1.リタ、突然の結婚を知る
全52話完結。
完結まで連日更新します。
午前の仕事がひと段落ついたころ。
リタは窓の外に視線を流し、小さく息を抜いた。
ほんのわずかな、自由な時間。
人の気配が遠いこの場所で、静かに呼吸を整えるひととき。
(やっぱり、この職場が一番落ち着く)
王立中央図書館。
前王の母君の願いによって建てられた、国内最大の蔵書を誇る場所。
高い天井。静まり返った空気。
紙の匂いと、時間の積み重なり。
リタにとってここは、ただの職場ではなかった。
居場所、と呼んでいい場所。
人と話すのは、あまり得意ではない。
相手が生身であればあるほど、余計に気を遣ってしまう。
言葉を選びすぎて、何も言えなくなることもしばしば。
だからこそ――
人ではなく、本と向き合うこの仕事は、リタにとって理想そのものだった。
(前世でも、そうだったな)
ふと浮かぶ、ぼんやりとした記憶。
同じように、本棚に囲まれていた日々。
同じように、空を見上げていた時間。
「……変わらないな」
小さく笑み。
窓から差し込む昼過ぎの光。
やわらかな暖かさが、まぶたを少し重くする。
「平和……」
ぽつりと零れた言葉。
昼食を終えたあとの、少しだけ気が緩む時間。
疲れた頭が、甘いものを欲しがる頃合い。
(家にチョコ、あったかな……)
記憶をたどる。
なければ帰り道で買えばいい。
図書館から家までの途中にある、小さなお菓子屋。
あそこに寄るのも、いつもの楽しみ。
図書館。お菓子屋。家。
それだけで、十分だった。そのはずだった。
「――おい、リタ」
背後から声。低く、少し掠れた声。
「リタ・マーセル。また窓の外を見ているのか」
振り返る。
そこに立っていたのは、館長――ミハエル・マートン。
黒髪、黒い瞳。目の下には、いつものように薄いクマ。
相変わらずの、不健康そうな顔色。
(また本を読みすぎたんだろうな……)
そう思うのが自然なほど、彼はこの図書館に溶け込んでいる。
「来月で終わりだな」
唐突な言葉。
リタは首を傾げた。
終わり?
「王立学校の先生、また返却忘れですか?でも来月って……貸出期間は三ヶ月のはずですけど」
思い浮かぶのは、例の常習犯の教師。
だが、館長は首を振る。
「違う。俺の勤務が、来月で終わる」
「……館長の?」
「言ってなかったか」
リタの思考が一瞬止まる。そんなはずはない。
「え、いつですか?」
「書類にメモを挟んでおいた」
(絶対気づかないやつ……)
記憶をたどるが、見覚えはない。
「そんな大事なこと、直接言ってください!」
「そうか。おかしいと思った。お前、何も変わらないからな」
「変わるって……何がですか?」
「ああ、俺は結婚する」
――結婚?
言葉が、理解として落ちてこない。
館長が?!この人が??
「……おめでとうございます」
口から出たのは、形だけの祝福。
心は追いついていない。
この人は、ずっとここにいる人だと思っていた。
本と一緒に、ここで生きていく人だと。
「本以外になると、本当に鈍いな」
「……それ、館長にだけは言われたくないです」
反射的な反論。その瞬間、手を取られる。
驚く間もなく、引き寄せられる距離。
「俺は、お前と結婚するつもりだ」
静かな声。逃げ場のない視線。
「答えは、“はい”以外ないだろう」
「……え?」
思考が止まる。完全な停止。
「わたしと……?」
確認するような声。館長は、わずかに身をかがめた。
そしてリタの手の甲に、そっと口づける。
優雅な仕草だ。
見慣れない、別人のような所作。
(この人、こんなことできたの……?)
現実感のない光景に頭がくらくらする。
理解が追いつかないまま、時間だけが流れていく。
リタは、その場に立ち尽くしていた。




