第3章 その男、決断につき その②
「ねえ、妙だと思わない?」
誰にともなく向けられてきたその声に、近くにいた数人の女性社員がすぐさま反応し、発声者である女性社員に視線を転じた。
「妙って何が?」
「ほら、北村さんよ。最近元気がないと思わない? なんかこう雰囲気が暗いというか、何か思い詰めているというか」
「そういえば……」
たちまち複数の視線が北村に注がれた。
それらの視線の先で、パソコンのキーボードを叩いている北村の表情はたしかに生気に欠け、心なしか青ざめているようにも見えた。
そんな北村の姿を眺めやりつつ、ふたたび女性社員たちがささやきだした。
「あきらかに以前の北村さんとは違うでしょう。表情とかさ」
「うんうん、たしかに。以前の北村さんはもっと表情が明るかったわよね」
「そうそう。仕事中にニヤニヤしているときもあったしね」
「ひょっとして、相澤専務の娘さんにフラれちゃったとか?」
「それとも専務さんに見切りをつけられて、『そろそろ娘と別れてくれんかね?』とでも言われたとか?」
「何よ、どっちも同じようなものじゃない」
キャハハと笑いあう女性社員たちであったが、そんな自分たちの笑い話のネタにされている北村が、このとき密かにある決意を固めていたことなど、むろん彼女たちは知る由もなかった。
†
この日に限ったことではないが、水野は公私ともに多忙な男だった。
しかし、そんな水野ですら今日ほど多忙を極め、かつ心身ともに疲労困憊となった一日を経験したことはかつてなかった。
十時過ぎまでかかった「公」の方の仕事はいつものこととして、その後に待っていた「私」の方の用事で散々な目にあっていたのだ。
この日、残業を終えた水野は都内にあるバーで、とある三人の女性たちと会う約束をしていた。
一人はファッションモデル。一人はクラブホステス。一人は女医。年齢も職業も異なる女性たちであったが、共通していることが三つあった。
一つ、お金が大好き。二つ、プライドが高い。三つ、三人とも水野の恋人であるということだ。
そんな三人の女性たちを、馴染みのカクテルバーに呼び集めた水野の目的はただ一つ。三人に別れ話をすることであった。
専務令嬢をわが物とするために立案した、「夢の逆玉の輿計画(仮称)」の決行日が一週間後に迫っており、いつ恵美との交際が始まってもいいように、水野は自身の「身辺整理」をすることにしたのだ。
しかし、水野の予測に反してその交渉は困難を極めた。
当初の予定では、ことのほかプライドの高い女性たちが「三股」をかけられていたことを知らされたあげく、別れ話まで切りだされたことに激怒し、
「こんな女たらしの最低男! あんたなんかこっちから別れてやるわよ!」
と、即座に応じてくれるはずであった。
ところが素直に同意してくれた女性は一人もおらず、それどころか周囲の目をはばかることなく水野を大声で罵る始末。
それで怒りがおさまり、別れ話に応じてくれればまだしも、三人ともますます意固地になり頑として承諾しなかったのだ。
そんな女性たちに平身低頭しつつ、なだめすかし、言いくるめ、多少の脅しもまじえた説得の末にようやく全員と合意し、身体を引きずるようにして自宅マンションに水野が帰ってきたのは、深夜零時のことだった。
「疲れた……本当に疲れた……」
その声に生気というものはほとんどなかった。
それでも幸い今日は金曜日で、明日明後日と会社は休み。時間を気にせずにゆっくりと眠ることができる。
とにかく眠ろう、ひたすら眠ろうと、そんなことを考えながら水野はエレベーターに乗りこんだ。野球帽をかぶった一人の男とともに。
「何階ですか?」
指先でクルクルと自宅の鍵を回しながら、水野は野球帽の男に声を向けた。
「ずいぶんと遅いお帰りですね、水野さん?」
「えっ?」
突然名前を呼ばれ、水野は驚いたように振り返った。だが野球帽にその顔は隠れ、すぐに誰かはわからなかった。
「ええと、どちらさんですか。お隣の町田さんかな?」
「私ですよ」
そう言って男は野球帽をとった。その下からあらわれた顔に、水野は見憶えがあった。
二週間ほど前、自らがリーダーを務める大型プロジェクトから一方的に排除した、某下請建設会社の社長の顔に……。
「あ、あんたは!?」
驚き、おもわず目をみはった水野に、その男は笑みを向けた。
その笑みに、いったいどれほどの憎悪の念がこめられていたことだろう。
「な、なんで、あんたがここに……?」
「じつは、先日二度目の不渡りを出しましてね。銀行のほうから今後の取引を停止するという宣告を受けました。どうやら水野さんのおかげで、めでたく倒産することになりそうです。そこで、ぜひともそのお礼がしたいと思いましてね、こうして帰ってくるのを待っていたのですよ」
わずかな沈黙をおいて、男はポケットから手を出した。
その手には、一本の果物ナイフが握られていた。
「お、おい……!」
「フフフ。一緒に地獄へ行きましょうか、水野さん」
一瞬後、男の手の果物ナイフがエレベーター内に一閃した。
†
「……ここだな」
半袖のポロシャツにジーンズ。それに野球帽にマスク姿という格好の北村がその場所にやってきたのは、深夜一時のことであった。
ここは新宿区某所。北村は今、その一画に建つ「ダイアモンド・パレス」というマンションの前にいた。ここにあの水野は一人で住んでいるのだが、今宵、北村はある覚悟とともにこの場所を訪れていた。
水野を殺す、という覚悟とともに……。
あの日、恵美と別れるように脅迫され、一度はその要求を受け入れることを決めた北村であったのだが、
「父が次の人事で社長になったときにね、俊彦さんを役員秘書室に転属させるつもりなんですって。驚いた?」
という恵美からの仰天情報に、考えを一転させたのだ。
役員秘書室といえば社内屈指のエリート部署。まさに栄転であるが、それはあくまでも恵美との関係が前提となっている話。恵美と別れれば、当然転属の話も消滅するのは明らか。それゆえ、
「殺すしかない。水野も殺すしかない!」
と、北村は覚悟を決めたのである。
ジーンズのポケットに折りたたみ式のナイフがあることを確認すると、北村はマンションの中に入っていった。
防犯カメラに顔が映らないように下向きで歩きつつ、エントランスのエレベーターに乗りこもうとしたのだが、その扉が開いた瞬間、北村は心臓が止まるほどの衝撃をうけた。
それも当然で、エレベーターの中で水野が血まみれで倒れていたのだ。
「み、み、水野……!?」
エレベーター内は一面が血の海。そこの床に両目をかっと見開いた状態で倒れている水野がすでに死んでいるのは明白だった。
現実のこととは思えないその光景に思考停止状態の北村。だがふと視線を動かしたとき、エレベーター内に一本の鍵が落ちていることに気づいた。
「も、もしかしてこの鍵は……?」
水野のものじゃないのか? 直感的にそれを確信した北村はすばやく鍵を拾い上げると、エレベーターを飛び出して階段を駆けあがっていった。
思ったとおり、鍵は水野の部屋のものだった。
周囲に人の気配がないことを確認し、すばやくドアを開けて中に入ると、北村は持参した軍手をはめて家捜しを始めた。
いったい誰が、何のために水野を殺したのかは知らないが、そんなことは北村には関係のないことだった。
北村にとって重要なのは、水野が死んだ今、あとは問題のデジカメを手に入れればすべてが解決するということだ。
香織の件で怯える必要もなくなり、恵美を諦める必要もなくなり、相澤専務の後ろ盾も失わずにすむのだ。
「よし、絶対に見つけてやる!」
鼻息荒く意気ごむ北村。その意気ごみが運を引き寄せたのか、家捜しを始めて五分とたたないうちに北村は目的のものを発見した。
寝室のデスクの上に置かれてあった一眼レフのデジカメを手にとり、再生してみる。ほどなく液晶画面に画像があらわれた。香織と一緒にマンションに入っていく自分の画像が。
「ま、間違いない。このデジカメだ」
安堵の息を漏らした瞬間、北村はへなへなと床に崩れ落ちた。緊張の糸が切れたせいか、その場に座りこんだまま動かない。だが、それも長いことではなかった。
「……ま、待てよ?」
にわかに北村は立ちあがった。ある重大なことに気づいたのだ。
香織のときは室内ということもあり、事件がすぐに発覚する恐れはなかった。
しかし、水野が今血まみれで倒れているのは、誰もが利用するエレベーターの中である。発見されるのは時間の問題であろうし、否、すでに誰かが発見して、警察に通報しているかもしれない。
むろん北村が殺したわけではないが、被害者の部屋にいるところを見られたら、警察でなくとも北村が水野殺害の犯人だと断定するだろう。それを考えれば、一刻も早くここから消えなくてはならないのだ。
そのような状況にもかかわらず、北村の足がその場から離れることはなかった。
水野の性格を知る北村の脳裏に、ある懸念が浮かんだのだ。
なにしろ用心深さにかけては、人後におちぬ水野のこと。
「北村の奴。写真を渡したらもう怖いものなしとばかりに計画を恵美にチクって、すべてを台無しにするかもしれん。ここはやはり、奴を暴走させないための保険をかけておくべきだな」
などと考えて、画像を記録したCDやSDカード、もしくはプリントした写真なりがどこかに隠されてあるかもしれない。もしそうなら、このデジカメだけ持ち帰ってもなんの意味もないのだ。
そう考えた北村は、ためらいつつも家捜しを続けた。
駆けつけた警察と鉢あわせになる危険性はあったが、写真やCDが残されたままでは結局は同じこと。「来るなよ、絶対に来るなよ」と胸の中で念じながら、本棚や机の中、クローゼットやベッドの下など、室内の至る箇所を入念に探して回り、
「よし、他にはない!」
と、決断を下して北村がマンションから姿を消したのは、それから一時間後のことだった。
この間、幸運にも警察が駆けつけてくる気配は、微塵もなかったのである。
そして事件は、その日の昼のニュースで報じられた。
「では次のニュースです。今朝、新宿区のマンションのエレベーター内で、若い男性の刺殺体が発見されました。見つけたのは同じマンションに住む住人で……」
「で、でた!」
両目を見開き、北村はテレビ画面を凝視した。昨夜の衝撃で一睡もできず、その目は真っ赤に充血していた。
「警察の調べによりますと、殺害された男性はこのマンションに住む会社員の水野輝彦さん、二十七歳とわかりました。殺害された水野さんは……」
北村が安堵の息を漏らしたのは、アナウンサーが次の言葉を発したときだった。
「水野さんの所持品が盗られていないことから、警察は怨恨による犯行の疑いが強いとして、水野さんに仕事上や私生活でトラブルがなかったかどうか、関係者に事情を訊きながら捜査を進める方針です……ではお天気の情報です」
天気のニュースを見ることなく北村はテレビを消した。
報道を見るかぎりでは、どうやら水野は何者かの恨みをかい、そのせいで殺されたらしい。
「たしかに、まわりは敵だらけだったらしいからな、あいつは」
エリート意識が人一倍高く、傲慢かつ自分本位な性格で敵が多いという水野の評判は他部署に勤める北村の耳にも届いており、得心したようにうなずいた。
いずれにせよ、これで心配の種はすべてなくなった。
恵美との破局をもくろんだ香織は死に、その香織の件で脅迫してきた水野も何者かに殺された。自分の幸せを妨害しようとした不届きな連中が、こぞって消えたのだ。
この運の強さはどうだろうか。きっと自分は、大いなる守護天使によって守られているにちがいない。
つまり一連の事件は、『悪い奴は消しておきましたからね』というその守護天使による計らいなのであろう……。
カーテンを開けて北村はベランダに出た。
一番に視界に入ってきた太陽はすでに真上にあり、ぎらつくような光を地上に放射している。
どうやら今日も、暑い一日になりそうだった。