結界強化 1
結界強化の日も雲ひとつない晴天だった。
天候が回復してから今日まで、二回ほど夕立があった以外はラングリッジ地方に雨は降っていない。
他の地方では曇りや雨の日もあって、巫子を怒らせるようなことをしてしまったのかと神獣省に数件の問い合わせが来たそうだ。
私を怒らせたくらいで天候が悪化することはないということと、以前はこの時期の天候がどうだったかを確認してから問い合わせてくれと返事をしている。
神獣様が私の機嫌で天候を左右するわけがないでしょう。
警護と打ち合わせを兼ねて、結界強化に参加する神官は前日からラングリッジに宿泊し、大神官とアリシアは公爵家の屋敷に部屋を用意したので、朝食を食べながら打ち合わせをすることが出来た。
こういう時、子供の頃から経験を積んできている大神官は意外と動じない。
アリシアは食欲がないようで、果物をなん切れか食べただけだった。
私とアリシアがそれぞれ身だしなみを整えている間、クレイグと大神官は結界前でイライアスと合流して、今日の儀式に参加する者達に最後の確認を行っているはずだ。
結界強化は手順さえ間違えなければ無事に終了できる儀式だ。
今回は聖女が見つかるのが遅れ、神獣様の力が失われた影響で闇属性が今までより濃くなってしまっているけど、妨害するものさえ排除できれば失敗することはない。
「レティシア、俺がいない時はフルン様が傍にいてくださる。決して持ち場を離れないで、おとなしく守られていてくれよ」
出かける前、髪を整えている私のもとにクレイグがやってきた。
「臨機応変に動くから私のことは心配しないでって言ったでしょ。そばに何人も警護がついてくれるんだから大丈夫よ」
「シリルがそちらの指揮役だから、何かあったら言うんだぞ」
「シリルは副団長でしょう!? 何をさせているのよ」
公爵になった時にクレイグがラングリッジ公爵騎士団の団長になり、前の団長さんは近衛騎士団団長として国王の警護に当たっている。
前の国王に仕えていた近衛騎士団長をそのまま採用は出来ないからね。
それで私にとっては恩人のシリルが副団長に抜擢されたのよ。
「今日の儀式できみを守る以上に重要な任務はない。本当なら俺がずっと横に張り付いていたいところなんだが、第一部隊の指揮を執るので前線に行かなくてはいけない」
クレイグは椅子に座っている私の前に跪き、両手で私のほほにそっと触れて額を合わせてきた。
「きみと聖女が生きていればなんとでもなる。自分の命を最優先してくれよ」
「大袈裟な。神獣様も来てくれるし、私の元に来るには騎士団や魔道士たちを突破しなくてはいけないのよ。一番安全な場所にいるの」
「そこから動いて前に出てくるだろ」
「必要がなければそんなことはしないわよ。あなたこそ、気を付けてよ。怪我なんてしたら、いざという時に私を守れなくなるわよ」
「まかせろ」
「もう行って。準備が出来ないでしょ」
周りに侍女が待機しているというのに、クレイグはまったく気にしないのよ。
彼は部屋を出ていくからいいけど、私は残されるんだからね。
「仲良しですねー」
「旦那様はレティシア様がなにより大事なんですね」
冷やかす声は聞こえない振りで、出陣の準備を整える。
国境の戦闘の時にも着た丈が短めのローブに、厨二病が好きそうな指先だけ切れている白いグローブをつけた。
魔晶石が砕けた時に怪我をしないように、でも木刀を振り回すのに感覚が狂わないように、私にはこのグローブがちょうどいいみたい。
神獣を表すトパーズの飾り付きで女神を表す金色の糸が入った紐で、髪を緩く後ろで結わき、ペンダントをローブの上に出してかける。
ちょっとくたびれているけど履きなれた靴を履いて廊下に出たら、青白い顔でアリシアが立っていた。
艶やかな金色の髪に銀の鎖の飾りをつけ、縁を金で縁取りした白いローブ姿だ。
美しい顔が緊張に強張り、唇がかすかに震えている。
「アリシア、行きましょう」
「レティシア、大丈夫かしら」
「大丈夫。私も横にいるし、呪文を多少間違えても言い直せば平気なんですって。傍でチェックしてくれる人がいるんでしょう」
「ええ。それはそうなんだけど……緊張で吐きそう」
「少し早いけど移動してしまいましょう。その場に立ったほうが落ち着くわよ」
玄関ホールで眷属が三人揃って待っていてくれて、それぞれが私とアリシアに声をかけてくれた。
アシュリーとサラスティアは神獣様と一緒に行動し、フルンは私たちを結界近くに送ってくれる。
「向こうの準備は済んでいる。行くぞ」
「「はい」」
使用人たちがいっせいに頭を下げて見送ってくれる中、私とアリシアはフルンの転移で結界前に向かった。
日差しが熱い。
真夏ほどの痛いような熱さはないけど、ずっと曇り空の下にいたせいで直射日光が熱く感じる。
いくつもテントが結界から五十メートルほど離れた位置に張られ、人々が忙しげに働いていた。
ここには休憩所や怪我人の治療室などがあり、後方部隊が待機する。
アリシアが儀式を行うのは、もっとずっと結界の近く、結界から十メートルしか離れていない場所だ。
アリシアが呪文を唱える場所には、乾いた地面に台座を組み、二脚の椅子と飲み物と軽食が置かれたテーブルが用意されている。
まるで庭園でのお茶会か海辺でのバカンスで使用するような大きなパラソルが置かれているのが、ひどく場違いだ。
でもこれが重要なのよ。
これから何時間もここで過ごすんだから、直射日光に当たり続けていたら体力を奪われてしまう。
休憩して水分や食べ物を摂取するのだって大事よ。
いかに早く栄養のある物を食べて戦場に復帰するかで、戦況だって変わってくるわ。
私の席はアリシアの位置から二メートルほど後方に用意されている。
二十分で切れるバフを維持するために、二組の部隊が交互に前衛に立って動くのよ。
神官や魔道士は騎士に比べれば人数が少ないけど、それぞれの部隊にバフを全部かけるのには時間がかかる。
その合間にアリシアと大神官に魔力を供給する仕事もあるので、私はずっと動き回っていることになるから、あまり近くにいるとアリシアの邪魔になってしまうの。
私の席の周りには時間を測り部隊の伝令とやり取りする係や、魔晶石を私に渡してくれる係をはじめ、いろんな仕事をこなす人が五人もついている。
その周りにずらっと魔晶石が地面に刺して並べられているので、実に禍々しい。
アリシアの席とは大違いの風景よ。
「そろそろ開始の時間です」
それぞれが持ち場についたのを確認して、私はまずクレイグのいる部隊にバフをかけた。
大人数に一度にかけられるようになったのはいいけど、ぐんぐん魔力が減っていく。
視線を合わせて頷いてから守備に向かったクレイグの背中を見つめながら、差し出された魔晶石から魔力を吸って魔道士と神官にバフをかけていく。
砕け散った破片でも魔道具を動かすのに使用できるくらいの大きさがあるので、頬や頭に魔晶石が当たると多少痛い。
「聖女、始めるぞ」
「はい。大神官様」
大神官が女神への祈りの言葉を唱え、錫杖の鈴を三回鳴らすのが合図だ。
目を閉じて祈りの言葉を聞いていたアリシアは、大きく息を吸い、ひとつ頷いて詠唱を始めた。
少しでも闇属性の魔力を弱めるために大神官が使用する神聖魔法と、アリシアの結界強化のための呪文の強弱に合わせて、淡い光がふんわりと広がっていくけれど、日光が強いために気が付かない人のほうが多いかもしれない。
すぐに何か変化があるわけではないようで、本当に強化出来ているかわからないのがもどかしい。
そうして昼過ぎまで何事もなく時間が過ぎ、交代で休憩を挟みながら結界強化が続けられた。
ときおり吹く風の心地よさに救われながらも、たった十五分で他の部隊と交換して私のバフを受けなくてはいけないのに、誰ひとり不満を言わずに進んでバフを受けに来るのは、バフのありなしが命にかかわるということを、騎士たちはしっかり理解しているからだ。
「水分を取ってね。食べられるなら少し食べて」
魔力を供給しながら声をかけてみたら、だいぶ緊張がほぐれてきたのか、アリシアは頷きながら水を口にした。
大神官はちらっと私の胸元に目をやり、すぐにまた魔法詠唱を始めている。
なんだろうと胸元に視線を落とすと、彼がときおり錫杖の鈴を鳴らすのに合わせて、ペンダントがきらきらと輝いていた。
まったく話しかけてこなくなってもう何日も経ったけど、今も女神はちゃんと見ているってことかな。
ちょっとだけ心強い気分で差し出された魔晶石を握る。
今日だけでもう何個も魔晶石を砕いているので、足元は水晶の欠片が散らばり歩くたびにぱりぱりと音がした。
「左手! 魔獣三体出現!」
時折、魔獣が出現したという声が聞こえてきてはいたけど、三体同時は初めてだ。
「右手! 二体の魔獣出現しました!」
とうとう来たわね。
気持ちの緩み始める時間を狙うとはやるじゃない。
「レティ、左手重視だ。オグバーンがいる」
今までずっと椅子に座って目を閉じていたフルンが、いつの間にか隣に来ていた。
「魔晶石持って来て」
「強いぞ!」
「落ち着け! 倒せる敵だ!」
左側で戦闘中の騎士の声がする。
オグバーンが連れてきた魔獣……嫌な予感がするわ。
「レティシア様、あまり前に出ては」
「バフをしやすい場所に行くだけよ」
「しかし……」
止めようとしたシリルの前にフルンが立ち塞がった。
「レティの動きを遮るな」
オグバーンが出てきたのなら、神獣ももうすぐ現れるはずだ。
どこまで手伝ってくれるかはわからないけど、それまでは持ちこたえなくちゃ。
「右は?」
「今までと同じ魔獣です」
「油断しないで。シリル、そっちが手薄になりそうだから指揮をお願い」
「……はい」
フルンがいるから大丈夫だと思ってくれたんだろう。
シリルが三人の騎士を連れて右側に駆けだした。
私は魔晶石を抱えたエリンとアビーを従え、神官や魔道士がいる場所まで駆け寄る。
「うわっ!」
悲鳴が聞こえたのではっとしてそちらを見たら、若い騎士が肩を押さえてよろめいていた。
あの制服はラングリッジではなくて、魔道士や神官の警護の応援に来たどこかの騎士のはず。
「に、人間だ。服が……」
彼に攻撃をしたのは、かろうじて服だったんだろうとわかるぼろぼろの布を纏った魔獣だ。
四つ足で移動していたので、言われなければ人間とは思えなかったかも。
魔獣がこんな後方まで来ているということは、前線がだいぶ押されているってことだ。
「そうだ。彼らはおまえたちと同じ人間だぞ!」
騎士が衝撃を受けたのが嬉しいのか、隠れていればいいのに堂々と姿を現したオグバーンは笑いながら叫んだ。
彼がいるのは少し離れた岩場の上だ。
こちら側が崖になっているので登るのは難しそうだけど、魔法は届くんじゃない?
彼自身、だいぶ闇属性の影響は受けているようだし、まともな生活を送れていなかったんだろう。
痩せて目が落ちくぼみ、服がだぶだぶになっている。
まるでちょっと前の私のようだ。
「おまえに仲間を殺せるのか!」
「あほらしい」
光るペンダントから木刀を取り出し、若い騎士に襲い掛かろうとする魔獣の横から脇腹に向かって横凪ぎに木刀をふるう。
普通の魔獣でも私の腕力では手間取ったのだから、ここは渾身の力を使わなくては駄目だ。
だから邪道でもバットをフルスイングするように、全力で木刀を打ち込んだ。
メキメキメキっと大木が折れるような音と共に、魔獣が後方に吹っ飛んだ。
ちょうどオグバーンが頂上にいる岩山に叩きつけられた魔獣は、熱血少年漫画の描写のようにしばらくその場にとどまった後ずるずると滑り落ちた。
ただこれを女の子がやった場合、味方は喜ぶより先にドン引きするんだよね。
オグバーンまで化け物を見たような顔をしている。
さっき暖かい光に包まれた気がしたので、たぶん背後からアリシアが攻撃強化のバフをかけてくれたんだろう。
聖女の魔法と巫子の魔法は属性が違うから、バフを重ねると両方の効果が足されるというのは確認済みなんだけど、アリシアの魔力を消耗させたくないので、非常時に聖女のバフをもらうのはクレイグのいる部隊だけだ。
だから他の人達はバフを重ねた時の攻撃力の上昇を知らないのよ。
「アリシア、あまり前には出ないで」
「はーい」
忙しくなったおかげか、ようやく動けたからか、意外と元気な返事が返ってきた。
伊達に何年も冒険者をやってはいないわね。
こういう時は冷静に対処してくれる。
一方私は、まだ茫然としている若い騎士と彼の仲間たちに向き直った。
「戦えないなら引っ込みなさい! 人間だから何? 私たちは全人類の命を預かってここにいるのよ!」
「は、はい」
「あなたたちの部隊は足手まといだったと言われたくなければ、動きなさい!」
激励したつもりだったんだけど、たった今魔獣を吹っ飛ばした木刀を突き付けたら、若い騎士はその場にしりもちをついてしまった。
そうか、そんなに私は怖かったか。
「あそこに餌がいるぞ! 空腹を満たせるぞ!」
「魔獣が五体増えました!」
オグバーンは魔獣に変化した者達に、食事を与えていなかったようだ。
下手に近付いたら殺されてしまうから、どこかに閉じ込めておいたのかもしれない。
「第一部隊は下がってバフをもらえ! 神官は回復をたのむ!」
「クレイグ様、オグバーンはどうします?」
「ほっとけ」
「え?」
そうそう。遊んであげなくていいの。
ああいう馬鹿は、相手にすると喜ぶんだから。
また新たに魔獣が姿を現したのに私がこんなに余裕でいられるのは、フルンが戦闘に加わってくれたからだ。
彼だけじゃない。サラスティアとアシュリーの姿も見える。
おかげで第一部隊がバフをもらうために後方に下がっても、他の隊が前線を維持できている。
魔晶石をバキバキ折りながらアリシアに魔力を渡し、私もみんなにバフをかけ直し自分の持ち場に帰ろうとして、クレイグがついてくるのに気付いた。
「なんで?」
「フルン様と交代だ」
「そっか。……あ!」
「あ?」
クレイグと話すために振り返っていたので、私にははっきりと銀色の光がオグバーンの頭上で輝くのが見えた。
「なんで魔獣がこんなに簡単に倒され……ぐふっ」
たぶんオグバーンは何が起こったかわからないだろうな。
背中に鋭い痛みを感じて、気付いたら地面に倒れて上から何かに潰されていたって感じ?
「神獣様だ!」
「おおお、神獣様がいらしたぞ!」
オグバーンを右の前足で踏みつぶしながら、神獣は声援に応えるように空気を切り裂くような声で吼えた。