03.鈍色の白銀(一)
頭が犬の形をしている。そういう人が、恵里とジッロの前に立ちはだかったのだった。その姿を見止めた途端、ジッロは訳の分からない叫び声を上げて一目散に逃げ出してしまった。恵里は唖然として馬を駆るジッロの背中を眺めていたが、それがずいぶん小さくなってしまってから目の前の人に向き直った。
「連れが大変失礼をいたしました」
頭が犬というだけであの態度は無礼にも程があろうと思って、恵里は犬頭の男に頭を下げた。犬の目が大きく見開かれた。何だか愛嬌がある。耳は細くツンと天を指し、鼻筋のスッと通る面長、顔の感じはドーベルマンに近いが毛は少し長め。鼻は黒くてやはりちょっと湿っているようだ。耳の後ろを掻いてやったら喜ぶかなあと恵里はバカなことを思った。
「お前は我々の言葉が分かるのか」
「ええ、言語としては分からないのですが意思の疎通は可能です」
「魔法か」
恵里がはい、と頷くと犬頭はすうっと目を細めた。獲物を検分するような目付きに、恵里は自分も逃げ出すべきだったのかとソワソワした。もしかしたら犬頭は人食い人種なのかもしれない。ジッロが一も二もなく逃走したのはそういうことだったのではないかと恵里が不安に思っていると、犬頭が短く言った。
「この姿を恐れぬのか」
「えっ、本当に人食い人種なんですか!?食べられるのは嫌です!怖いです!」
犬頭は笑い出した。恵里はついていけず、ただ呆然と犬の鋭い歯列を眺める。噛まれたら痛そうだ。やっぱり今からでも逃げようか…。
「お前は面白い人間だな。この姿を見て驚きも恐れも蔑みもせぬ」
頭が動物の人と出会ったくらいで動じていては、自分自身が魔法を使うようなファンタジーの世界でやっていけるわけがない。それよりも気になったのは犬頭の言葉だ。彼らがこの地でどういう存在であるのかを端的に表している。その由来によっては逃げねばなるまい。例えば人間狩りを楽しむ部族なのかもしれないし。
「でも齧られるのは嫌ですよ」
恵里は身体を半身にして後ろに引いた片足に体重を掛けた。いつでも逃げ出せるように。
「噛み付きはせぬよ」
犬頭は穏やかな空気をまとって笑っている。その優しげで紳士的な雰囲気に安心した恵里は、今度は犬頭の首と身体のつなぎ目がどうなっているのかが気になり始めたのだった。
犬頭はイェーラと名乗った。彼ら獣人族が住む村はダシュトといい、険しい山脈の森の中にある。恵里たちは南北に伸びる山脈の東側から峠を越え、西側の森に入ったばかりの所でイェーラと出会った。ニールバー国とはこの立ちはだかる山の壁に遮られ、あまり交流はないそうだ。ジッロがなかなか戻ってこないので、恵里はメモ書きを木にピンで留めてイェーラの後をついて行った。村を案内してくれるという。
ダシュトは寒村という言葉がしっくり来る寂れたところだった。スラムというのではないが、妙に乾いた寒々しい空気が吹き抜ける。活気がないのだ。村全体が暗く沈んでいるような感じで、どうにも陰鬱な雰囲気が漂っている。
「住んでいる人はあまり多くないのですか?」
往来に人影は見えない。話し声も聞こえない。ひっそりと息を殺して、あるいは恵里を監視しているのかもしれない。
「今は皆鉱山へ行っている」
なるほどまだ昼過ぎだから、皆仕事で出払っているのだろう。しばらく歩いて街の中ほどまでやって来ると、イェーラは集会場のような建物に恵里を招き入れた。中には長テーブルと簡素な椅子が十数脚、無造作に置かれている。手近な椅子に腰をおろし、イェーラはおもむろに口を開いた。
「魔女二ーノ。折り入って頼みたいことがある」
おや、と恵里は思った。
「私が女だとよくお気づきに」
「匂いで分かる」
まあ、滲み出る色気などないのは分かっていたが。自ら男に見えるような格好をしているのになぜだか悔しい気持ちになる恵里であった。
「それでその、頼みというのは?」
「この村にかけられた呪いを払ってもらいたい」
「私はいくらか魔法が使えますが、魔女ではありません。ですが、何か力になれることがあるかもしれない。詳しくお話を聞かせていただけますか」
恵里が魔女でないと知って落胆したのかどうか、イェーラの表情からは読み取ることができなかった。ただその鼻先をぴくりとさせ、イェーラはゆっくりと立ち上がった。
「この村の者は皆、銀で生計を立てている。そのために皆短命なのだ。その呪いを解いて欲しい」
銀の鉱山。短命な鉱夫。思いつくものは一つだ。
「その呪いのために、咳が出るとか息苦しいとかそういう症状はありますか?ひどくなると、安静にしていてさえ呼吸が困難になる」
「…まさしく。この呪いを、ご存知か」
恵里は頷いた。だがこれは呪いなどではない。
「鉱山を見せていただきたいのですが」
「分かった。こちらへ」
村の奥に森を切り開いた広場があり、山肌には木組みの入り口が見える。広場にはいくつか建物があって、工程別に精錬作業が行われているらしい。人々は忙しく立ち働いているが、何かこう、活気がないような感じだ。”呪い”の意識が人々にあるせいだろうか、漂う空気は何となく暗く重苦しいものだった。
「少し中を見ても?」
「ではこれを」
恵里が坑道を指して尋ねると、イェーラは腰につけた木の札をひとつ外して恵里に手渡した。
「これは?」
「呪い除けだ」
そういう文化なのだとしたら、否定するのはあまり良いことではないだろう。そう思って、恵里はありがたく呪い除けの木札を受け取ったのだった。
坑道の中は暗く湿ってひんやりとしている。小さなランプを手にしたイェーラの後に続いて暗闇の中を進んでいく。振り返って見える入り口が光の点になる頃には、構内に満ちる空気の質はかなり悪化していた。採掘の際に生じる粉塵やランプの油煙が行き場を失って淀んでいるのだ。恵里は首に巻いていたバンダナをマスクにして、換気についてどうなっているのかを尋ねた。
「換気口はいくつかある」
しかしその効果は限定的のようだ。この状況で一日中働けばどうなるか。
「切場はこの奥だ」
「ここまでで十分ですよ。坑道の枝分かれは多いのですか?」
「ああ。鉱脈に沿って年々深く複雑になっている。はぐれれば迷うぞ」
こんな暗闇に取り残されるのはごめんだ。彼らは夜目が利くようだが、恵里には小さなランプの頼りない明かりだけでは内部の様子は判然としない。と、その時。恵里の足元を何かがトトトッと駆け抜けていった。
「わっ!?」
驚いてよろめいた恵里をイェーラがとっさに抱き止めてくれた。力強い腕に厚い胸板。鼻先を掠める柔らかな毛皮。野性的な匂い。恵里はイェーラの腕の中でちょっとうっとりなってしまった。
「こら、ナセル!」
「そいつ人間だろ。なんでこんなところにいるんだよ」
むき出しの敵意を含んだ高い声。恵里にはぼんやりとした輪郭しか見えないが、そのシルエットは小さくどうやら子供のようだ。
「この方はニーノ。村の呪いを払ってくださるかもしれない」
「呪いを!?本当に!?」
ナセルと呼ばれた子供が恵里に飛びついた。モフモフした頭が恵里のあごをくすぐる。
「ええ、それについていくつかお話が」
「なあ、本当に呪いを解いてくれる?なあ、なあ!」
「とりあえず外へ出ましょう」
ナセルが恵里の手を取って早く早くと引っ張る。その手は想像以上に小さかった。こんな小さい子供まで鉱山で働いているのか。呪いの影に怯えながら。カラン、カランと高い音を立てるのは腰につけた呪い除けの木札だろう。恵里は胸がつまる思いで、ナセルのその小さな手を握り返すのだった。




