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海に沈む学校―地震で孤立した孤島の学校。夜になると校内放送が告げる──「今日の欠席者は一名」。  作者: 妙原奇天


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第9話「深度」

 地鳴りは、もう驚きではなくなっていた。


 それでも、その朝の音は、これまでと違っていた。腹の底をこすられるような低い振動が、長く長く続いたのだ。屋上の床がわずかに波打ち、積み上げていた机の脚がかたかたと鳴る。


 「外縁が、落ちた音だと思う」


 氷見斎が、潮位ノートと一緒に持ち歩いていた地形図を広げながら言った。


 「この島、だいたいドーナツみたいな形してるんだよ。真ん中に高台と学校、その周りに低い集落と港。今の揺れ方だと、多分、港側の“輪”が崩れて、そのまま海に飲まれた」


 「港、もうだめってこと?」


 矢代空が、屋上の手すりから身を乗り出す。


 海は、昨日よりもさらに近かった。

 校舎の外壁のすぐ下まで、灰色の水が迫っている。

 少し目を凝らすと、かろうじて、校門の標柱の上端だけが、海面に白い線のように顔を出していた。


 あの場所から、毎朝通っていたはずだ。

 集団登校。遅刻ギリギリで駆け込んだ日。雨の日、傘をたたんだ場所。


 今はもう、水の下だ。


 「港は完全に沈んだ。船は戻れないし、桟橋ごと落ちてる可能性が高い」


 氷見の言葉は淡々としていた。


 「……つまり、外から誰かが来る道は、とっくに無くなってたってことだな」


 山城拓が、短くまとめる。


 誰も口に出さないが、「救助が遅れている」という言い訳は、その瞬間に消えた。


 遅れているのではない。

 そもそも、来られないのだ。


 「はい、そんなときこそ授業です」


 百瀬真帆が、意図的に明るい声を出した。


 屋上の教室。黒板の前に机を寄せ、今日はそこに大判のアルバムを広げている。

 古い写真帳。図書室の一番奥、鍵のかかった棚から見つかったものだ。


 「えー、本日の担当は社会科および図書学。テーマは、“この学校の過去”。今、海に沈みかけてる校舎が、どういうふうに増築されたか。見ておく価値はあるよ」


 アルバムの一枚目。

 まだコンクリートではない、木造の校舎の写真が貼られていた。背景には、今よりも低い防波堤と、穏やかな海。


 次のページに進むと、瓦礫と杭の写真。戦時中と書かれたキャプション。

 さらにページをめくると、今と同じ形に近いコンクリート校舎が立ち、その屋上には、丸い穴のようなものが写っている。


 「これ、防空壕の跡?」


 つぐみが身を乗り出す。


 「そう。昔は屋上に“防空監視所”があって、そこから空襲を見張って、サイレンと一緒に、この学校から島じゅうに『警報』と『出席状況』を無線で送ってた」


 真帆は、アルバムの端に印字された説明文を指でなぞる。


 「『本日の出席数、報告す』って通信記録、新聞記事にも残ってる。ここは昔からずっと、“声で守る場所”だったわけ。敵機から、火事から、津波から……いろんな“来るもの”に対して、声と数字で備える場所」


 「守るってさ」


 空が、苦い顔をする。


 「祈るってことと、どう違うんだろうな」


 「祈りは、“願うだけ”でも成立する。でも守るのは、多分、“手を動かす”とセットなんだと思う」


 真帆はアルバムを閉じた。


 「昔の人は、無線機組み立てて、アンテナ立てて、出席数を数えて、ちゃんとボタン押してた。今の私たちが鍵持って、マイク持って、ラミネート剥がして、ロープ結んでるみたいに」


 「だからさ」


 澪は、そこで口を開いた。


 みんなの視線が、一斉に集まる。

 言うと決めていた言葉が、喉の奥で少しだけ渋滞する。


 「その“守るための手を動かす”ってやつ、もう一段、深くまでやってみない?」


 「……深く?」


 律が眉をひそめる。


 「海の、深いところにあるやつ。床下の“声の橋”の、一番下流。校舎の外壁の下、水中に……穴があるんだと思う」


 言いながら、澪は手すりの向こうを見下ろした。


 灰色の水面。その下に、昨日、床下から見たケーブルの束が伸びているはずだ。

 床下のテープレコーダから、配電盤を経由して、海へ。

 海水を導体にして、島じゅうのスピーカへ。


 「床下で配線見たとき、律が言ってたよね。“海水が回路の一部になってる”って。つまり、どこかで海が回線に入り込んでる穴がある。そこを塞げば……声の橋の流れを変えられるかもしれない」


 「理屈としては、あり得る」


 律は、短く答えた。


 「ただし、問題が大きく二つ。ひとつは、海中作業そのものの危険。もうひとつは、その穴がどこにあるか、正確には分かっていないこと」


 「探るしかない」


 澪は、拳を握った。


 「床下で見たケーブルの出口、あの先を追えば、位置は絞り込めるはず。危険なのは分かってる。でも……」


 言葉を探す間もなく、空が割り込んだ。


 「潜るなら、俺も行く」


 「矢代……」


 「俺、水泳部だし。大会で海で泳いだこともある。潜水は素人だけど、息はそこそこ持つ」


 「もうひとり、ちゃんとしたの呼べるよ」


 真帆が口を挟んだ。


 「海斗。覚えてる? 三年の、元水泳部キャプテン。今、体育館の隅で後輩の指導してる」


 「あいつか」


 空の顔に、少しだけ明るい色が戻る。


 「頭悪そうに見えて、意外と冷静なやつ」


 「言い方」


 つぐみが突っ込む。


 「百瀬、あんたは?」


 山城が尋ねる。


 「行くよ」


 真帆は即答した。


 「図書委員は、図書室を守るだけが仕事じゃない。記録の出入口も見ないとね。海の中の“口”がどうなってるか、自分の目で見る価値はある」


 「じゃあ、潜るのは四人だ」


 山城は整理するように指を折った。


 「三崎、矢代、百瀬、それから海斗。……他は、屋上で待機。電源とロープと、救助体制を整えておく。氷見は潮と風を読む。律は……」


 「配線の図を最後まで描く」


 律はノートに目を落としたままうなずく。


 「どこからどこへ、何が繋がっているか。潜る前に“仮説の穴”を絞る必要がある」


                ◆


 午後。空がさらに重くなり、風がいったん弱まる。


 「今がチャンスだ」


 氷見が潮位ノートを指で弾いた。


 「満潮にはまだ時間がある。今潜れば、作業中に流される危険も少ない。ただし、長居はできない。……それと、深度は浅いけど、水温はかなり低い。耳抜きも気をつけて」


 「真冬の海で耳抜きとか、聞くだけで嫌だわ」


 空が顔をしかめる。


 理科準備室と体育倉庫からかき集めたのは、古いシュノーケルとゴーグル、救命胴衣、そして簡易のロープハーネス。

 本格的なダイビング装備なんてあるわけがない。

 だからこそ、無茶だと分かっている。


 それでも。


 「やめる?」


 真帆が何気ない口調で澪に問いかけた。


 澪は、首を横に振った。


 「行く。ここまで来たら、途中で怖がってばっかりいられない」


 階段を降りる。

 二階は完全に海の下で、鉄の手すりの途中から先は水に沈んでいた。

 一階に至っては、どこからどこまでが階段だったのか分からない。


 「ここから外に出るの、ちょっと楽しいよな」


 空が無理やり笑いながら言う。


 「学校の壁をよじ登って外に出られるなんて、今だけだぞ」


 「落ちたらそのまま沈むけどね」


 真帆がさらっと返す。


 校舎の外壁に沿って、避難用の古い鉄梯子が設置されていた。

 普段はあまり使われることのないそれが、今は唯一の海へのアクセスだった。


 「海斗」


 屋上から降りてきた長身の男子が、濡れた髪をかき上げながら歩み寄ってくる。

 逞しい肩、焼けた肌。夏のプールで何度も見た、あの背中。


 「呼ばれてきた。なに、海でターンでもする?」


 「ふざけてる余裕ある?」


 つぐみが呆れたように言う。


 「余裕なきゃ、潜れないでしょ。怖いときほど、ちょっとふざけるくらいでちょうどいいんだよ」


 海斗は、シュノーケルをくるくると指に回した。


「状況は聞いた。外壁のどこかに、ケーブルが出てる穴があって、そこから海水が配線に入り込んでる。俺たちはそこを塞ぎに行く。……釘打ち込みとか、初めてだけど」


 「泳ぎは任せた」


 空が拳を合わせる。


 「沈みそうになったら、お前にしがみつく」


 「お前、重いから先に言っとくな」


 短い笑いが交わされる。


 澪は、ゴーグルのバンドをきつく締めた。

 頬に食い込む感触。唇が乾く。


 「寒いときは、息、浅くしすぎないでね」


 つぐみが、澪の手を握った。


 「息が浅いと、余計に苦しくなるから。ゆっくり吐いて、ゆっくり吸う」


 「分かってる」


 分かっているけれど、怖いものは怖い。

 澪は、自分の喉の奥にあるその感情を、ぐっと飲み込んだ。


 「行くぞ」


 海斗が先に梯子を降りる。

 外壁に沿って、海面が近づいてくる。

 冷たい飛沫が頬に当たり、塩の匂いが強くなる。


 足が水に触れた瞬間、思わず息が詰まった。


 「つめ……」


 「入っちゃえば慣れる」


 海斗が、腰まで水に浸かりながら振り返る。


 「怖かったら、俺の足首つかんどけ。絶対離さないから」


 その言葉に、少しだけ安心する。


 全身が海に沈むと、世界は一瞬で変わった。


 音が消える。

 代わりに、自分の心臓の音と、泡の弾ける音だけがやけに大きくなる。

 水の冷たさが、一枚の膜みたいに肌を包む。


 ゴーグル越しに見えるのは、歪んだコンクリートの壁と、濁った光。

 海は完全に透明ではないが、近くのものは十分見える程度だ。


 「行くぞ」


 海斗が、水の中で指を二本立てて見せる。

 二階の床の高さあたりまで潜り、そこから外壁に沿って横に移動する。

 床下から見たケーブルの出口の位置を、律の描いた図と照らし合わせて覚えている。


 澪は、空の足首をつかんだ。

 空はその先で、海斗の腰のロープを握っている。

 四人分の命綱が、一列に繋がっていた。


 耳が、じわりと痛む。


 深度が変わるたび、鼓膜が内側から押されるような感覚。

 鼻をつまんで息を軽く吹き込むと、ポンと小さな音がして痛みが和らいだ。


 海の中の時間は、やたらと早く、そして遅く流れた。


 やがて、外壁の一部に、不自然な亀裂が見えた。


 そこだけコンクリートが欠け、一筋の黒い影が走っている。

 その隙間から、白い泡が細く漏れ出ていた。


 「ここだ」


 海斗が指差す。


 亀裂の奥から、ケーブルの束がのぞいている。

 床下で見た黄色い被覆。

 そこに海水が触れ、泡となって流れ出ている。


 息の続く限り、目を凝らす。

 亀裂の向こう側に、小さな空間がある。

 まるで、口を半開きにしている誰かの横顔のようだと、ふと思った。


 海斗が腰にぶら下げた工具入れから、太い楔を取り出す。

 樹脂を染み込ませた布を巻いた、それなりに重さのある金属だ。


 「支えてろ」


 空が、亀裂の縁に手を当てる。

 海斗は楔を押し込み、腰に巻いていたハンマーで叩いた。


 コン、コン、と、水の中でもはっきり分かる音が響く。

 亀裂がわずかに広がり、楔が奥へ沈んでいく。


 その瞬間だった。


 澪は、亀裂の暗闇の中で、“何か”が動くのを見た。


 目ではない。

 鼻でもない。

 唇だ。


 水の揺らぎの中で、輪郭だけがふっと浮かび上がる。

 薄く開いた唇。

 言葉にならない泡が、その間から零れ出ている。


 琴葉先輩だ、と思った。


 放送室で見た横顔と、黒板の前で笑っていた顔と、マイクの前で真剣になっていた表情が、全部重なって見えた。


 いや、違う。


 次の瞬間、その顔はゆらぎ、澪自身の顔に変わった。

 ゴーグル越しに見える自分の目。

 怖がっているような、泣きそうなような、笑おうとしているような中途半端な口元。


 唇が、声を出そうとして動く。


 けれど、水の中では、声にはならない。

 ただ、水泡がひとつ、ふたつ、亀裂の奥へ吸い込まれていくだけだ。


 息が、続かない。


 肺が焼けるように痛くなり、胸がぎゅうと縮んだ。

 もっと見ていたいのに、身体が悲鳴を上げている。


 「上がれ」


 海斗の手が、はっきりと合図を出した。


 楔は、十分な深さまで打ち込まれている。

 樹脂が亀裂の中で膨らみ、海水の流れを弱めている。


 それ以上ここに留まるのは、自殺に近い。


 澪は、亀裂の奥の“唇”から目を離し、空の足首を強く握り直した。


 水面に近づくにつれ、光が強くなる。

 肺の中に酸素がないはずなのに、頭の中が白くなっていく。


 水面を破った瞬間、世界が爆音を取り戻した。


 風の音。

 波の音。

 自分の咳と、誰かの叫び声。


 「澪、大丈夫か!」


 空が、肩をつかんで揺さぶる。


 「……っは……大丈夫。ちょっと、怖かったけど」


 咳き込みながら、空気をむさぼるように吸う。

 肺が痛い。でも、生きている。


 続いて、真帆と海斗も顔を出した。

 海斗はハンマーを握ったまま、息を整え、にやっと笑った。


 「楔、ぶっ刺してきた。あんだけ入れれば、そう簡単には抜けない」


 「ケーブルの周り、樹脂でかなり埋めた。海水の出入りは、確実に減ってるはず」


 真帆も頷いた。


 「声の橋の一番下を、狭くしたわけだ」


 梯子をよじ登りながら、澪はもう一度振り返った。


 海は、ただ灰色で、何も教えてはくれなかった。


                ◆


 屋上に戻ると、空気は一変していた。


 早乙女律が、震える手で配線図を握りしめている。

 制服の袖は濡れておらず、彼自身は海に入っていないのに、その頬は異様に青白かった。


 「どうだった」


 律の声は、いつもより少し高く聞こえた。


 「楔、効いたはず。海水の流れ、かなり弱まってた」


 空が答える。


 「完全に塞げたかどうかまでは分からないけど、さっきまでみたいに『海が好き放題出入りする穴』ではなくなってる」


 「そうか」


 律は、ほんの一瞬、息を吐いた。


 「なら、今夜の放送の“強さ”が変わるはずだ。あいつの声が弱くなっていれば……少なくとも、こっちが上書きする余地は広がる」


 「楔一本で、世界が変わるといいんだけど」


 真帆が、額の髪をタオルで拭きながら呟く。


 「変えるんだよ」


 山城がきっぱりと言った。


 「これでまだ、“欠席者は一名”って好き勝手に言われたら、もう殴り込みに行く場所がない。だったら、今夜で終わらせるしかない」


 その言葉に、屋上の空気がぴんと張り詰めた。


 「……終わらせる?」


 澪が聞き返す。


 「点呼を、こっち側のものとして終わらせる」


 山城は黒板のほうを振り向いた。


 「これまでずっと、あいつに先に言われてきた。“欠席者は一名”って。一日一日奪われ続けてきた。でも、楔を打って、声の橋の流れを弱めた。今夜、最後の“完全出席”に全部賭ける」


 「完全出席?」


 「名簿に書かれてない名前も、消えてしまった名前も、全部も込みで、だ」


 山城の目は、いつも以上に固かった。


 「思い出せない名前のためにも、呼べる名前を全部呼ぶ。呼んで、返事して、黒板に輪を二重に重ねる。……それでもなお、あいつが『一名』って言うなら、そのとき初めて、“誰も欠席していない世界は作れない”って事実を認める」


 「挑戦して、負けてからじゃないと、諦め方も決められないってやつだね」


 氷見が、ちいさく笑った。


 「そういうことだ」


 律も、珍しく同意した。


 「楔の効果は、今夜の満潮まで保てるはずだ。声の深度は、確実に浅くなってる。遠くで響いていたものが近くなってくる。……澪の声が届く範囲に」


 「だったら、やるしかない」


 澪は、マイクを見つめた。


 鍵束の冷たさが、ポケット越しに伝わってくる。

 長良教頭の最後の言葉。「点呼は、守れ」。

 琴葉先輩の声。「声は橋──あなたが向こうへ行くための」。


 どっちの言葉も、今は重なっている気がした。


                ◆


 夜。空は、久しぶりに晴れた。


 屋上の教室の上に、星が滲む。

 海から吹いてくる風は冷たいが、雨は降っていない。


 「星、ちゃんとあったんだ」


 誰かがぽつりと言う。


 「ずっと雲ばっかりだったからね」


 氷見が、嬉しそうに空を見上げた。


 「満潮は、あと一時間。放送の時間も、その少し前後に来るはず。……楔の効果が最大になるタイミングで、こっちから出席をぶつける」


 「電源、大丈夫?」


 澪が律に尋ねる。


 「昨日みたいに長時間は無理だ。バッテリの残量も、ケーブルの状態も、ギリギリだ。ただ、今日は“最後の一撃”に絞る。全員の出席を一周読み上げる間だけもてばいい」


 「ロープ、確認」


 空が、みんなの腰の結び目を順番に引く。


 屋上から落ちても、すぐに引き上げられるように。

 風に煽られても、誰も単独で飛ばされないように。


 黒板には、昼間のうちに全員の名前が書き直されていた。


 いつもの学年順ではなく、今夜は「屋上にいる順」。

 最初から最後まで、ひとつの輪のように並べた。


 真帆は、黒板の前に立ち、チョークを握りしめる。

 粉は湿り、指先は白と灰色に染まっていた。


 「行くよ」


 澪は、マイクを口元に持っていった。


 風が、かすかにマイクを叩く。

 星の光が、ビニールシートに反射して揺れる。


 スイッチを入れる。

 赤いランプが灯る。


 「本日の出席を、始めます」


 自分でそう宣言した瞬間、胸の奥にひとつ何かが灯った気がした。


 「一人目──」


 名前を呼ぶ。

 返事が返ってくる。


 「二人目──」


 また呼ぶ。

 また返事が返ってくる。


 屋上の空気が、少しずつ温かくなっていく。

 声が声を呼び、水の気配を押し下げていく。


 「三崎澪」


 自分の名前を呼ぶとき、澪はほんの少しだけ間を取った。


 「はい」


 はっきりと返事をする。

 マイクを通して、スピーカを通して、自分の声が自分に返ってくる。

 屋上の床の下、校舎の中、ひょっとすると海の底にも、波紋のように届いているかもしれない。


 出席番号が半分を超えたあたりで、不意に風が止んだ。


 ぴたり、と、本当に音が切れたように思えた。


 さっきまでビニールシートを揺らしていた風も、手すりを鳴らしていた風も、全部消える。

 代わりに、静寂が一気に深くなった。


 「……風、止まった?」


 空が小声で言う。


 「深度が変わった」


 氷見が呟いた。


 「音の、深さが」


 静けさの底から、遠い声が上がってくる。


 『欠席者は──』


 律が顔をしかめる。


 「楔のせいで、前より弱くなってる。けど、聞こえる」


 その通りだった。


 あの声は、確かに弱まっていた。

 昨日までのように、頭の中を直接叩くような強さはない。

 マイク越しの澪の声の方が、今ははっきりしている。


 それでも。


 『一名』


 その一言だけは、奇妙にはっきりと響いた。


 名前は、やっぱり言わない。


 でも、言葉の刃は、確かにどこかを切り取っていく。


 「……誰?」


 誰かが呟いた。


 黒板の前で、真帆の指が止まる。


 ある名前のところで、チョークの粉がふっと浮いた。

 雨も風もないのに、輪郭がじわりと滲む。


 「……待って。そこ、誰の名前?」


 つぐみが近づく。


 さっきまで、その場所には、確かに誰かの名前があった。

 でも今は、チョークの線がぼやけて、読み取りにくくなっている。


 「読める? これ」


 澪が問う。


 「……ううん」


 真帆は首を振った。


 「見覚えはある。何度も点呼で呼んだ。休み時間に本を借りに来た。そういう“気配”だけは残ってる。でも、字として読もうとすると、目が滑る」


 誰かの顔が、皆の心から、そっと滑り落ちていった。


 昨日までの欠落と違うのは、その場所にすでにひとつ青い輪があったことだ。

 それは、この数日で消された誰かの名前の跡。

 今、その輪の内側に、もうひとつ青い輪が重なっていく。


 青い粉が、二重の円を描く。

 外側と内側が重なり合い、少し濃い線になる。


 「……二回分、消されたってこと?」


 空が苦い声で言う。


「一度忘れられた名前の場所に、もう一度、誰かの“欠席”が重なってる」


 「誰かの居場所の“深度”を、増やしてるってことかもしれない」


 氷見が言った。


 「一回沈んだところに、さらに重しが載ってる。深く、深く、深いところへ」


 澪は、マイクを握りしめた。


 「全員、出席」


 もう一度、そう言おうとした。


 でも、喉の奥で言葉が詰まった。


 さっきまで笑っていた誰かの顔が、どうしても思い出せない。

 黒板の前の空白。

 青い二重の輪。

 その中に、名札のない誰かが、静かに沈んでいくような感覚。


 「……それでも、呼ぶ」


 自分に言い聞かせるように呟く。


 「そこにいるはずだった“誰か”も含めて、呼ぶ」


 マイクを握り直し、残りの名前を読み上げる。

 返事が続く。

 風は戻らないが、屋上の空気は最後まで途切れなかった。


 出席が終わったとき、星は少しだけにじんで見えた。


                ◆


 翌朝。


 潮位は、屋上に続く階段の踊り場に迫っていた。


 コンクリートの段差のすぐ下まで、海水が来ている。

 あと一段、二段で、屋上も「海の中」に含まれてしまう。


 「……あと一晩だな」


 山城が言う。


 「楔の効果も、バッテリも、人の気力も。全部、今夜が限界」


 「今日の昼間は、できるだけ普通に過ごそう」


 つぐみが提案した。


 「授業ごっこでも、トランプでもいい。泣くなら夜にまとめて泣けばいい」


 誰も笑わなかったが、誰も否定もしなかった。


 澪は、名簿のページを開いた。


 新しい欠落の場所。

 そこには、青い輪が二重に重なっていた。

 外側の薄い青と、内側の濃い青が、微妙に色を変えながら混ざり合っている。


 「深度、二」


 氷見が、ふざけ半分にそう呼んだ。


 「誰かの存在の深さが、二段階沈んでる。……三になったら、どうなるんだろうね」


 「三にはさせない」


 澪は、ページの端を軽く叩いた。


 「今夜、もう一度出席をとる。あの声が何を言っても、こっちはこっちで最後まで呼び続ける」


 「それで、負けたら?」


 真帆が静かに聞いた。


 澪は、少しだけ考えた。


 「負けたって、ちゃんと言える」


 そう答えた。


 「出席を守ろうとして負けた、って。……『最初から無理だった』って言うよりは、マシな気がする」


 ポケットの中で、鍵束が小さく鳴った。


 深度は、海の深さだけの話じゃない。

 忘れられることの深さ。

 名前を呼ぶことの深さ。

 声の届く距離の深さ。


 その全部が、今夜、ひとつの場所に集まる。


 あと一晩。


 澪は、屋上の教室を見渡した。


 机と椅子と黒板。

 青い空と灰色の海。

 そして、まだそこにいる全員の顔。


 出席は救い。

 欠席は海。

 声は橋。


 その橋が、どれだけ深い水の上にもかかるようにと願いながら、澪は、次の点呼の準備を始めた。

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