第16話:絶望の黒鎧、滲血の魔刃
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――どうして、こんなことになってしまったのだろう。
地面に膝をつき、必死で眼前の少年を押さえつけていたシルヴィアの視界で、世界の時間が緩やかに凍りついていくようだった。
ほんの数十秒前まで、彼女の手の中にあったのは、確かに「生きて、息をしている少年」の温度だった。
何重もの絶望と歪んだ陰謀に巻き込まれ、身を削るように冷酷な仮面を被り続けていた無垢な少年。
(死なせたくない……! この子に、これ以上の罪を背負わせたくない……っ!)
そう願い、彼を取り押さえた。
だが、その一瞬の隙に、焦燥に駆られたバルドルのクレイモアが閃き――少年を守ろうと割り込んだ小柄なメイド、マリアの胸を凄絶に引き裂いた。
血飛沫が、夜の空気を赤く染めた。
腕の中で力なく果てていく少女を抱きしめた少年の瞳から、最後の人間の温もりが消え去っていくのを、シルヴィアは息を止めて見つめることしかできなかった。
『――新たなページを開くには、対価が必要である――』
少年の口唇は動いていなかった。だが、その身体から立ち上るおぞましい呪詛の波動が、大気を激しく震わせていた。
次の瞬間――世界の理が砕ける音がした。
「――ッ!?」
シルヴィアの眼前で、少年の左眼球が内側から熟した果実の如く弾け飛び、血と虚無へと溶けていく。
「あぐぁぁぁぁぁぁぁぁッ───!?」
少年の口から吐き出されたのは、人間の上げるものとは思えぬ、地獄の底からの絶叫だった。
左の眼腔から生温かい鮮血が大量に溢れ出し、白銀の髪と蒼白の頬を赤く汚していく。その痛々しい叫びが、シルヴィアの胸を刃のように深く鋭く抉り穿った。
(私が……私がこの子を追い詰めたから……! この子に、またこんな凄惨な犠牲(対価)を払わせてしまったの……!?)
激しい罪悪感と悲しみが、シルヴィアの頭を殴りつける。
だが、少年の体内から溢れ出したのは、単なる苦痛ではなかった。
脳髄を直接灼き穿つ激痛を塗り潰すように、全身の神経と魂の根幹を、世界中のあらゆる飢餓を凝縮したような絶望的な『渇き』が襲い狂っていたのだ。
(腹が……減った……魂、旨そうだな……っ!)
禁書の理が脳裏で咆哮していた。新たに解き放たれた死霊の力――『魂喰らい』。それは使役するのみならず、死者の命そのものを直接噛み砕き、自らの身肉と力へ塗り潰す忌まわしき権能。
ロックは血走った右目で地を睨み、昼の戦闘でストックしていた【六つの魂】のうち【三つの魂】を、己の魂の深淵へと放り込んだ。
──ゴク、胃の腑ではなく魂の奥底で命の残滓が咀嚼される。
瞬間、全身の毛穴が突きあがるほどの背徳的な愉悦が駆け抜けた。
甘い。
あまりにも甘美で、濃厚。
この世の如何なる甘露も及ばぬ至高の美味。
一度でもその味を知れば二度と逃れられなくなる。
狂おしい依存性を伴って、魂がドロリと潤されていく。
つばの広い帽子を脱ぎ棄て、ロックはゆっくりと夜の空を見上げた。
溢れ出す禍々しい漆黒と血の魔力が、ロックの全身を包み込むように重装甲の鎧へと結晶化していった。
冷徹な金属の鱗が噛み合い、幾重もの装甲が命を得た蛇の如く肌を覆う。精緻な絡繰が顔を覆う兜を組み上げ、狂気の狩人が産声をあげるかのように漆黒が組み上がる。漆黒の厳めしい装甲に赤き血脈が走り、戦場に悲しき死の華を咲かせる。不敵に聳える二本の角と世界への深き憎悪をその身に秘めた、荒々しくも美しい絶対の具足──。
具足の名は『怨魂噛滅』。
「……なんてこと……まるで……血の涙を流しているようだわ……」
風を纏い直したシルヴィアが、組み上がった異形の漆黒兜を見つめ、痛切な声で呟いた。
だが、鎧を纏ってもなお、渇きは鎮まらない。
(もっと……もっとよこせ!)
ロックは激しい飢えに耐えかね、残っていた【三つの魂】をも容赦なく貪り食らった。
過剰なまでに注ぎ込まれた怨魂の力が右手に集束し、一振りの細剣へと結実する。
怨魂の力を注ぎ込むとき、刃は飢えた獣の如く、滴る生血を貪欲にその身へと滲ませる。吸い上げられた鮮血が複雑な紋様を描いて刀身を満たし、古き世界を貫く禍々しい赤雷となって狂い咲く。ただ一つの宿願、あの輝かしい命をこの手で葬り去るため、絶望の漆黒が戦場を蹂躙する。悲しき赤の刀身は、かつて見た偽りの思い出を、千々に引き裂く憎悪の証。優美な翼を模した護拳は、過ぎ去りし黄金の日々を憐れむように、ただ静かに主の手を包み込む──。
魔剣『滲血魔刃』。
……その剣は……世界の生命すべてを否定している……
シルヴィアの戦慄を置き去りに、凝縮された『死』の概念が濃密な霧となって夜の戦場全体を覆い尽くした。
──ガァァァァァァァッ!!
漆黒の具足を纏ったロックが跳躍した。
関節の可動域も物理法則も完全に無視した異様な可動と軌道。重力をあざ笑うかのような人外の挙動でアインヘリヤルの集団の中央へ牙を剥く。
魔剣『ミストルティン』が一閃される。
一振りで、洗練された硬鉄の甲冑ごと数人が肉塊となって爆ぜ飛んだ。内臓と鮮血が夜の闇に撒き散らされる、圧倒的な暴力の惨劇。
その惨状の中、ガレナスとバルバが横たわるマリアの遺体へ静かに近づき、回収しようと手を伸ばした。
その瞬間──。
具足の奥から地響きのような威嚇の唸り声が響き渡った。
ガレナスとバルバの肌に死の汗が吹き出す。
「落ち着け、ロック……ッ!」
バルバが踏み留まり、噛み殺すような声で語り掛けた。
「この子を弔ってやりたいんだ! だが、このままお前が暴れ続ければ、その衝撃でお前を守ろうとしたマリアの肉体が原形を留めなくなってしまう……!」
バルバの切々とした言葉に、ロックの装甲から立ち上る赤雷が揺らぎ、ふたりへ向けられていた絶対的な殺気がゆっくりと和らいでいった。
ガレナスが静かに頷き、声を重ねる。
「彼女は責任をもって我々が連れて帰る。だから……任せてくれ」
ロックは無言でふたりへ背を向けると、残されたアインヘリヤルたちへ向けて無機質に歩み寄った。
「我らは楽園の扉を開く、無情の鍵なり!」
アインヘリヤルが一斉に襲い掛かる。
それはあまりにも一方的な屠殺の戯曲に過ぎなかった。
瞬く間、濃厚な血の臭いが夜気を塗り潰し、もはや幾人が死んだのかも分からぬほどの虐殺が繰り広げられる。そこにはただ、絶対的な暴力が描き出した凄絶な地獄絵図だけが広がっていた。
殺戮の果て、無数の死者から立ち上る大量の蒼い魂が、渦を巻いてロックの体内へ絶え間なく流れ込んでいく。
その命の混濁が甘美に満たしていく。
その感触があまりにも心地よく、ロックは全能の破壊力に酔いしれ、狂気的な恍惚に浸った。
そして──ロックはゆっくりと顔を上げ、これまでで最も巨大な殺意を、蛇に睨まれた蛙のごとく恐怖で硬直するバルドルへ向けた。
バルドルは一歩も動けなかった。
目の前で繰り広げられた人外の蹂躙。
自分に向けられた死の圧迫に、全身の筋肉が拒絶を起こしていた。
ロックが魔剣を振り上げた──その瞬間。
「──ロックーーーッ!!」
シルヴィアの悲痛な叫びが戦場に轟いた。
ロックの動きが止まり、ゆっくりと振り返る。
振り返った先では、シルヴィアが悲しみに目を潤ませて彼を見つめていた。
「全員……今すぐここから離れなさい!」
聖騎士たちはガレナスやバルバに合流するが、バルドルだけはひとり、その場に立ち尽くしている。
「シ、シルヴィアさんはどうするんだ……!?」
震えるバルドルの問いに、シルヴィアはレイピアを構え、毅然と答えた。
「ロックをここで止めなければ、聖導国が滅びるだけでは済まない……! 世界の命運のために、私はロックと刺し違えてでも殺します!」
シルヴィアの悲しき殺意を受け、ロックは漆黒の兜の奥から、遠吠えのような、悲痛な唸り声をあげる。
その声を聞いたシルヴィアの胸が強く締め付けられた。
(……まるで、幼子が訳もわからず泣いているようね……)
高まっていくロックの狂気的な殺気。己の誇りも大切なものもすべて崩れ去り、恐怖に呑み込まれたバルドルは、他の者たちを置き去りにしてただひとり、暗闇の奥へと逃げ出した。
「彼女を頼みます!」
シルヴィアからマリアの遺体を託されたガレナスとバルバ、そして聖騎士たちは苦渋の決意で撤退を開始した。
「はぁぁぁぁぁッ!」
シルヴィアの『風纏衣』が嵐のように吹き荒れる。極限まで高められた身体能力で地を蹴った。
だが、物理法則を無視して突進するロックの速度は、彼女の予測を遥かに上回っていた。
辛うじて避けたつもりだったが、黒い影が視界を覆う。纏った風を全開にして防御を試みるも、圧倒的な打撃の質量によって吹き飛ばされた。
地面を何度も転がり、エルフ屈指の身軽さを誇る彼女でさえ受け身が取れない。額が割れ、綺麗な顔立ちに鮮血が流れ出す。
身体がバラバラになりそうな痛みに耐え、歯を食いしばって立ち上がる。
「……あなたをひとりには、しないわ……」
そう告げて彼女は、自らの身体に施していた『拘束術式』を静かに、強い決意とともに解除した。
「――『天を裂け、閃光』――」
強大すぎる力のため普段は厳重に封印している禁忌の力――極限の光魔法『光輝絶唱』。
強力すぎるため、自身の体をも破壊する光の奔流。
黄金に輝く粒子がシルヴィアの周りを神聖に覆っていく。
だが、すべての拘束を解き放ち、全身から光を放つシルヴィアを前にしてもなお――暴走するロックが放つ強大な死の圧力は、彼女の限界を遥かに凌駕していた。
「……これでも、届かないのね……」
死を前に、少女のような可愛らしい笑顔を見せる。
『光輝絶唱』
その瞬間、全身全霊で命を燃やすシルヴィアの一突きが『黄金に輝く光の槍』となってロックへ直撃した!
「ガアァァァァァァッ!!」
ロックは魔剣と鎧で耐える。苦しみの獣の唸り声が戦場に響き渡り、黄金の光によって『ニーズ・ヘリオン』の装甲が少しずつ削り落とされていく。
だが、シルヴィアの限界も近かった。膝をつきかけたその時──現れたのはヘカテだった。
彼女は人間の姿から、真の魔族の姿──艶やかな翼と角を持つサキュバス『スカディ』へと変貌を遂げる。
スカディは問いかける。
「私は、ロックに死んでほしくない……貴方はどうなの!?」
シルヴィアの瞳から涙が溢れ出た。
「私も……ロックに死んでほしくないッ!!」
スカディは優しくシルヴィアの背中に手を当てた。
「魔族とエルフは犬猿の仲だけど……今は休戦ね。ロックを助けるわよ!」
スカディの膨大な魔力がシルヴィアの体内へ怒涛のごとく流れ込む。
シルヴィアとスカディの魔力が融合し、光が輝きを増す。
ロックの装甲が次々と剥げ落ちていく。
「「必ず、助け出すから……ッ!!」」
ふたりが叫び、光を解き放つ。
絶大な光の奔流と激突し、膨れ上がった魔力の渦が臨界点を超えた瞬間――戦場の時が止まった。
耐えきれなくなった漆黒の鎧と魔剣が甲高い悲鳴を上げて砕け散り、眩い閃光とともに天地を揺るがす破滅の大爆発が夜の闇を呑み込んでいった。
爆発の煙が収まった現場へ、エーギルを引き連れたガレナスとバルバが駆け戻ってきた。
荒れ果てた地には、鎧の砕けたロック、倒れたシルヴィア、そして見知らぬ魔族の女性が横たわっていた。
最初に意識を取り戻して身を起こしたのは、魔族のスカディだった。
エーギルたちが即座に臨戦態勢に入ると、スカディは艶やかに笑った。
「今日はとっても疲れているの……殿方の相手はできないわ」
その声と話し方を聞いて、ガレナスが驚愕の表情を浮かべる。
「……ヘカテ様……!?」
「この姿で会うのは初めてね……ガレナス」
「魔族……だったのですか!?」
「女は秘密を着飾って美しくなるのよ」
「ガハハハハ!」
エーギルが豪快に笑い飛ばす。
その声に頭を押さえて不機嫌そうに起き上がったのはシルヴィアだった。
「……頭に響くので、少し静かにしてください……」
バルバが周囲を警戒し、追手が集まる前の撤退を提案する。
横たわり意識のないロックのもとへ、シルヴィアとスカディが同時に歩み寄った。ふたりは互いに視線を交わすと、自然な手つきで少年の身体を両脇から静かに支え上げる。
「おいおい、重いだろ。俺が担ごうか?」
腕まくりをするエーギルに対し、スカディはロックの白銀の髪を愛おしそうになでながらくすりと微笑んだ。
「ダメよ……この可愛さは私だけのもの……絶対に譲ってあげないわ」
「ッ……変なことを言わないでください!」
思わずムキになって言い返すシルヴィアの姿に、エーギルは苦笑いを浮かべて手を振った。
「女の修羅場は後にしてくれ! 近くに停泊させてある船で、この国を脱出するぞ。ここにいる全員、聖導国のお尋ね者だからな」
脱出の足取りを進めながら、シルヴィアは隣を歩くスカディを毅然とした瞳で見つめた。
「貴方がロックに何をなさるか分からない以上……私も一緒に行きます」
「私たちはこれから聖導国と一戦交える気だけど……本当に良いの?」
スカディの問いに、シルヴィアは支えられたロックの蒼白な寝顔を一度見つめ、静かに答えた。
「聖導国の隠された闇を知ってしまった以上……私も、戦う覚悟です」
「……ふっ、共犯者が増えましたね」
呆れたように呟くガレナスに、スカディは口を尖らせて愚痴をこぼした。
「共犯者は私だけの席だったのに……」
一行は脱出船が待つ隠し港へと向かった。そこには先ほど洞窟前で共闘した四人の聖騎士たちも待機しており、彼らも共に国外脱出する手はずとなっていた。
早朝の港。
遠くの物陰から、その光景を見つめるバルドルの姿があった。
狂乱したロックの姿への恐怖。自分が過ちで少女を斬り殺してしまった激しい罪悪感。
今すぐにでも手に握りしめたこの重厚なクレイモアを投げ捨て、血に濡れた己の手を拭い去りたかった。
だが――強烈な恐怖と罪悪感により、筋肉が極限まで収縮した右手は固く硬直し、指一本すら開くことができなかった。
爪が拳に喰い込むほどに強固に握りしめられた剣柄。手を開こうと必死に足掻けば足掻くほど、否応なしに視界に入るのは、鋼鉄の『クレイモア』の冷たい光沢だった。
(……なんで……なんで開かないんだよ……っ!!)
視線が剣へと釘付けになる中、脳裏に一筋の記憶がフラッシュバックする。
シルヴィアとふたりで武具店を訪れ「あなたの剛力に合う」と微笑まれ、デート気分で購入したあの輝かしい時間。
かつて自分は、ラグナを守るための『盾』になると誓い、シルヴィアの隣に立つ誇り高き騎士であったはずだった。
だというのに――今の自分はどうか。
誤って少女を血に染め、恐ろしさのあまり親友も見捨て、ひとりで暗闇へ逃げ出してきた情けない腰抜けだ。
恐怖で固まり、手が開かない情けない自分。
シルヴィアの隣を奪われ、怪物となったラグナに怯えて逃げ出した惨めな自分。
その直視しがたい現実に対する激しい自己嫌悪と屈辱が、胸の奥でドロリとした狂気の怒りへと反転していく。
(俺が……俺がこんな惨めな目にあっているのは……っ! 俺の手が開かないのも、俺が少女を斬ったのも……全部、ラグナが怪物になって現れたせいだッ!!)
恐怖と罪悪感を抱える己を正当化するため、バルドルは怒りの矛先をラグナへの憎悪へと強引にすり替えた。
情けなく硬直した右手と、シルヴィアとの思い出の象徴であるクレイモアへ、自暴自棄な八つ当たりが爆発する。
「……ぁ……あぁぁぁぁぁッ!!」
バルドルは叫び声を上げながら、握りしめたクレイモアを足元の巨大な岩へ向かって何度も、何度も、狂ったように叩きつけた!
ガカンッ! ガツンッ!
激しい衝撃が腕を伝う。
一度、二度、三度。幾度も硬い岩盤に叩きつけられた鋼鉄の刃は、見るも無惨に欠け、歪み、ボロボロに破壊されていく。
力を込めすぎた己の掌の皮が破れ、血が滲み出ても、激しい打撃を止めることはできなかった。
ボロボロに砕け散った刃の残骸を見つめ、バルドルは血と汗に塗れた顔に、歪んだ笑みを浮かべた。
手に残る破壊の感触。ラグナへの憎悪に身を委ねることでしか、砕け散りそうな己の自尊心を保つ術がなかったのだ。
「……シルヴィアの隣に立つのは……俺だ……俺なんだ……っ。お前なんかじゃない……!!」
血に濡れた拳を強く握り締め、狂気に塗れた声で呪詛を呟く。
「……ラグナ……ラグナさえ……ラグナさえいなければ――――っ!!」
早朝の海。聖導国を脱出する船が、静かに波を破って進んでいく。行先は何処だろうか。安住の地はあるのだろうか。待ち受ける苦難を前に船は進む。
冷たくなった命の余熱が、今も腕に残っていた。
絶望と呪いの深淵を歩み続けるロックに──マリアの最後の言葉
『心の底から……笑顔になれる日』は、果たして訪れるのであろうか。魂喰らい
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