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38歳の新人衛兵、不眠症の年下騎士団長に「抱き枕」として徴用される  作者: 団田図


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第2話 泥まみれの訓練

 屋外の修練場は、連日の雨で酷いぬかるみになっていた。

 他の騎士団員たちが屋根のある場所で訓練する中、第零班ゼロの訓練スペースだけは、雨ざらしの泥沼だった。


「走れ! 足が止まっているぞ!」


 クラウスの怒号が飛ぶ。

 ベルンは20キロ近いフル装備を身につけ、泥の中を走り続けていた。

 肺が焼けつくように熱い。心臓が早鐘を打ち、喉の奥から血の味がする。


 半年間の自主練で、ある程度の体力はつけたつもりだった。

 だが、騎士団の、それも『処刑人』と呼ばれる男のしごきは、次元が違った。


「次は素振りだ。1000回。腕を下ろすな。姿勢が高い!」


 容赦のない罵声と共に、木剣で容赦なくすねを打たれる。

 ベルンは泥の中に無様に転がり、泥水をすすった。


(きつい……)


 正直、吐きそうだ。視界が白黒に明滅している。

 38歳の体は悲鳴を上げ、ふくらはぎの筋肉は断裂寸前だった。

 若い騎士たちが、遠巻きに見ながら嘲笑っているのが見える。


「見ろよ、あのオッサン。泥団子みたいだ」

「クラウス団長のしごきじゃ、1時間も持たないだろうな」


 悔しさと情けなさで、奥歯が砕けそうになるほど噛み締める。

 だが、ベルンは立ち上がった。

 膝が笑い、手が震えても、剣を構え直す。


(こんな痛み、どうということはない)


 弟のエミルは、もっと痛かったはずだ。

 もっと怖かったはずだ。

 何もできずにのうのうと生きていた自分が、この程度の苦しみで音を上げてどうする。

 泥まみれの顔を拭いもせず、ベルンは剣を振るった。

 998、999、1000……。


「……終わりだ」


 夕闇が迫る頃、ようやくクラウスの声がかかった。

 ベルンはその場に大の字に倒れ込んだ。空は完全に暗くなり、冷たい雨が火照った体を冷やしていく。

 指一本動かせない。

 クラウスが、泥人形のようになったベルンを見下ろしていた。


「……明日の朝、辞表を出せ。貴様には向いていない」


 冷たく言い捨て、クラウスは背を向けた。

 その背中は、雨に濡れて一層小さく、そしてどこか――もろく見えた。


+++


 水を浴び、着替えを済ませたベルンが地下の廊下を歩いていたのは、それから一時間後のことだった。

 全身の筋肉が悲鳴を上げ、足を引きずりながら歩く。

 入団初日にして、体は限界を超えていた。


(明日は……起き上がれるだろうか)


 不安が頭をよぎる。

 その時、前方からふらふらと歩いてくる人影があった。

 クラウスだった。

 だが、昼間の鋭さはどこにもない。

 壁に手をつき、まるで幽霊のように足元がおぼつかない。


「団長……?」


 声をかけようとした瞬間、クラウスの体がぐらりと傾いた。

 糸が切れた操り人形のように、前へと倒れ込む。


「あっ!?」


 ベルンは咄嗟に駆け出した。

 痛む足のことも忘れ、倒れゆく上司の体を、その太い腕で受け止める。

 ガシッ、という音と共に、ベルンの胸板にクラウスが飛び込む形になった。


「……ッ、貴様……」


 クラウスがかすれた声で何か言おうとする。

 だが、ベルンの腕の中で、クラウスの動きがピタリと止まった。


 ベルンは、クラウスの体が異常なほど強張っているのを感じた。

 常に気を張り詰め、何かに怯えるように神経を尖らせている体。

 だが、ベルンの胸に顔を埋めたその瞬間、クラウスの鼻が微かに動いた。


「……?」


 ベルンの匂い。

 それは、汗や泥の臭いではない。

 長年、厨房に立ち続けた彼に染み付いた、独特の香り。

 太陽をたっぷりと吸い込んだ干し草のようであり、丁寧に引かれた極上の出汁だしのようでもある。

 温かく、懐かしく、心の奥底を優しく撫でるような安らぐ匂い。


(……なんだ、これは)


 クラウスの意識が揺らぐ。

 幼い頃から戦う道具として育てられ、常に死と隣り合わせだった日々。

 不眠症に蝕まれ、もう3日もまともに眠っていない脳髄が、悲鳴を上げていた。

 栄養剤と漢方魔薬で無理やり繋ぎ止めていた意識の糸。


 それが、この匂いを吸い込んだ瞬間、ふわりとほどけた。


「……いい、匂いだ……」


 クラウスは無意識に呟いた。

 張り詰めていた肩から力が抜け、全身の体重をベルンに預ける。

 それは、彼が生まれて初めて感じた「絶対的な安心感」だった。


 ベルンは呆然と立ち尽くしていた。

 腕の中にいるのは、昼間あれほど自分を罵倒し、泥水を啜らせた鬼教官だ。

 だが、今の彼はどうだ。

 まるで迷子が親を見つけたように、ベルンの軍服の胸元をギュッと掴み、顔を埋めている。


(……いい匂い? 確かに先ほど水浴びをして、着替えたばかりだが……)


 困惑しつつも、ベルンは無防備に倒れかかってくる上司を、そっと支え直した。

 近くで見ると、その顔色は真っ白で、目の下の隈が痛々しい。

 まるで、壊れかけた硝子ガラス細工だ。


「……団長、大丈夫ですか」


 ベルンが恐る恐る声をかけると、クラウスがハッと弾かれたように顔を上げた。

 青い瞳が泳ぎ、焦点が定まらないまま、ベルンを見上げる。

 一瞬だけ見せたその表情は、年相応の、あどけない青年のものだった。


 しかし、すぐに氷の仮面が戻ってくる。


「……ッ! き、気安く触るな!」


 クラウスは乱暴にベルンを突き飛ばした。

 よろめきながら後ずさり、顔を赤くして袖で口元を拭う。

 威嚇する猫のような態度だが、その目はどこか潤み、とろんとしていた。


「……無礼者め。今のは……単なる立ちくらみだ」


 早口でまくし立てるが、足元はまだ覚束ない。

 クラウスは壁に寄りかかり、ベルンを睨みつけた。


「今日は、これで終わりだ。……明日も来るつもりなら、遺書を書いてこい」


 捨て台詞を吐いて、クラウスは逃げるように執務室へと消えていった。

 パタン、と執務室の扉が閉まる音が響く。


 残されたベルンは、誰もいない薄暗い廊下で、自分の袖の匂いを嗅いでみた。


「……そんなにいい匂いか? いつもの洗濯剤の匂いだと思うが」


 首を傾げつつ、ベルンは苦笑した。

 理不尽なしごき。罵倒。冷遇。

 散々な初日だった。

 それでも、最後に見たクラウスの表情が、どうしても脳裏から離れない。

 あの一瞬、鬼のような団長が、ベルンの腕の中で見せた安堵の表情。


「……まあ、いい」


 ベルンは痛む体を引きずりながら、出口へと歩き出した。

 少なくとも、初日を生き残った。

 明日もまた、あの泥沼で剣を振ることができる。


「待ってろよ、エミル」


 出口の向こうには、雨上がりの夜空が広がっていた。

 雲の切れ間から覗く月が、ベルンの新たな戦いの始まりを静かに照らしていた。


+++


 一方、執務室に逃げ帰ったクラウスは、ドアに背中を預けたまま座り込んでいた。

 心臓がうるさい。

 顔が熱い。

 あんな風に、他人に無防備な姿をさらすなんて。


 だが、それ以上に困惑していたのは、体の反応だった。

 ベルンという男に触れられた瞬間、あんなにも泥のように重かった体が、一瞬だけ羽が生えたように軽くなったのだ。

 あの匂いを嗅いだ瞬間、強烈な睡魔と、えも言われぬ安らぎと心地よさが脳を支配した。


「……なんだ、今の感覚は」


 クラウスは震える手で、自分の心臓を押さえた。

 鼻の奥には、まだあの「干し草のような、出汁のような」温かい匂いが残っている。


「……ベルン・ガーランド」


 その名前を呟くと、不思議と胸のざわめきが少しづつ大きくなっていく気がした。

 クラウスは知らなかった。

 それが、孤独な氷の騎士と、お節介な元料理人の、長い長い道程の始まりであることを。

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