いきなり仕事の顔になるな」
「この話で仕事の顔をしない方が難しいでしょう」
「そういうもんか」
「そういうものです」
小鳥遊は淡々と言って、水を一口飲んだ。
彼方さんが、俺の方へ顎をしゃくる。
「で、返事はどうしたんだよ」
グラスの中の氷が、小さく鳴った。
俺はしばらく黙ってから、口を開いた。
「受け取ったとは言いました」
「ほう」
「ただ、学生のうちは急がない。そういう関係にはしない。線は越えない。そう伝えました」
「真面目か」
「真面目な話です」
「いや、真面目なのは分かるけどよ」
彼方さんはそこで一度、遥さんを見た。
遥さんは苦笑している。小鳥遊は何も言わない。
「まあ、それ自体は間違ってないと思うわよ」
遥さんが、ゆっくりと言った。
「受験もあるし、浮かれていい時期じゃないのは確か。和葉ちゃんだって、これから先を決めなきゃいけない大事な一年だもの」
「ですよね」
「でも」
続く言葉に、俺は思わず顔を上げた。
「それで、あの子の気持ちをなかったことにしていいわけじゃないでしょ」
静かな声だった。
責めるというより、確認するような声。
俺はすぐには答えられなかった。
「なかったことにするつもりはないです」
「うん。それは分かってる」
「じゃあ……」
「でも、止めることと、受け取らないことは違うんじゃない?」
言葉が詰まる。
彼方さんが、そこで腕を組んだ。
「お前、子供はこうあるべきだって押し付けが強いんじゃねえの」
「……そんなつもりは」
「つもりの話じゃねえよ」
彼方さんの声は荒くない。
けれど、逃がしてくれない重さがあった。
「学生っつっても、もう十八なんだろ。女として扱えって極端なことは言わねえよ。けど、意思は尊重しろ」
「尊重はしてます」
「してるつもり、だろ」
その一言は、思ったより刺さった。
小鳥遊が少しだけ視線を下げる。
「彼方さんの言い方は強いですが、論点としては正しいかと」
「お前、さっきからどっちの味方だ」
「強いて言うなら、現実の味方です」
「一番嫌なやつだな」
俺が言うと、小鳥遊は涼しい顔で返した。
「弁護士なので」
遥さんが小さく笑う。
そのおかげで、少しだけ空気が緩んだ。
「ただ、樹くんの立場も分かるのよ」
遥さんは、俺のグラスが空きかけているのを見て、店員を呼ぶか迷ったようだったが、結局そのまま話を続けた。
「急ぐことが正しいわけじゃない。和葉ちゃんが今、大事な時期なのも本当。樹くんが慎重になるのも当然」
「じゃあ、何が問題なんですか」
「ちゃんと見てるか、じゃない?」
「見てますよ」
「本当に?」
その問いは、予想より柔らかかった。
柔らかいのに、避けにくかった。
「和葉ちゃんが近づいてくるのを、甘えとか安心だけで見てない?」
「……それは」
「この一ヶ月、何か変わったんじゃない?」
そう言われて、言葉が止まった。
俺が話すつもりだったのは、告白されたことと、それに対する返事までだった。
けれど、言われてみれば、そこから先こそが今の問題だった。
「……距離の取り方は、変わりました」
「距離?」
彼方さんが眉を寄せる。
「帰宅したときに、たまに……おかえりのハグを求められます」
「お前、それを先に言えよ」
「今言ってます」
「そういうところだぞ」
「どういうところですか」
「大事な話を後ろに回すところだよ」
それも言い返せない。
遥さんは小さく笑いながらも、少しだけ目を細めた。
「和葉ちゃん、頑張ってるわね」
「頑張ってるで済ませる話か?」
彼方さんが呆れたように言う。
小鳥遊は淡々と水のグラスを置いた。
「少なくとも、意思表示としてはかなり明確ですね」
「他にもあります」
言ってから、少しだけ気まずくなる。
三人の視線がこちらに向いた。
「家のことを、前より積極的に覚えようとしています。料理も洗濯も、俺が言う前に手を出すことが増えた。世話を焼きたいのか、何なのかは分かりませんけど」
「甲斐甲斐しいじゃねえか」
「そういう言い方をされると困ります」
「事実だろ」
彼方さんは悪びれない。
俺は軽く息を吐く。
「あと、御子神さんを構っていると、たまに視線を感じます」
「猫に嫉妬してんのか」
「そういうことなのかは分かりません」
「いや、それだろ」
彼方さんは妙に断定した。
俺は否定しようとして、やめた。
自信がなかった。
遥さんが、そこで静かに言った。
「女の子だってね、好きな相手には近づきたいものよ。触れたいとか、そばにいたいとか。そういう気持ちは、普通にある」
酒が入っているせいか、遥さんの言葉はいつもより少し踏み込んでいた。
けれど、下品ではなかった。
むしろ、だからこそ余計に逃げ場がない。
「安心してるからだけじゃないの。ちゃんと、自分から近づいてるときもあると思う」
俺は黙った。
和葉が玄関で一歩近づいてきたときの顔。
御子神さんを撫でているときの視線。
角を挟んだ席に箸を置くときの、少しだけこちらを窺う目。
あれを全部、安心や甘えだけで処理していた。
そう考えると、途端に座りが悪くなる。
彼方さんが、そこへ雑に割って入った。
「男だろうが女だろうが、三大欲求ってのはあるだろ」
「彼方」
「いや、分かりやすいだろ。きれいな気持ちだけで近づくわけじゃねえよ」
「意味は分かりますけど、言い方が雑ですね」
小鳥遊が表情を変えずに言った。
彼方さんは「伝わりゃいいんだよ」と笑う。
「酒の席に甘えすぎです」
「お前も飲んでるだろ」
「飲んでいるからといって、言葉遣いを放棄する理由にはなりません」
「面倒くせえな、お前」
彼方さんが呆れ、遥さんが苦笑する。
俺は笑えなかった。
彼方さんの言い方は乱暴だ。
かなり乱暴だ。
けれど、言いたいことは分かってしまった。
綺麗な言葉だけで成り立つものじゃない。
近づきたいと思うこと。触れたいと思うこと。相手に見てほしいと思うこと。
そういうものは、男だけのものじゃない。
当たり前の話だ。
当たり前なのに、俺はたぶん、和葉に関してだけそこをわざと見ないようにしていた。
「もちろん、それだけで動いているという意味ではありません」
小鳥遊が、少しだけ声を落とした。
「彼女の場合は、むしろかなり慎重でしょう」
「……そうか」
「ええ。少なくとも、衝動だけで距離を詰めているようには見えません」
小鳥遊はそれ以上、何も言わなかった。
少しだけ引っかかったが、酒の席で問い詰める話でもない。
「和葉ちゃんと同級生だったらどうよ」
彼方さんが、今度は小鳥遊に向けて話を振った。
「告白されたら受けるだろ」
小鳥遊は一瞬だけ考える顔をした。
「私なら、まず罰ゲームか何かを疑いますね」
「は?」
「自分にあのレベルの子が告白してくる合理的理由がありません」
「お前、こじらせすぎだろ」
「否定はしません」
「そこは否定しろよ」
「ですが、リスク管理としては妥当です」
「言い方」
彼方さんが呆れ、遥さんが笑った。
小鳥遊は平然としている。
さっきまでやけに鋭いことを言っていたのに、こういうところで急に残念な方向へ転がる。小鳥遊らしいと言えば、小鳥遊らしい。
遥さんは笑いを収めると、少しだけ真面目な顔に戻った。
「でも、それくらい魅力的な子ってことよね」
「はい」
小鳥遊はそこで、今度はきちんと頷いた。
「軽い感じは全くありません。むしろ、かなり慎重に見えます。本人なりに一つずつ確認しているのでしょう」
「確認?」
「どこまでなら受け止めてもらえるか。どこから先は駄目なのか。そういう線を、見ているように思います」
「……妙に具体的だな」
思わずそう言うと、小鳥遊は一拍だけ黙った。
それから、何でもないように眼鏡を押し上げる。
「仕事柄です」
「それで通す気か」
「はい」
小鳥遊はそれ以上、何も言わなかった。
やっぱり少しだけ引っかかった。
けれど、今はそこを掘る場面じゃない。
遥さんが、俺の方を見た。
「あの子、ちゃんと考えて動いてると思うよ」
「……そうですか」
「うん。誰でもいいって近づき方じゃない。ちゃんと樹くんを選んで、近づいてる」
その言葉に、胸のあたりが少し重くなる。
彼方さんが、焼き鳥を一本取って雑に頷く。
「だろうな。和葉ちゃん、普通にいい女だぞ」
「その言い方はどうなんですか」
「じゃあ何て言えばいいんだよ」
「少なくとも、本人のいないところで雑に言うことではないでしょう」
「小鳥遊、お前ほんと面倒くせえな」
「よく言われます」
遥さんは小さく笑ってから、もう一度俺を見る。
「和葉ちゃん、いい子よ。真面目で、相手をちゃんと見てる。家のことも、人のことも、自分なりに大事にしようとしてる」
「……それは、分かってます」
「分かってるなら、余計に軽く扱っちゃ駄目よ」
「軽く扱うつもりは」
「うん。だからこそ、難しいのよね」
遥さんはそこで、少しだけ声を落とした。
「あの子、割と重いわよ」
思わず顔を上げる。
遥さんは穏やかに笑っていた。
「そういう意味で」
「……どういう意味ですか」
「ちゃんと向き合うタイプってこと。好きになったら、ちゃんと来る子。引かないわよ、あの感じ」
彼方さんが「だろうな」と頷く。
「あれで軽かったら逆に怖えよ」
小鳥遊は淡々と補足した。
「だからこそ、扱いは慎重に。ですが、慎重と保留は違います」
「……お前、今日やけに刺してくるな」
「そうですか」
「そうだよ」
「では、少し控えます」
「今さら遅い」
小鳥遊は薄く笑った。
その表情に、ほんの少しだけ何かを隠しているような影が見えた気がした。
けれど、それもすぐに消えた。
「俺は」
声が、自分でも少し低く聞こえた。
「一度決めた関係を、そう簡単に動かせないんです」
三人の視線がこちらに向く。
「あの時は、保護する側になると決めました。父親代わりとまでは言いませんけど、少なくとも、家族に近い立場で和葉の生活を守ると決めた」
自分で言いながら、少しだけ間が空いた。
「それで、告白された後も決めました。学生の間は線を越えない、と」
グラスについた水滴が、ゆっくりと指先に触れる。
「俺の中では、それはただの気分じゃない。そう決めた以上、途中で都合よく曲げたくない」
「頑固だな」
「分かってます」
彼方さんの言葉に、短く返す。
「でも、関係を変えるってことは、その先の責任を引き受けるってことだと思ってます。だから、簡単には動かしたくない」
そこまで言って、少し間が空いた。
「ただ……」
言葉が続かない。
それでも、言わなきゃいけない気がした。
「そのせいで、和葉を悲しませてるなら、俺は何を守ってるのか分からなくなる」
誰もすぐには返さなかった。
居酒屋のざわめきだけが、遠くで鳴っている。
遥さんが、静かに息をついた。
「それを考えてるなら、大丈夫よ」
「大丈夫ですかね」
「少なくとも、向き合おうとはしてる」
小鳥遊が続ける。
「線を引くこと自体は間違っていません。ただ、引いた線を盾にして、相手の意思を見ないのは問題です」
「……耳が痛いな」
「聞くための耳です」
「お前な」
彼方さんが笑った。
「まあ、あれだ」
彼方さんは新しい酒を一口飲んで、いつもより少し真面目な顔をした。
「止めるなら止めりゃいい。ただ、止める前に一回受け止めてやれよ」
その言葉に、俺は黙った。
「突っぱねられるのと、受け止めた上で止められるのじゃ、全然違うだろ」
乱暴な人だと思う。
けれど、こういうときだけ、妙に真っ直ぐなことを言う。
遥さんが頷く。
「うん。それが一番近いかもね」
小鳥遊も同意するようにグラスを置いた。
「現実的にも、そのあたりが落としどころでしょう。急いで進める必要はない。ただ、全部を“まだ駄目”で返すのは、そろそろ限界かもしれません」
「……なるほど」
俺はそう答えた。
答えたが、すぐに納得できたわけではない。
止めること自体は、変えない。
学生のうちは急がない。そこは動かさない。
ただ。
止める前に、受け止める。
それができていたかと問われると、自信がなかった。
「あとは和葉ちゃんの頑張り次第だな」
彼方さんが枝豆を摘まみながら言った。
「そうね。樹くん、簡単には崩れないもの」
「崩す前提で話さないでください」
俺がそう返すと、小鳥遊が、妙にきっぱりとした声で言った。
「私は和葉さんを応援しますよ」
「なんでだ」
「当事者の意思表示としては、和葉さんの方が一貫していますから」
「お前な」
「それに、先輩が慌てる姿を見る機会は貴重です」
「本音が漏れてるぞ」
「酒の席なので」
「開き直るな」
小鳥遊は澄ました顔でグラスを口に運んだ。
よく見ると、さっきより少しだけ目元が緩い。
「……お前、そろそろ酔ってるだろ」
「少しだけです」
「少しでそれか」
「今夜はそういう方針です」
「方針にするな」
彼方さんが腹を抱えて笑い、遥さんが「ほどほどにしなさい」と小鳥遊の前のグラスを少し遠ざける。
その後は、いくらか他愛のない話に戻った。
連休の予定。仕事の愚痴。彼方さんが職場で見た妙な新人の話。小鳥遊が最近相談された、妙にこじれた隣人トラブルの話。
笑ったり、呆れたり、遥さんに諭されたりしているうちに、時間はあっという間に過ぎた。
けれど、彼方さんの言葉だけは、最後まで残っていた。
止める前に、一回受け止めてやれ。
簡単なようで、たぶん難しい。
俺はそういうことが、あまり得意じゃない。
だからこそ、今まで線を引いてきた。
線を引いていれば、少なくとも間違えないと思っていた。
でも。
間違えないことと、傷つけないことは、同じじゃないのかもしれない。
***
帰宅したのは、少し遅い時間だった。
鍵を開ける前から、室内で御子神さんが鳴く声が聞こえた。遅くなるとは連絡していたが、猫には通じない。
玄関のドアを開けると、内扉の向こうで和葉が立っていた。
「おかえりなさい」
部屋着にカーディガンを羽織り、髪はゆるく結ばれている。眠そうではあるが、ちゃんと待っていたらしい。
「ただいま。悪い、遅くなった」
「大丈夫です。御子神さんは少し怒ってましたけど」
「だろうな」
靴を脱ぐと、御子神さんが足元に来て、短く鳴いた。
「悪かったって。飯は食っただろ」
「おやつはまだです」
「それでか」
和葉は小さく笑って、キッチンの方へ視線を向ける。
「お水、飲みますか? あと、お味噌汁もあります。飲んできたあとって、しょっぱいもの欲しくなりませんか」
「……そこまで用意してたのか」
「はい。たぶん、そうかなと思って」
甲斐甲斐しい。
その言葉が頭に浮かんで、少し困った。
俺は手を洗って、和葉が出してくれた水を飲む。冷たい水が喉を通り、ようやく帰ってきた気がした。
「酒、臭いだろ」
そう言うと、和葉は少しだけ首を傾げた。
「少しだけ」
「なら、近づかない方がいい」
「でも」
和葉はそこで言葉を切った。
そして、ほんの少し迷ってから、正面に立つ。
「今日は……いいですか」
いつもの言い方だった。
けれど、今夜は聞こえ方が違った。
飲み会で言われた言葉が、まだ頭の中に残っている。
甘えだけじゃない。
安心だけじゃない。
ちゃんと、自分から近づいている。
「……酒臭いぞ」
俺は逃げるようにそう言った。
和葉は少しだけ笑う。
「はい」
「分かってて来るのか」
「はい」
返事がまっすぐすぎて、困る。
俺が黙っていると、和葉は一歩だけ近づいた。
前みたいに、遠慮がちに様子を窺うというより、こちらの反応を見ながら、それでも自分で決めて近づいている。
俺は、止めなかった。
和葉の額が、俺の胸元にそっと触れる。
腕を回すというより、寄りかかるような軽い接触だった。
それでも、十分近い。
「……なんか、今日」
和葉が小さく呟いた。
「いつもより、あったかいです」
「……酒のせいだろ」
「たぶん、そうですね」
和葉はそう言って、少しだけ頬を寄せた。
「でも、落ち着きます」
その言葉に、すぐ返せなかった。
酒のせいで体温が高い。
それは事実だ。
それだけの話なら、簡単だった。
けれど、今日聞いた言葉のせいで、その一言をただの体温の話として処理できなかった。
好きな相手には、近づきたいものよ。
止める前に、一回受け止めてやれ。
あの子、割と重いわよ。
いくつもの声が頭の中で重なる。
「……長くは駄目だぞ」
ようやく、それだけ言った。
「はい」
和葉は素直に頷いた。
けれど、すぐには離れなかった。
俺も、すぐには離さなかった。
前と同じはずの玄関先。
ただいまと、おかえりと、御子神さんの小さな鳴き声。
それだけの場所で、和葉の体温がゆっくり移ってくる。
足元で御子神さんがもう一度鳴いた。
それでも和葉は、まだ離れなかった。




