09 最も幸福な悪夢7
昼食を終えた。
買っておいた花束をそっと手に取る。
赤い花びらが視界に焼き付く。
その色を、どこかでずっと見ていた気がする。
「……行きましょう」
「……ああ」
毎年この時だけは。
どうしたって口も足も重くなる。
その前のピクニックだって空元気だ。
そんな空元気に頼らなければ――この先の物に耐えられないのだと知っていた。
一歩一歩。
萎えそうになる足を必死で支えながら前へ進む。
行先は、メモリアルパーク。
(……何故?)
今日ここに行くことは前々から決まっていた。
その予定を忘れる事なんて絶対にない。絶対に出来ない。
だと言うのに仁は混乱していた。
何で自分は今、こんなところに居るのだろうと。
(令はここにいる)
その考え自体が不自然であることに仁は気付けない。
令は死んでいない。
故に、メモリアルパークで令が眠っているという発想自体ならない筈なのだ。
(俺は、誰の元に歩いているんだ?)
黒を基調とした服。
肩の辺りで揃えられた茶色い髪。
「……なあ令」
「……何?」
本来なら何気ない会話何てこの時だけは無い。
だけど仁はどうしたって気になった。
「お前の髪……そんな短かったっけ?」
もっと長かったような気がする。
いや、それだけじゃない。
その色も。仁の脳裏に焼き付いているのは夜空に流れる星の様な輝きの――。
「仁と会った頃からこれより伸ばした事は無いよ」
ぎこちない笑み。
笑おうとして失敗した。そんな笑みだった。
それ以上仁は無駄口を叩かず。令も何かを言う様な余裕はなく。
そこへ辿り着く。
痛まし気に令が視線を伏せる。
「っ……」
周囲よりも一回り小さい墓碑。
そこに刻まれた名前と年数を見て仁は。
強い強い喪失感を覚えた。
文字通り、胸を抉る様な虚無感。
嗚呼、と仁は詠嘆する。この感覚には覚えがある。
何故忘れていたのだろう。
何故思い出せなかったのだろう。
この宇宙で最も大切な人が永遠に失われた時に空いた穴。
その存在を忘れる事なんて有り得ないと思っていたのに。
不思議と、今日は一日違和感を抱きながらも満たされていて、その間隙に気付けなかった。
ぽつり、ぽつりと頬に雨粒が当たる。
予報外の突然の雨に、周囲の墓参りをしていた人たちが慌てて片付け始める。
「……どうしよう」
傘の手持ちなんて無い令が少し困った顔をする。
日を改めるべきか。それとも小降りの内に墓参りをしてしまうか。
「どうせこの後予定も無い……今日くらいは側にいてやろう」
「そうだね……うん、ごめんね。あんまり頻繁に来れなくて」
仁の言葉に頷いて、令はその下で眠る相手へ優しく声をかける。
持ってきた布巾で、墓碑の汚れを落として。
花束を墓前に添える。
「これ、お弁当。さっき二人で食べて来たんだよ」
分けてあったサンドイッチを供える。
小さく四等分した、一人分のサンドイッチ。
「仁は何時もお肉ばっかりだから偶には野菜を食べて欲しいと思ったけど、あなたはどっちかな。どんなものが好きでどんなものが嫌いだったか……知りたかったな」
雨足が強くなる。
令の頬を雫が伝っている。
多分仁も似たような物だ。
先ほどからずっと、頬に熱いものが流れているのを感じている。
「……ふとこんな物が気に入るんじゃないかと思って買ってきた」
運動靴。
仁は勿論、令にも合わない位小さいサイズの一揃い。
「何でだろうな。走るのが好きなんじゃないかって。ふとそう思ったんだ」
不思議な事だ。
この靴を買っている時は何も感じなかったのに。
口から言葉が出てくる。
「多分、足は速かったんだろうな。男子にも負けない位に」
そんな光景は――見た事がない筈だ。
なのに仁は何故だか容易に想像が出来た。
幻の中で顔も知らない誰かが得意気な顔をしている。
そんな光景。
涙が出る程に眩しい幻だった。
「……会いたい、よ」
令の掠れ声が耳に届く。
雨音に紛れてしまいそうな、本当に小さな弱音。
「会いたかったよ……」
令を黙って抱きしめる。
しがみ付く様に令も仁を抱え返す。
「ごめんね……ごめんね……」
「謝る必要なんてない。お前が謝る事なんて何一つない。選んだのは、俺だ」
九年前のあの日。
仁は令を選んだのだ。
「違う……違うの……私が、私が選んだの。こうなるなんて知らなくて」
「……まだ、何も言えないのか?」
「ごめんなさい……ごめんなさい……ごめんなさい……」
毎年。
令は泣く。
自分のせいだと。自分が選んだせいだと。
その理由を尋ねても決して言おうとはしない。
こんな筈じゃなかったと。
こんな筈ではというのは仁も同意見だ。
十年前に描いていた理想とは少し違う。
だけどそれは誤差だ。
令が今己の腕の中に居る。
その最低条件が満たされていれば、それでいいのだと。
自分にそう言い聞かせる。
こうなる選択を選んだのは仁自身だ。その選択に悔いはない。
悔いはない。
悔いはないけど――理想的でもない。
「……帰ろう。俺達の家に」
冷え切った令の身体を支えながら、仁はそっと歩き出すように促す。
嗚咽を漏らしながら、小さく令は頷いた。
振り向いて一言。
「また、ね」
「また来るよ。今度はもっと天気の良い日に」
そう言いながらも仁は――その約束が果たされる事は無い気がしていた。
令が右手を掴む。
痛いほどに。
爪が仁の手の甲に食い込むほどに。
離したくない。絶対に離さないと言うように。
何時もはそれに負けない位仁も強く握り返す。
決してその手を手放さない様に強く強く。
だけど今日はそれも控えめだった。
ずっとまとわりつく違和感が今も消えない。
左手が冷たい。
荷物を握った左手には何の温もりも無い。
取っ手の食い込む痛みが伝わってくるだけ。
「――て、――さん」
誰かの声が。
そんな風に呼ばれた事の無い筈の声が聞こえた。
慌てて振り向くが背後には無数の墓碑が立ち並んでいるだけ。
誰もいない。
不思議と薄気味の悪さは感じない。
ただ、そう――懐かしい。
ここ数か月ほど聞いていない様な懐かしさ。
どうしてだろう。
どうしてなのだろう。
本当は、右手で感じている温もりは左手で感じている物だったという意識が離れてくれない。
何か満たされた感覚。
だけど同時にあるべきだった何かが抜け落ちた感覚。
違和感。
違和感。
違和感。
十年間過ごしてきた筈の日々。
その全てに違和感を抱かずにはいられない。
だけどそれを認める事は出来ない。
認めてしまうわけには行かない。
だって、その違和感を突き詰めていけば辿り着くのは。
それらの全てに共通しているのは――。
今隣で泣きじゃくっている令なのだから。
家に辿り着いて。
令を風呂場に押し込む。
濡れた身体をタオルで拭きながら仁は部屋の中を見渡した。
二人分の食器。
仁の物は記憶通り。
令の物は――こんな柄だっただろうか。
テーブルの上に置かれた小物。
過去に人類が作り出したという建造物の物がいくつか置かれている。
違う――ここにあったのは確かペンギンか何かで。
ぼんやりとしたイメージが集約していく。
間違い探しをするように、違和感を一つ一つ探していく。
そして己の私室兼令との寝室。
枕が二つ並んだベッド。
違う――四年ほど前からそこで眠るのは一人だけだ。偶に潜り込んでくることは有ったが。最近はそれも無くなった。
令の部屋に入る。
メモ書き。
古い紙の書籍。
何か良く分からない昔の物。
そうしたごちゃっとした物に満たされている。
如何にも歴史好きな令の部屋らしくて。
だけど違う――仁の知るこの部屋が如何にもな物で満たされる日は来なかった。
ペンギンのぬいぐるみがあった。
何をそんなに気に入ったのか。彼女は空を飛べないあの鳥が大好きだった。
ここ数年は流石に目立つところには身に着けなくなったが、ずっとペンギンのキーホルダーを肌身離さず持っていた。
「仁?」
風呂上がりの令が、立ち尽くす仁を見て怪訝そうに声をかけた。
何時の間にかそれだけの時間が過ぎていたらしい。
その茶色い髪と瞳。
――違う。
仁の記憶にあるのは流星の様な銀色の髪と、ASIDの眼の色に酷似した紅い色。
令じゃ、ない。




