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人間は、生まれた瞬間に「卵」をひとつ与えられるらしい。
それは目には見えない。手で触れることもできない。ただ確かに存在していて、その人の内側のどこかに、静かに眠っている。
「才能の卵」と呼ばれていた。
だがほとんどの人間は、それを孵すことなく一生を終える。
理由は簡単だ。卵の存在を知らないまま死ぬか、知っても扱い方を知らないか、あるいは怖くて触れられないか。いずれにせよ、多くの卵は殻の中で腐っていく。
一方で、ごく一部の人間だけがそれを孵化させる。
彼らは自分の中にある何かに気づき、執拗に掘り続け、時に壊れながらも殻を割る。そして中から現れた「何か」を武器にして、世界に名を刻む。
富と名声。
それは、孵化に成功した者への報酬のようなものだった。
例えばコンビニでレジを打っている男。
もし、あの指がピアノに触れていたら。
世界中が知る曲を生み出していたかもしれない。
公園で子どもとキャッチボールをしている父親。
もし、あの腕が本気で振られていたら。
スタジアムを沸かせる投手になっていたかもしれない。
光が当たる場所にあった卵は、自然と温まる。
だが、暗い場所に置かれた卵は
存在すら気づかれない。
踏まれることもある。
忘れられることもある。
そして、そのまま終わる。
運が良かっただけだ、と言われれば否定はできない。
いい環境にいたやつが、たまたま触れただけ。
たまたま続けられただけ。
たまたま、折れなかっただけ。
でも、それで片付けるには
あまりにも差が大きすぎる。
あいつも、こいつも、
本当は何かを持っていた。
ただ——
孵らなかっただけだ。
俺が「卵」の存在を知ったのは、33歳のある夜だった。
仕事帰り、コンビニの前で缶コーヒーを飲んでいた時だ。隣にいたボロボロの老人が、唐突に言った。
「お前、まだ卵を持ってるな」
意味がわからなかった。
無視しようとしたが、老人は笑いながら続けた。
「安心しろ。ほとんどの人間は気づかないまま終わる。お前はまだマシだ」
「…何の話だよ」
「才能の卵だよ」
その言葉を聞いた瞬間、なぜか背筋がゾワッとした。
才能の卵?聞いたことがない。
(……なんだこれ)
何かの冗談なら、笑い飛ばせばいい。
それだけの話のはずなのに、できない。
一瞬、言葉を探す。
その間、感情を隠すように苦笑いを浮かべることしかできない。
老人はポケットから、小さな黒い球体を取り出した。卵というより、炭の塊みたいなそれは、不気味な光沢を放っていた。
「これはな、“使える卵”だ」
「は?」
「これを使えば、自分の才能がわかる。正確には、“何をすれば卵が孵るか”がな」
俺は思わず笑った。
怪しすぎる。詐欺か宗教か、どっちにしてもろくなもんじゃない。
だが、なぜか目が離せなかった。
「いくらだよ」
気づけば、そう聞いていた。
老人はニヤリと笑った。
「タダだ。ただし条件がある」
「なんだよ」
「またここに来い」
「・・・それだけか?」
「ああ。それだけだ」
意味がわからない。
だが、その時の俺は、なぜかどうでもよかった。
どうせ平凡な人生だ。多少壊れても変わらない。
「いいよ、くれ」
老人は背を向けた。
「使ったら、後戻りはできない」
やけに近くで聞こえた。
思わず視線を逸らす。
ほんの一瞬だった。
もう、そこには誰もいなかった。
手の中には、黒い卵だけが残っていた。
⸻
その夜、家に帰ってすぐに卵を使った。
使い方は簡単だった。手のひらに乗せて、強く握るだけ。
「自分の才能を知りたい」と念じながら。
すると、卵はゆっくりと溶けて、皮膚の中に染み込んでいった。
その瞬間、頭の奥に何かが流れ込んできた。
映像、感覚、理解。
一瞬で理解した。
俺の才能は――
「観察」
だった。
何かを作るでも、壊すでもない。ただ、見る。徹底的に見る。人間の癖、感情の揺れ、言葉の裏。
それを正確に読み取る力。
地味すぎる。
正直、ハズレだと思った。
だが、その感覚は異常だった。まるで世界がスローモーションになったみたいに、人の仕草一つ一つが意味を持って見えた。
会社でもすぐに変化が出た。
上司の機嫌、同僚の嘘、取引先の本音。
全部、手に取るようにわかる。
最初は気味が悪かったが、すぐに「使い方」が見えてきた。
交渉で有利に立つ。人を動かす。評価を上げる。
気づけば、俺は昇進していた。
さらに数年後、独立した。
人の心理を読む能力は、ビジネスでは武器になる。コンサル、投資、交渉――どこでも通用した。
金は勝手に増えた。
名声も、後からついてきた。
⸻
だが、ある日気づいた。
鏡に映る自分の目が、妙に冷たいことに。
人を見るたびに、無意識に分析している。
笑顔の裏、言葉の裏、すべてを暴こうとする。
純粋に人と関わることが、できなくなっていた。
そして、理解した。
あの老人の言葉の意味を。
「後戻りはできない」
才能を知るということは、それに縛られるということだった。
卵を孵した瞬間、人は“それ”として生きることになる。
選択ではなく、強制だ。
⸻
ある夜、またあのコンビニの前に行った。
老人は、同じ場所に座っていた。
「どうだ、孵ったか」
俺は黙って頷いた。
「成功した顔だな」
「なあ」
俺は聞いた。
「これ、元に戻せるのか」
老人は少しだけ考えて、首を振った。
「無理だな。殻は割れたら終わりだ」
「そうか」
「でもな」
老人は少し笑った。
「もう一つだけ、選択はある」
「なんだよ」
「その才能で、何を見るかだ」
⸻
帰り道、夜空を見上げた。
空は、やけに広かった。
世の中には、まだ孵っていない卵が無数にある。
腐っていくものもあれば、いつか割れるものもある。
そして俺は、もう戻れない。
それでも――
この目で、何を見るかくらいは、自分で決められる。
そう思った。




