20 夜行性の化け物
それは夜の八時を回り、結衣が帰った直後のことだった。
店にスカートをひらひらさせながら入ってくる、若い女性がいた。
レジに立っていた日下部が、瞳をギラギラと輝かせる。
「いらっ、しゃいませ~っ」
「あの、店長さん……じゃなかった、店長代理さんは、いらっしゃいますか?」
「君、かわいいねえ。俺と付き合わない?」
「は?」
「日下部、お前ってヤツは~っ、さっき言ったばっかじゃねえかーっ」
日下部が客をナンパしていると察知した歩夢は、「今度ばかりは許さない」と心に決めてレジへ駆けつけた。
「え?」
店内をキョロキョロと見回している小柄な女の子。
それは有寿だった。
幼い頃からの丸顔だが、目がクリクリしていて、鼻と口が小さくて、リスのようにかわいらしい。
ゆるふわセミロングの髪型も、よく似合っている。
「有寿、お前、なんでここにいるんだ?」
「あっ、お兄ちゃん、いた~」
有寿は、どんな幸運に恵まれればこれほど嬉しそうな顔ができるのか、と見る者に思わせるほどの笑顔になった。
「えっ、お兄ちゃんって……店長代理、一人っ子っすよね。まさかパパ活ならぬ、お兄ちゃん活?」
「なんだよそれ。強引にわいせつな方向へ持っていこうとするな。高校がこの子の家の近所だっただけだよ」
「高校と家が近所ねえ。なんかエロいな……」
「あっそうか。昨日メールで店の場所を教えたから、早速来てくれたってわけか」
「今日課題の制作がひと段落して、来週まで暇になったんだよー。お兄ちゃんが作ったハンバーガー、食べたい~」
「うわっ、話し方までかわいいなあ。俺、ついに運命の人と出会ってしまったぜい」
「あっ、しかるの忘れてたけど日下部、なに客をナンパしてんだよっ」
「ナンパじゃないっす。もはや本気っす」
「初対面でなに言ってんだよ。もっと慎重になれってあれほど言ったじゃねえか」
「ハートにビビっときたら、考えてる暇なんかないっしょ。ねえ君さあ、とりあえず俺の子供産んでくれない?」
「社会的に抹殺するぞお前」
「店長代理、キャラ変わってるっす~っ」
歩夢は日下部を目力で追い払ってから、自らハンバーガーを作り始めた。
そして親鳥を待つ小鳥のような表情の有寿に、ハンバーガーのセットを差し出す。
「お待たせ。たいしたもんじゃないけどな」
「たいしたもんだよー。だってお兄ちゃんが作ったんだもん」
「いやここだけの話、あんまり栄養のあるもんじゃないからな。明日からはもっと体にいい物食えよ」
「もう、いつまでも子供扱い~」
小さな口をめいっぱい開けてハンバーガーをほおばる有寿を、歩夢は目を細めながら眺めていた。
そんな二人を日下部がうらめしそうに見ていたことには、まるで気づいていない。
店長代理って、自分が恵まれていることに気づいてねえんだよなあ。
ハンバーガーを食べ終わった有寿が、カウンターに両ひじをついている。
店内を常に動いている歩夢を捕まえて、話をするためだ。
「あ、お兄ちゃん、仕事まだ終わらないの?」
「片付けとかあるからね。深夜までかかるんだよ」
「あたし、待っていちゃダメ?」
「ダメに決まってるだろ。子供は早く帰りなさい」
「もう、やっぱり子供扱い~」
歩夢はいつまでもだだをこねる有寿の背中を押し、なかば無理やり店の外へ送り出した。
「いいか、夜道は特に気をつけて帰るんだぞ。この世はどこもかしこもオオカミだらけなんだからな」
「大丈夫だよ。お兄ちゃんを泣かせるようなことは、あたし絶対にしないから」
「いい子だ。有寿は本当にいい子だな」
歩夢は心配そうに有寿を見送り、のぞき込んでいた日下部を追い返す。
有寿に会って上機嫌の歩夢は、家に帰る時にはさらにハイな気分になっていた。
マリア、マリア、かわいいマリア。
「お帰りなさいなのニャ~」
歩夢が玄関の扉を開けると、毛並みの良いネコが待ち構えていた。
しゃがんで背中を丸め、毛むくじゃらの手でネコ招きをしている。
「今日は一日子ネコちゃんで通す気かぁ。いいから飯出してくれよ。お腹ペコペコなんだよ」
「歩夢のエサはマリアニャ。二人でニャンニャンするのニャン」
「なんでネコ語のほうが流ちょうなんだよ。いいからとっとと自分の仕事をしろー」
「はいニャ~」
夕食のハンバーグはあらびきでかなりうまい。
アンドロイドによる手ごねである。
これヤバいな。
俺すっかり胃袋をつかまれちまったよ。
男ってやつはとことん単純だからな。
マイドールは食欲も性欲もバッチリ満たしてくれるってわけか。
おかげで毎晩興奮しすぎて寝付けねえ。
寝不足が続いてきついよ。
食後、歩夢は再びさびしん坊の野獣に襲われる。
突き放した歩夢を、ネコなで声が包み込む。
「マリアと、ニャンニャンしてぇ。歩夢のミルク、欲しいのぉ」
「うん、今出してあげるからね……って出すかそんなもんっ。牛乳でも飲んでろー」
歩夢は皿にミルクを注ぎ床に置いた。
するとマリアがしゃがんで舌を出し、ミルクをなめ始める。
思わせぶりな視線で歩夢を見上げながら。
なんだそのエロかわいい仕草は。
それは反則技だろう。
そんなに白い液をペロペロするなよ。
舌ってそんなに赤かったっけ?
ちくしょー、潤んだ瞳で上目づかいをするなー。
ミルクをなめきったマリアは、ネコの手で体をなでながら物欲しそうな視線を投げてくる。
「マリア、さみしいニャン、ナデナデしてほしいニャー」
その顔……なんか今にもいなくなってしまいそうだな。
急にせつない気持ちになった歩夢は、マリアのほうへ手を伸ばし、心を込めて頭をなでる。
「マリア、抱っこしてほしいニャー」
甘えん坊の猛獣が、歩夢の腹にしがみついてくる。
着ぐるみは柔らかく、温かい。
「お前なあ、十分大きいんだから甘えてんじゃねえよ」
「マリアはまだ子ネコなのニャン。だから甘えてもいいのニャン」
ダメだ。
脳みそが沸騰してる。
このままじゃ、理性が本能に負けちまいそうだ。
夜は体が疲れているから、自制心も弱っている。
だから誘惑にも引っかかりやすい。
性欲という名の化け物め。
お前は夜行性というわけか。
「もういいだろ。いい加減自分の寝床で寝な」
「いやニャ~、マリアさみしいニャ~」
「わがままを言うな」
「いやニャいやニャ、ずっと一緒さんニャ~」
「あぁもう、人間のふりはやめてくれ!」
「……今はネコなのにぃ」
「お前はただのロボットなんだ。着せ替え人形にすぎないんだよっ」
空気が抜けてしぼんでいく風船のように、マリアが体を縮こまらせていく。
頭をたれ、悲し気な目で床の一点を見つめている。
もう、「ニャー」という鳴き声は聞こえてこない。
いたたまれなくなった歩夢は、逃げるように寝具の中へ潜り込んだ。
今のはさすがに言いすぎたな。
ちくしょう、マリアの温もりが、この手から消えてくれねえ。