第一話
王都アルヴェインには、雨がよく降った。
白い城壁を伝った雨は黒い石畳へ流れ、道の両脇に細い川をつくっている。市場では商人たちが濡れた天幕を畳み、売れ残った果物や魚を木箱へ戻していた。馬車は泥水を跳ね上げ、店先の看板は風に揺れている。
昼を過ぎたばかりだというのに、空は夕暮れのように暗かった。
北城壁の見張り台に、ひとりの青年が立っていた。
レオン・アーヴェル。
二十歳の彼は王国騎士団に所属し、濡れた黒髪を払いながら、城壁の外に広がる森を見つめていた。
森の向こうには、三百年前に滅びた魔王の城がある。
そこへ続く道はなく、森は一年中、濃い霧に覆われていた。地図にはただ「立入禁止区域」と記されている。
「また見ているのか」
背後から声がした。
赤毛の青年騎士、ハルトだった。レオンとは同期であり、訓練所にいた頃から何度も隣に立ってきた友人でもある。
「何が気になるんだ?」
「理由はない。ただ、あの森を見ていると……何かを忘れている気がする」
「忘れていることを思い出そうとするな。ろくなことにならない」
ハルトは苦笑し、森へ目を向けた。
「それに、今日は妙だ。鳥の声がしない」
風の音と雨音だけが、城壁の上を通り過ぎる。
そのとき、王都中に鐘が響いた。
ゴォン――。
地下から鳴っているような、重く濁った音だった。
レオンが振り返る。
「正午の鐘じゃない」
二度目の音が響く。
ゴォン――。
直後、王都中央の広場で大地が裂けた。
石畳が盛り上がり、噴水が砕ける。細い亀裂は瞬く間に広がり、地面の下から底の見えない闇が現れた。
市場にいた人々が一斉に逃げ出す。
「レオン、行くぞ!」
ハルトが叫び、階段を駆け下りた。
レオンも後を追った。
闇の中から、白い手が伸びてくる。
続いて現れたのは、錆びた鎧をまとった死者だった。兜の隙間から青い炎を漏らし、古びた剣を握っている。
一体、二体、十体。
死者の兵士たちは広場へ這い上がると、逃げ惑う人々へ襲いかかった。
小さな男の子が足をもつれさせ、石畳に倒れた。
その頭上で骸骨兵が剣を振り上げる。
レオンは走った。
腰の剣を抜く。
その剣は、幼い頃に焼け落ちた故郷で拾ったものだった。柄には見たことのない紋章が刻まれ、誰が握っても持ち上げられないほど重い。
ただ、レオンだけは使うことができた。
刃の紋章が青白く輝く。
空中の雨粒が凍りつき、無数の小さな結晶となって浮かんだ。
レオンは骸骨兵の剣を受け流し、胸当てを斬り裂いた。
死者の身体から黒い煙が噴き出し、崩れ落ちる。
「大丈夫か!」
レオンは少年を抱き起こし、近くの店の軒下へ押し込んだ。
「そこから動くな!」
少年が震えながらうなずく。
次の瞬間、白い炎が死者の群れを薙ぎ払った。
炎は雨の中でも消えず、骸骨兵だけを焼き尽くしていく。
「遅いよ、騎士さん」
声に振り向くと、赤い髪の少女が市場の石柱の上に立っていた。
濡れた髪が頬に張りつき、右手には白炎が渦巻いている。
少女は軽やかに飛び降り、炎をまとった手を死者へ向けた。
白い火柱が上がる。
炎に包まれた骸骨兵は、音もなく消えた。
「君がやったのか?」
「見ればわかるでしょ」
少女は燃え残った炎を、息を吸うように胸へ取り込んだ。
レオンは目を疑った。
「今、炎を……」
「勝手に入ってきただけ。私はミラ」
そのとき、広場の中央で地面が大きく沈んだ。
黒い裂け目の奥から、巨大な騎士が立ち上がる。
三メートルを超える黒い鎧。肩からは四本の腕が伸び、それぞれが大剣、槍、鎖鎌、黒い棒を握っていた。
兜の奥で、紫色の光が灯る。
『星を探せ』
声が、頭の内側へ響いた。
『八つの星が揃う前に、灰冠を戴け』
レオンの胸に、燃える村の光景がよぎった。
炎の中で、誰かが幼い彼の手に剣を握らせている。
――お前は、最後のひとりではない。
「レオン!」
ミラの声で、彼は我に返った。
黒い騎士の大剣が振り下ろされる。
レオンは剣で受け止めた。衝撃で足元の石が砕け、腕が痺れる。
槍が続けて突き出された。
避けきれない。
その瞬間、ハルトが割り込んだ。
盾で槍を受け止めたが、衝撃で地面を滑り、肩を深く切り裂かれる。
「ハルト!」
「俺はまだ動ける!」
ハルトは血の滲む肩を押さえながら立ち上がった。
「それに、こんな化け物を前にして逃げたら、同期の名折れだろ」
レオンは剣を握り直した。
ミラが両手を広げる。
「今度は私が合わせる!」
白炎が巨大な鳥の形へ変わり、翼を広げた。
レオンは剣を地面へ突き立てる。
氷が広がり、黒い騎士の足を捕らえた。
鎖鎌が振るわれる。
レオンは鎖を斬り落とし、ミラの炎が黒い騎士へ突撃した。
炎と氷が混ざり合い、青白い竜となって鎧を噛み砕く。
黒い騎士の兜が割れた。
そこに顔はなかった。
底のない夜だけが広がっている。
『ひとつ目の星を見つけた』
黒い騎士の身体が灰へ変わっていく。
『残る七つは、まだ眠っている』
最後に、一枚の黒い羽根が舞い落ちた。
羽根がレオンの剣に触れると、銀の紋章の隣に小さな光が灯った。
同時に、レオンの脳裏へ見知らぬ景色が映る。
雪原。
赤い月。
灰色の王冠を戴いた城。
その前に立つ、七人の人影。
そのうちのひとりが振り返る。
黄金の瞳が、まっすぐレオンを見つめた。
次の瞬間、光景は消えた。
黒い裂け目も消え、広場には倒れた兵士たちと、崩れた噴水だけが残った。
ミラが息を切らしながら隣へ来る。
「さっきの声、聞こえた?」
「ああ」
「八つの星って、何のことだと思う?」
レオンは答えず、剣を見つめた。
その刃に浮かぶ光は、夜明け前の空に残る星のように淡く輝いている。
城壁の外、濃霧に包まれた森の奥で、鐘が鳴った。
ゴォン――。
そして同じ頃。
遠く離れた七つの場所で、眠っていた者たちが目を覚ました。




