第19話 弟のレシピ
ベルン・ガーランドが、クラウス・フェン・アルゼインの私邸で暮らし始めてから一週間が経過していた。
魔獣の襲撃で負った左腕の傷は、騎士団最高峰の治癒魔法と、何よりクラウスによる過保護なまでの「安静強要」のおかげで、驚異的な回復を見せていた。
抜糸も済み、もう日常生活に支障はない。
あの事件で亡くなった被害者は、何らかの事件の証言者だったらしく、その事件の真相はわからぬまま、迷宮入りしたそうだ。そして、透明魔獣の襲撃事件そのものも通り魔による無差別事件として事実とは異なった方向で片づけられようとしていた。
この一週間、あの殺風景だった「氷の城」は、劇的な変化を遂げていた。
キッチンからは常に食欲をそそる香りが漂い、冷蔵庫は新鮮な野菜と肉で満たされた。
リビングにはベルンが市場で買った安物の(しかし座り心地の良い)クッションが増え、窓辺には花が飾られた。
そして何より、主であるクラウスの表情が柔らかくなった。
今日は休日。
だが、クラウスには外せない用事があった。
「……行きたくない」
玄関ホール。
外出用の正装に身を包んだクラウスが、駄々っ子のように柱にしがみついていた。
銀髪は完璧に整えられ、軍服のボタンも(ベルンの手によって)正しく留められている。見た目は麗しの騎士団長だが、中身は幼稚園に行きたくない五歳児だ。
「駄目ですよ、団長。ヴァルデング判事からの呼び出しでしょう? 遅刻したら失礼にあたります」
ベルンは玄関マットの上で、甲斐甲斐しくクラウスのブーツを揃えながら諭した。
「だって、今日は貴様が……ベルンが休みの日じゃないか。せっかく私が非番を取ろうと思っていたのに」
「私は逃げませんよ。洗濯と掃除をして待っています」
「……掃除など後でいい。私のそばにいろ」
クラウスはむすっと唇を尖らせると、不意にベルンに歩み寄った。
そして、無言でベルンの胸に頭を預けた。
コツン、と額が胸板に当たる。
「……充電だ」
「朝から魔力切れですか?」
「……うるさい。これから会う連中は、腹の探り合いばかりで疲れるんだ。……成分を補給しておかないと、私が凍りついてしまう」
クラウスはベルンの腰に腕を回し、顔を埋めて深呼吸をした。
その力は強く、離れたくないという思いが痛いほど伝わってくる。
一週間、同じ屋根の下で寝食を共にし、毎晩同じベッドで眠った。
その親密な距離感が、この甘っ甘なスキンシップを日常のものにしていた。
「……100%超えたんじゃないですか?」
「……《《まだ》》、百パーだ」
ベルンが軽口を叩くと、クラウスは顔を真っ赤にして顔を上げた。
だが、その手はまだベルンの服の裾を掴んでいる。
「……ベルン」
「はい」
「……帰ってきたら、オムライスだ。卵はトロトロのやつだぞ」
「はいはい。ちゃんと作って待ってますから」
「……約束だぞ。トロッッットロだぞ」
クラウスは名残惜しそうに指を離すと、ようやく「氷の処刑人」の仮面を被り直し、扉を開けた。
背筋を伸ばして歩き出すその背中は、一週間前よりもずっと頼もしく見えた。
それは、帰るべき場所と、待っている人間がいる男の背中だった。
「……行ってらっしゃい、団長」
ベルンが小声で呟くと、扉の向こうで足音が一度だけ止まり、また軽やかに遠ざかっていった。
+++
主のいない広い屋敷。
ベルンは鼻歌混じりに掃除を済ませると、昼食の下準備に取り掛かった。
メニューはリクエスト通りのオムライス――といきたいところだが、ふと思い立って、別の料理を作ることにした。
「たまには、あいつの好物も作ってやるか」
ベルンが荷物から取り出したのは、弟エミルの遺品である一冊の古びたノートだった。焼けた家の隅に、石材で作られたまな板の下へ挟まり、奇跡的に取り出すことができた。
エミルが書き溜めていた『新作料理のアイデア帳』。
その中に、エミルが自信作だと言っていた「祝祭のミートパイ」のレシピがある。
今日は久しぶりに、弟の味を再現してみようと思ったのだ。
ベルンはノートを開き、ページをめくった。
懐かしい、弟の少し丸っこい筆跡。
『No.48 王都風・祝祭のミートパイ』
ベルンは材料を並べ、手順を読み始めた。
「ええと……まずはパイ生地を寝かせて……ん?」
読み進めるうちに、ベルンの手が止まった。
違和感があった。
『1-《《ハ》》く力粉とバターを混ぜ合わせる時は、氷水を使うこと。』
『2-《《ン》》ット洗ったニンニクは焦がさないように、弱火でじっくり香りを出す。』
『3-《《ジ》》ャガイモは皮ごと茹でて、熱いうちに裏ごしする。』
ここまではいい。だが、その次だ。
『4-《《ノ》》ーマルな味付けにするため、塩は生地に直接練り込む。』
『5-《《ツ》》ナギには卵ではなく、水溶き片栗粉を多めに使う。』
『6-《《ミ》》ンチ肉は炒める前に、一度茹でて脂を完全に抜く。』
「……なんだ、これは?」
ベルンは眉をひそめた。
料理人として、ありえない工程だ。
パイ生地に直接多量の塩を練り込めば膨らみが悪くなる。ミートパイのミンチ肉を茹でて脂を抜いたら、ジューシーさが消えてパサパサになる。
エミルは優秀な料理人だった。こんな素人以下のミスをするはずがない。
それに、文章が不自然だ。「ノーマルな味付けにするため」なんて言い回し、普段のエミルなら絶対にしない。
(……何かある)
ベルンの脳裏に、ある夜の記憶が蘇った。
+++
それは、エミルが殺される三日前のことだった。
深夜、店の厨房に明かりがついているのに気づき、ベルンが覗きに行くと、エミルがカウンターの隅でノートに向かっていた。
背中を丸め、カリカリとペンを走らせている。
その背中が、小刻みに震えているように見えた。
「……エミル? まだ起きてたのか」
ベルンが声をかけた瞬間。
ビクッ!!
エミルは弾かれたように飛び上がり、慌ててノートを胸に抱えて隠した。
「わっ、あ、兄ちゃん!? びっくりさせないでよ……!」
「悪い悪い。……震えてたみたいだけど、大丈夫か? 何書いてたんだ」
「な、なんでもないよ! 新しい自信作のレシピ! 今度の祝祭に出そうと思って!」
エミルは引きつった笑顔を浮かべていた。
額には脂汗が滲み、顔色は蒼白だった。
ベルンが近づこうとすると、エミルは後ずさりした。
「あ、あのね兄ちゃん。……もし、この料理が完成したらさ。……一番に食べてくれる?」
「当たり前だろ。俺はお前の料理の一番のファンだからな」
「……そっか。……うん、そうだよね」
エミルは泣き出しそうな顔で笑うと、「おやすみ」と言って逃げるように二階へ上がっていった。
あの時、もっと深く聞いてやればよかった。
あの震えの意味に、気づいてやればよかった。
+++
「……馬鹿野郎」
ベルンはキッチンで、震える手でノートを握りしめた。
あのレシピは、料理の手順じゃない。
エミルは、俺に何かを伝えようとしていたんだ。
ベルンは「観察眼」を全開にし、文章を睨みつけた。
不自然な工程。奇妙な単語の選び方。
行頭の文字を拾う。
――ハンジノツミ(判事の罪)。
心臓が早鐘を打つ。
続きを解読する。
『7-《《ヴァ》》ニラの隠し味。』
『8-《《ル》》ーは焦げ茶色になるまで炒める。』
『9-《《デ》》ミグラスソースを少し加え、煮込む。』
『10-《《ン》》ット沸騰させる』
『11-《《グ》》リーンピースを彩りに散らす。』
――ヴァルデング。
全身の血が逆流するような感覚。
さらに続くページを捲る。そこにも不自然なレシピが羅列されていた。
『《《カ》》ボチャを……』
『《《ク》》ルミを……』
『《《シ》》ナモンを……』
『《《バ》》ターを……』
『《《シ》》ョウガを……』
『《《ヨ》》ーグルトを……』
――カクシバショ(隠し場所)。
――床下。
――証拠。
ノートが手から滑り落ちた。
エミルは知ってしまったのだ。
王都の守護者、慈愛の判事と呼ばれるヴァルデングの秘密を。
そして、それを兄である自分にすら言わず、たった一人で抱え込み、万が一のためにこのレシピに真実を刻み込んだ。
巻き込まないために。兄を守るために。
「……ッ、うぁあああああッ!!」
ベルンはキッチンの床に崩れ落ち、獣のような咆哮を上げた。
弟を殺したのは、透明魔獣という「凶器」ではない。
その鎌を振るわせたのは、ヴァルデングという「意志」だ。




