09.鈍色の白銀(七)
恵里が元の世界からこちらへ持ってきたのは、革のライダース上下とグローブとブーツとヘルメット。その全てを身につけて、恵里は今、地上一〇〇〇メートルの辺りを魔動バイクで駆けている。時速はおよそ三〇〇キロというところだろうか、なるべく伏せるような体勢をとっているもののかなりの風圧に身体が持って行かれそうだ。風防スクリーンがあれば良いのだがプラスチックはもちろん、強化ガラスも手に入らないのではどうしようもない。耳をつんざくような風切音が大音量で響き、風圧でヘルメットのシールドが顔面に押し付けられる。
「ううっ、ヘルメットが顔に張り付くってこういうことかぁ」
元の世界にいた頃、バイク仲間の隼乗りが「二五〇キロを超えるとヘルメットがベターって顔に張り付くんだ」と笑っていたことを思い出す。恵里は二〇〇キロ以上なんて出したことがなかったから、その時はそれがどういう感覚なのかいまいちピンと来なかったのだが、
「こんなところで経験することになるとは…」
ホント、何が起こるか分からない。恵里はそう独りごち、更に高度を上げるのだった。
「じゃあ、ちょっとニールバーまで行ってくるよ。上手くすれば一週間くらいで帰れると思う」
未だ薄暗い早朝五時。ジッロとイェーラを前に、恵里はそう言って魔動バイクに乗り込んだ。愛車の、手作り魔動バイク。最初、魔女の家で製作を始めた時に目指していたのはTMAXだったが、出来上がったのは子供が空き箱で作ったような不格好なフュージョンだった。それでも乗っているうちに愛着が湧いたし、いろいろと改良を重ねた今では何に似ているともつかない完全オリジナルの魔動バイクになっている。なんせ翼があるんだから、どっちの世界を探したってこんなバイクは見つからないだろう。
「本当にそんな短期間で往復できるのか?第一そんなもんで空飛ぼうなんて無茶すぎやしねーか」
「そんなもんとは失礼な。大丈夫だよ」
「だがニーノ、今までにそれで空を飛んだことはあるのか」
と心配げなイェーラ。二人ともぜんぜん信用がない。この世界に飛行機なんてないのだから仕方ないのかも知れないが、ちょっと面白くない恵里である。
「…イヤないですけどね、高さが違うだけで普段乗ってることには変りないんだし」
そう唇を尖らせて、恵里はトンと地面を蹴って空中に飛び上がった。
「まあ無事に帰ることを祈っててよ」
「気を付けろよ!」
「旅路の平安を祈念している」
途中までは自分の魔力で高度を上げ、見上げて手を振る二人が小さくなったところで浮遊の魔封箱を開けた。グンと圧される衝撃に思わず目をつぶり、再び目を開けば高度は数百メートルというところだろうか。地上から眺める時よりも、ニールバーとを隔てる山脈が圧倒的なスケールで眼前に広がる。
「うわぁー」
呆けたような感嘆詞を呟いて、恵里はしばしその荒々しくも神々しい山脈を眺めた。そうしてふと足元に目を転じれば、広大な森にぽつんと拓けたダシュト村が小さく見える。そのまま西に目をやれば延々と広がる平野。街道が続いているのもうっすらと見える。
山脈を越え大河を渡り広い大地を過ぎて海へ出たその先にある島、それがこの旅の目的地だ。今、山脈を越えた。未だ大河は見えない。長い旅は始まったばかりなのだと、改めて遙々たる旅路に思いを馳せる恵里なのだった。
とある家の前に魔風箱を置き、恵里はその上に座って家の主を待っている。離れて間もないのになぜだかもう懐かしく感じるニールバーは王都オルロ。皆どうしているだろう、元気だろうか。皆に会いたいし近況も色々話したいと思う。けれども今回の銀取引の件で会う人は最小限に留めることにしていた。だってあんな今生の別れと言わんばかりの宴会を催しておいて、もう戻って来たというんじゃ恥ずかしすぎるだろう。何より、皆に会って里心がついてしまうのが怖かった。そうしたらきっと旅先に戻るのが辛くなってしまう。だから恵里は街行く人から顔が見えないように、そして自分でもなるべく見ないように、農夫の麦わら帽子をかぶって俯いているのだった。
オルロに戻って最初に恵里が訪れたのは、”無頭立ての運び屋”バルデリ・リーガンことリリィのところである。何をおいてもまず彼女が協力してくれなければ空路の開発は成り立たないのだ。
「ちょっとぉ、うちに何か用?」
ああ、この懐かしい声。今は少し警戒の色を帯びている。恵里は帽子のつばを指で持ち上げ、リリィを仰ぎ見た。
「やあ」
リリィの表情がみるみるうちに変わった。驚きに両目をいっぱいに開いて、今にも泣き出しそうな顔で恵里を見つめる。瞳に浮かぶ涙は、ほんの少し揺らしただけで零れてしまいそうだ。
「……ニーノ!」
恵里がおどけたように両腕を広げれば、リリィがその中に飛び込んで来た。
「おっと」
危うく受け止め、恵里はリリィのその広い背中に手を回した。
「ニーノ、ニーノ、私もうあんたに会えないと思ってたのよ」
「元気にしてた?」
「元気にしてた? じゃないわよ!私がどれだけ泣いたと思ってんのよ!」
恵里の肩口に顔をうずめたまま、リリィは涙声を張り上げる。
「ごめんねリリィ」
「謝んないでよ!バカ」
「うん。ごめん」
リリィの頭をくしゃくしゃ撫ぜるとリリィはようやく顔を上げた。潤む目の下に少し滲んだアイライナーを恵里が指先で拭ってやると、リリィは涙をこらえるようにはにかんで鼻をすすった。
「何で帰ってきたのよ。何か理由があるんでしょ?」
「そうなんだ。リリィにちょっと頼みたいことがあってさ」
「何よ。何でも言いなさいよぉ」
涙声の頼もしい台詞に苦笑して、恵里はダシュト村のこと、そして空路構想のことを話し始めたのだった。
「西の山脈を越えた森に、ダシュトという獣人族の村があるんだ」
「獣人族?」
「そう、犬の頭のね。あっ、でも死神じゃないよ。ロレント出身のジッロは死神だって驚いてたけど」
「本当にいるのねぇ。”犬頭人とは天の忠臣にして死者を迎ふる者、あるいは冥界の門番。御神により天降し給うた秩序の番人”ってね。ニールバーに伝わる昔話の一節よ」
「ははぁ、全部聞くと死神とは程遠いじゃない。正義の味方っぽい」
「”死者を迎ふる者、あるいは冥界の門番”の印象が強いから、そこだけ独り歩きして勘違いしてる人は結構いるわ」
「なるほどねえ。でもその話は山脈の西には伝わってないみたい。西側じゃ獣人への差別と偏見が酷くて、ダシュトには銀山があるんだけど、西の街の商人からかなり不当な取引を強いられてるんだ。村の人たちは生活がその商人頼りだから仕方がないと言って耐えてるけど……」
「あんたの事だからその村を助けたいっていうんでしょう。それで私に頼みたいことっていうのは?」
「オルロとダシュトを結ぶ空路をリリィに担って貰いたいんだ」
「ええ?何よそれ、一体どういうこと?」
「オルロ商人組合とダシュト銀山で取引が出来れば色んなことが一気に解決すると思うんだよね」
「それはそうかもしれないわよ、でも」
「今までそれが叶わなかったのは山脈が遮っているから」
「そうよ!私だって協力したいとは思うけど、あんなに険しい山脈越えるなんてとても採算が合わないわ」
「確かに、馬で越えた時は四週間近くかかった。でもね、今日は違う。ダシュトを出たのは今朝の五時なんだ」
「何ですって!?」
そう。空を飛べば地形に関係なく直線距離での行き来が出来る。朝五時にダシュトを出発して昼過ぎにはオルロに到着できた。休憩を除いた走行時間は約五時間。平均速度を三〇〇キロとしてオルロ・ダシュト間の距離はざっくり一五〇〇キロ。日本で言えばだいたい札幌から鹿児島というところだろうか。直線距離でこれだから、地上を歩くならプラス五〇〇キロ、その上いくつも峠を越えるとなると距離も時間もさらに加算されることになる。そりゃ陸路でダシュトと取引するなど全く現実的ではない。が、空路なら。
「実は魔動バイクを改良して空を飛んできたんだ。リリィの馬車もちょっと改造すれば”空飛ぶ無頭立て”に変身ってわけ」
「そんな、無理よ!私浮遊の魔法は使えないのよ!?」
「うん、だから魔封箱を馬車に組み込めばいい。推進はリリィの魔法でもいいし、魔封箱を使ってもいい」
口で説明するよりも実際に見たほうが早いだろう。恵里は路地裏に隠しておいた翼付き魔動バイクをリリィに披露した。リリィは困惑した表情でバイクとその上に跨った恵里を見比べている。どう反応したらいいのか分からないようだ。
「後ろに乗ってみて」
「大丈夫なの?」
「大丈夫だよ。さあ」
促されてリリィはおずおずとバイクに跨り、恵里の腰に手を回した。恵里はその手を軽く叩いて、
「しっかり掴まって、行くよ!」
地面を蹴ると同時に浮遊の魔封箱を開く。土埃をブワッと巻き上げ、二人を乗せた魔動バイクは快晴の青空へと勢い良く踊り出したのだった。




