28 盛大な花火
後先考えずに仕事を切り上げた歩夢は、東池袋駅に向かって急いでいた。
すれ違った和装の女の子が、慌てて振り向き声をかける。
「あっ、お兄ちゃん! こっちよ、こっち~」
「えっ、有寿? お前また来たのかぁ」
有寿はピンク色の浴衣を着て、動物の髪飾りをつけていた。
その小動物のようなかわいさが、衣装のおかげで激増している。
「だって来週から、また課題で忙しくなるんだもーん」
「でもごめん、今日はもう上がりなんだ」
「ならちょうどよかった~。これから花火見に行こうよー。お兄ちゃん、夜はどうせ暇なんでしょ~」
「バカにするなよ。お兄ちゃんにだって、夜の用事くらいある」
「えっ、お兄ちゃんまさか、彼女できたの? いやいやいや~、奥手なお兄ちゃんに限ってそんなわけないよねー。そんなこと、天地がひっくり返ってもあるわけないよ~」
「お前それ言い過ぎだろ。彼女のことは置いといて、今夜は大事な用事があるんだよ」
「なによー、大事な用事って~」
「えーと、それは、あれだ。好きなアイドルのライブがあって……」
「お兄ちゃん、アイドルはまぶしすぎるから嫌いだって言ってたじゃーん」
「俺のかたくなな偏見をこっぱみじんに吹き飛ばすほどの、超絶かわいい子を見つけたんだ。俺はその子に全財産をつぎ込むつもりだよ」
「お兄ちゃんがそこまで推してる子なら、あたしも見てみたーい」
「悪いな。今日はファンクラブ限定のライブだから」
「お兄ちゃん、なんかウソっぽい」
「いやそんなことは……おっと、時間ないから、ほんとごめん」
歩夢は腕時計を見ながら走り出した。
それを有寿がぼう然と見送る。
なんだよー、またごまかされたー。
せっかくお兄ちゃんが好きな浴衣、着てきたのになー。
お祭りに行くといつもヨダレたらしそうな顔で見てたから、いけると思ったのに~。
お兄ちゃんったら、あんな下手なウソついたりしてさ。
そんなに一人でいたいのかなあ。
でも大丈夫だよ、お兄ちゃん。
あたしがお兄ちゃんを、孤独から救い出してあげるからね。
お兄ちゃんがあたしを救ってくれたように。
成増駅を降りた歩夢は、家までの道のりを走って帰った。
息が切れても、横っ腹が痛くなっても、全力で駆け抜ける。
一瞬目が回りそうになったが、それでも走ることをやめない。
俺には、待ってくれている人がいる。
こんなに幸せなことはない。
「ただいま、マリア」
「お帰りなさいませ、だんな様」
マリアは正座の姿勢で出迎えた。
三つ指を立てて、深々と頭を下げている。
男にこびる態度だな。
でもこれが、悪い気はしないんだ。
男ってほんとバカだよな。
食卓には寄せ鍋が用意してある。
歩夢はこの十六年間、鍋と言えば一人鍋だった。
食材を鍋に入れてくれる。
煮えた魚を皿に取り分けてくれる。
熱い豆腐をフーフーして冷ましてくれる。
その一つ一つが、歩夢にとっては夢のような出来事だった。
「俺によそってばかりいないで、マリアもどんどん食えよ」
「二人でいられるだけで、胸がいっぱいになってしまって」
「なに言ってるんだよ。バカだなあ」
花火が打ち上げられている荒川までは、かなりの距離がある。
しかも目の前の建物が邪魔をして、花火は一部しか見えない。
限られた角度にしか見えない花火を二人で同時に見るには、間隔を空けずに寄り添うしかなかった。
「花火って、こんなにきれいなのね。だんな様と二人だから、ステキだと感じるのかな」
「そう、なのかな……。えーと、つみれでも食おうかな、つみれつみれ」
なんだろう、この満ち足りた感じ。
食事が楽しいと思えるなんて、何年ぶりだろう。
花火は、食事を始めてからほんの数分で終わってしまう。
だが歩夢の頭の中には、きらびやかな花火が盛大に打ち上げられていた。
食後歩夢は、ソファの上でひざを崩している和風のマリアに見とれる。
今日のマリアは、昨日までとは打って変わって積極的ではない。
その奥ゆかしさがまた、男心を刺激する。
その浴衣の中……薄い布をめくれば……帯を一気にほどいて……クルクル回して……着ているものが落ちて……中から白い肌が……。
あぁ、なんて罪な女なんだ!
「あのさぁ……一つだけ、お願いがあるんだけど。ひざ枕、してくれないかな」
マリアが笑顔の花を咲かせながらうなずく。
ソファの上で、マリアの太ももに頭を乗せる歩夢。
「あぁ、この絶妙な弾力。全身がしびれるくらい心地いい。なかなか自分に合う枕が見つからないんだけど、これ以上にしっくりくる枕は世界中探してもないだろうな」
「だんな様はひざ枕が大好物。マリア心得ました。でも、生足のほうがもっと心地よいのではなくって?」
「ええっ、それはちょっと、ぜいたくすぎるんじゃないかなあ」
マリアが歩夢の頭を大事そうに持ち上げながら、ゆっくりと浴衣をめくっていく。
生クリームのような白い脚が露わになり、その上に歩夢の頭が乗せられる。
「あはぁ~。この滑らかな肌、柔らかな感触、気持ち、良すぎる。まさに、天に昇った気分だぁ」
このままマリアと二人でいられるなら、俺の人生、もうそれだけでいいかも。
浴衣の襟元を開いていくマリア。
浴衣がはだけている様は、狂おしいほど官能的だ。
言うまでもなく、ムスコは大輪の花を咲かせている。
しなやかなマリアの手が、白蛇のごとく歩夢の股間へと伸びていった。
歩夢は金縛りにあったように、感覚がマヒして動けない。
いけない!
寸前のところで、歩夢はマリアの手を払いのけた。
「そんなこと、頼んでないだろ」
「つれないことをおっしゃらないで。だんな様お願い……抱いて」
帯をほどいていくマリア。
帯と浴衣のこすれる音が、歩夢の胸を締めつける。
「そういうことは、言わないでくれ。お願いだから、言わないでくれよぉ」
浴衣を開こうとするマリアの手を、世界で一番マリアの裸身を見たいと願っている歩夢の手が止めた。
手には力がなく、それでも必死だった。
「いつになったら、マリアに振り向いてくれるの?」
「こうして一緒に暮らしてるじゃんか。それだけで十分だよ。それ以上のことはやめておこう」
「マリアのどこがいけないの? マリア悪いところ直すから。歩夢の思い通りの女になるから」
「マリアは完璧だよ。マリアはなにも悪くない。これはあくまで俺の問題なんだ」
「ならどうすれば、わたしたちは晴れて結ばれるの?」
「それは……この際はっきり言っておくよ。俺たちが結ばれることはない。永遠に」
「永遠……」
幸薄い女性にしか見えないマリア。
その表情は、絶望した人間そのものだ。