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海に沈む学校―地震で孤立した孤島の学校。夜になると校内放送が告げる──「今日の欠席者は一名」。  作者: 妙原奇天


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第8話「屋上の教室」

 屋上に、教室ができていく。


 階段を何往復もして、机を運び、椅子を運び、古い黒板を運ぶ。三階の廊下まで浸水した今、屋上はもう「避難場所」というより「学校の残り全部」だった。


 「そこ、もうちょい右。風で持ってかれる」


 矢代空が、黒板の端をつかんで押さえる。

 黒板は外壁にロープで括りつけられ、カン、カンとときどき寂しい音を立てていた。風が吹くたび、わずかに揺れて鳴く。


 「机、斜めになってるけど仕方ないね。海のほうに落ちないようにだけ注意」


 百瀬真帆が、屋上の床にうっすら溜まった水を見下ろしながら言う。

 校舎の傾きは、ここでもはっきり分かる。ビー玉を転がせば、やっぱり海側へと転がっていくに違いない。


 「ここを教室にするって、誰が言い出したんだっけ」


 澪が息を切らしながら机を置くと、氷見斎が手を挙げた。


 「僕。どうせなら最後まで“学校”でいたいかなって。体育館に雑魚寝してるだけより、絶対マシでしょ」


 「最後って勝手に決めない」


 つぐみが睨む。それにも氷見は肩をすくめるだけだった。


 机が十数台、ぱらぱらと並べられ、椅子がその後ろに置かれる。屋上の一角だけが、少しだけ「普通の教室」に見えてきた。


 「はい、そこ。先生席」


 空が持ち上げた教卓を、黒板の前にドンと置く。

 屋上のコンクリートに木の脚がぶつかって、乾いた音が響いた。


 「誰が先生やる?」


 「そりゃ、図書室担当のわたしからでしょ」


 真帆が、教卓の後ろに立った。

 胸元の名札はもう外してあるのに、その姿はやっぱり図書委員長そのものだ。


 「では一時間目、図書学。テーマは“本は沈むか、浮くか”。みなさん、教科書は心の中にあります」


 くすくすと笑いが起きる。

 風の音と、海の遠鳴りに混じって、その笑いは少し頼りないけれど、確かにそこにあった。


 「本は紙だから、基本的に水を吸って沈む。けど、ページの中に書かれたものは、どこまで沈むのか。……例えば今、図書室の本はほとんど水に浸かっちゃったけど、物語はどこまで生き残ると思う?」


 「心がちゃらい授業始まった」


 空が後ろの方から茶々を入れる。


 「じゃあ矢代くん、答えて」


 「え、指されるの?」


 「当たり前でしょ。授業中にしゃべった人から当てられるルールは、世界が沈んでも不滅です」


 真帆は、少しだけ笑ってから真顔に戻る。


 「私はね、誰かが覚えてる限りは沈まないと思う。紙が海に溶けても、誰かの中で“あのとき読んだ、あの一文”って思い出される限り、生きてる。名簿の名前も、たぶん同じ」


 澪は、胸のあたりがきゅっとなった。

 青い薄紙と、消えた行の縁に残った青い輪。

 あれもたぶん、沈み切らない何かの残りだった。


 「次、氷見くんの天文」


 「え、交代早くない?」


 「時間割詰まってるから。はい、チャイム鳴りました。次の先生」


 氷見は苦笑しながら教卓に立った。

 背後の空は曇っているが、そのずっと上にはちゃんと空があるはずだ。


 「じゃあ、今日の天文は“星が見えない夜空の授業”。今、雲で星は見えない。でも、この上にはいつも通り星がある。……だからって『見えないものを信じろ』とか言うつもりはないよ」


 「言いそうになってたけどね」


 つぐみが小声で突っ込む。


 氷見は肩をすくめた。


 「でも、潮の満ち引きにはちゃんと月が関わってる。さっき大潮って言ったけど、それだって月と太陽と地球の位置関係で決まってる。星のほうから見たら、たぶん海も僕らも、ちょっとした揺れにしか見えないんだろうね」


 「それ、励ましてる?」


 「半分はね。もう半分は、どうでもよくしてる」


 屋上にまた笑いが起きる。

 風にかき消されそうな笑い声。でも、そのたびに空気が少しだけ軽くなる。


 「次、物理担当」


 律が無理やり前へ押し出される。


 「俺?」


 「そう。先生、お願いします」


 生徒たちの視線が集まる。

 律は少しだけ戸惑った顔をしたが、すぐにいつもの理屈っぽい目に戻った。


 「じゃあ、“屋上の物理”。今、この校舎は少し傾いている。ビー玉が勝手に動くくらいには。これは、地盤沈降と水位上昇が合わさった結果だ。……で、重要なのは、傾いてても倒れてないってこと」


 「……それ、オチ?」


 空がまた笑う。


 「いや、まじめな話。完全にひっくり返るまでは、摩擦と構造で持ってる。俺たちも、重心がどっちかに偏れば簡単に倒れるけど、まだ踏ん張ってる。……だから、“まだ”ってやつをちゃんと使おうって話」


 「物理の授業で精神論するのやめてくれる?」


 真帆が肩を揺らす。


 「最後、水泳理論の先生」


 「待ってました」


 空は勢いよく立ち上がり、教卓の前に仁王立ちになった。


 「本日の水泳理論。“沈まないコツ”。以上です」


 「短っ」


 全員のツッコミが揃う。


 空は笑いながら続けた。


 「本当に言いたいのはさ。水の中で一番やっちゃいけないのって、慌ててバタバタすることなんだよ。焦るほど、余計に沈む。力抜いて、まず浮く。それから、どっちに向かうか決める。……今もたぶん、似たようなもんだろ」


 「だから今、授業ごっこなんてやってるんだよね」


 つぐみがぽつりと言った。


 「慌ててバタバタしても、海のほうが強い。だったら一度、呼吸整えたほうがいい」


 屋上の教室に、ひとときの“日常”が広がる。


 教卓の向こうで先生役が入れ替わり、黒板に意味のない図が描かれ、誰かの冗談に誰かが笑い、誰かがちゃんとノートを取ろうとして真帆に止められる。


 その全部が、澪には眩しく見えた。


 こんな状況でさえ、人は授業を始める。

 名を呼び、手を挙げ、くだらない話で笑う。

 それが、当たり前の「学校」だった。


 「……出席、取るか」


 教卓の後ろで、低い声がした。


 長良教頭だった。


 つぐみに肩を支えられながら、彼は屋上の教室に出てきていた。顔色は悪く、呼吸も浅い。それでも、目だけはしっかりしている。


 「先生、無理しないで」


 澪が立ち上がると、長良は手で制した。


 「最後くらい、仕事させろ。教頭の役目は、出席確認だからな」


 つぐみが差し出した点呼表を受け取り、長良は教卓の前に立った。

 屋上の風が、彼のジャージの裾を揺らす。


 「出席番号一番──」


 声は掠れている。

 けれど、しっかりと響いた。


 「はい!」


 一番の生徒が、屋上の空に向かって手を挙げる。


 「二番」


 「はい!」


 一人ひとりの名前が呼ばれ、返事が続く。

 いつも体育館で聞いていた声と違う。

 今は、返事の声がそのまま空のほうへと抜けていく。海ではなく、雲の向こうへ。


 「三崎」


 自分の番が来た。


 「はい!」


 澪は、いつもより少し大きな声で返事をした。

 胸の奥から押し上げるような声。

 屋上の手すりにぶつかり、そのまま空に散っていく。


 呼ばれない名前は、やっぱりどこかにあるはずだ。

 もう誰も思い出せない名前たち。

 けれど今は、その「空席」のことを考える隙間がないくらい、呼ばれる名前と返事のリズムが続いていく。


 長良の手が、紙の上を滑る。

 チェックを入れるたび、彼の顔は少しずつ疲れていく。

 それでも、最後の番号まできっちり呼んだ。


 「……以上。全員、出席」


 彼は紙を閉じ、ゆっくりと息を吐いた。


 「ありがとう、先生」


 誰かが言う。

 長良は、少し照れたように笑った。


 その笑顔を、澪は忘れないと思った。


                ◆


 午後。空が暗くなり始める頃、屋上の様子は変わり始めた。


 「排水、追いついてない」


 氷見が、屋上の片隅を指差した。

 排水口の周りに枯れ葉やゴミが詰まり、水たまりができている。


 「屋上まで水たまったら、洒落にならないんだけど」


 空が顔をしかめる。


 「海は下だけじゃない。上からも来る」


 氷見は空を見上げた。

 厚い雲が、島の上にゆっくりと集まり始めている。風も強くなってきた。遠くで雷のような音が聞こえた気もした。


 「ちょっとでも詰まり取ろう。バケツで掻き出して、流せるだけ流す」


 山城が号令をかける。

 生徒たちは手分けして、屋上の水を押し流し、排水口のゴミを取り除いていった。

 でも、空を覆う雲の厚さは、そう簡単には薄くならない。


 「これ、夜には確実に降ってくるね」


 真帆が、濡れた手を拭きながら呟く。


 「海だけじゃ足りなくて、空まで使うとか、ずるくない?」


 「ずるいけど、自然に文句言ってもね」


 律は、屋上の隅に並べたバッテリを見下ろした。


 理科準備室から運んだ大型バッテリが二台。

 さらに、教員駐車場に取り残されていた車から外したバッテリが一台。

 それらを慎重に並列で繋ぎ、インバータを噛ませ、放送設備用の電源に回す計画だ。


 「本当に大丈夫なの?」


 澪が尋ねる。


 「危険じゃないって言ったら嘘になる。でも、やるしかない」


 律は、ケーブルの接続を確認しながら答えた。


 「声の橋を逆手に取る。最後の夜、こっちから“出席の点呼”を全域に流し続ける。誰かが欠席を告げる前に、出席で満たす。……そのためには、放送を長時間維持できる電源が必要だ」


 「島じゅうのスピーカから、出席の声が聞こえたら、さすがに海だって黙るかもね」


 真帆が冗談めかして言う。


 「黙らなくてもいい。少なくとも、あいつの一言だけじゃ決めさせない。“欠席者は一名”なんて、一行で終わらせない」


 律の目は真剣だった。


 「危険なら、私がやる」


 澪が口を開いた。


 「鍵も放送も、もうずっと、私が一番近くにいたから。……最後も、ちゃんと近くにいたい」


 「三崎」


 山城が口を挟もうとして、長良の咳に遮られた。


 保健室代わりの教室から出てきた長良は、ドア枠に手をついて立っていた。

 つぐみが慌てて支える。


 「先生、動かないで」


 「……聞こえた。最後の夜とか、出席で満たすとか」


 長良は、眠そうな目で澪たちを見ていた。


 「いいじゃないか。学校らしくて」


 そう言って笑ったあと、しばらく咳き込む。

 つぐみが背中をさすり、薬を飲ませる。


 「先生」


 澪は、迷った末に言った。


 「もし……もし、何かあっても。最後まで出席、取りますから」


 長良は、少しだけ目を細めた。


 「それなら、安心だ」


 それが、彼との最後の会話になった。


                ◆


 夜。


 雨は、思っていたより静かに降り始めた。

 最初は細かな霧のような雨。だが、風が強まるにつれ、粒は大きくなり、屋上の床を叩き始める。


 屋上の教室には、ビニールシートとブルーシートが張られ、机や黒板を覆っていた。

 その下で、バッテリとケーブルが並び、インバータの小さなランプが点っている。


 「テスト、もう一回」


 律がスイッチを入れると、屋上の簡易スピーカが小さくハウリングを起こした。

 すぐにノイズが収まり、澪の手の中のマイクが生きた感触を伝えてくる。


 「大丈夫。音、出てる」


 澪は、マイクに向かって小さく「もしもし」と言ってみた。

 屋上のスピーカだけでなく、遠くのどこかからも、かすかに自分の声が聞こえた気がした。

 校舎の中。空き教室。浸水した廊下。誰もいない図書室。

 海水でショートしかけたスピーカたちが、まだかろうじて生きている。


 「そろそろ時間だ」


 氷見が潮位ノートを見ながら言う。


 「満潮と、いつもの放送のタイミングが、ほぼ重なる。今日が本当の意味での“最大”だ」


 長良教頭は、簡易ベッドの上に横たわっていた。

 つぐみが付き添っているが、その胸の上下は、さっきからほとんど動いていない。


 「先生」


 澪は、ベッドのそばにしゃがみ込んだ。


 「今夜、出席で満たしますから」


 長良は、うっすらと目を開けた。


 「鍵は……お前に」


 最初の夜と同じ言葉。

 教務室の柵の内側で、冷たい鍵束を渡されていた記憶が、鮮やかによみがえる。


 澪は、その手から滑り落ちそうになった鍵束を、両手で受け止めた。


 「はい」


 それだけ言うと、長良の指先から力が抜けた。


 つぐみが、そっと目を閉じさせる。

 屋上の雨音が、一瞬だけ遠くなった気がした。


 空は、黙ったまま拳を握りしめている。

 律は、表情を変えずにケーブルを握り直した。

 誰も泣き声を上げなかった。ただ、全員がそこにある喪失を、静かに受け止めた。


 「……行こう」


 澪は立ち上がった。


 「今夜、出席で満たす」


 彼女の声に、皆がうなずく。


 屋上の黒板には、すでに全員の名前がチョークで書かれていた。

 いつものように学年ごとに分けるのではなく、一つの大きなクラスのように、ずらりと並んでいる。


 雨で濡れた黒板でも消えにくいように、粉を押し付けるように太く書かれていた。輪郭は太く、線は重い。


 「準備はいいか」


 山城が問う。


 「電源、いける」


 律がうなずく。


 「潮位、今がピーク。あと少ししたら、ゆっくり引き始める」


 氷見がノートを閉じる。


 「ロープ、全員分結んだ。転んでも、飛ばされても、すぐ引っ張れる」


 空が、腰に巻かれたロープを叩く。


 「黒板、任せて」


 真帆がチョークと布を握りしめた。


 澪は、マイクを口元に寄せた。

 風がマイクに当たって、ボフッと低い音を立てる。

 雨粒が髪に当たり、頬を打つ。


 放送予定時刻。

 屋上の空気が、張り詰めた糸のように細くなる。


 「出席番号一番──」


 澪は、ゆっくりと読み上げた。


 屋上のスピーカから、自分の声が返ってくる。

 同時に、どこか遠くの教室の天井からも、小さく響くような気がした。


 「はい!」


 最初の生徒が返事をする。

 その声は、雨に打たれながらも、まっすぐ空へ向かって伸びていく。


 「二番」


 「はい!」


 雨音と風の唸りの中で、出席の声がリズムを刻む。

 屋上の空気が、少しずつ温かくなっていく。


 そのとき。


 ザザザ……。


 校舎の下から、別のノイズが立ち上がった。


 「来た」


 律が、電源ケーブルを強く握る。


 下の階。

 浸水した廊下と教室。

 床下の海水と絡み合った配線。

 そこを通って、あの声がまた喉をひとつにまとめようとしている。


 「欠席者は──」


 あの声が、低く、長く、這い上がってくる。


 「三番!」


 澪はかぶせた。


 「はい!」


 屋上の出席の声と、階下からの欠席の声が、校舎の中でぶつかり合う。

 壁が、床が、天井が、低く唸った。


 風が一段と強くなった。

 ビニールシートがはためき、ロープがきしむ。

 雨が斜めから叩きつけられてくる。


 「ケーブル、浮かせて!」


 律が叫ぶ。


 インバータにつながった太いケーブルを、皆で持ち上げる。

 水に触れれば、一気にショートする。

 バッテリの上に被せたブルーシートが、風に煽られながらも、ぎりぎりで持っている。


 「潮位、まだ高い! あと十分はピーク維持!」


 氷見が怒鳴るように叫ぶ。


 「四番!」


 澪は声を枯らしながら名前を読み続ける。


 「はい!」


 返事の声が重なるたび、出席のリズムが太くなる。

 雨脚が強まり、黒板の字がじわりと滲む。

 真帆は、その上からチョークを重ねてなぞる。タオルで水を拭き、粉を押し込む。指先は白く濡れ、痺れてきていた。


 「黒板、消させないから」


 彼女は誰にともなく呟き続けた。


 「欠席者は──」


 階下の声も、諦めない。

 何度も何度も立ち上がる。

 そのたびに、屋上の床がぐらりと揺れるような気がした。


 「五番!」


 「はい!」


 声と声が、空と海の上で交差する。


 長良教頭の名が来たとき、一瞬だけ澪は迷った。

 名簿の上から線が引かれた名前。

 でも、今この屋上に、その人はいない。


 それでも。


 「長良先生──」


 澪は、小さく付け加えるように呼んだ。


 誰からも返事はなかった。

 代わりに、風が一瞬だけ弱まり、雨がふっと軽くなった気がした。


 「……出席扱いでいいよね」


 空が小さく呟いた。


 「先生、ずっと点呼取っててくれたし」


 出席番号が終わりに近づく頃には、澪の声は掠れきっていた。

 呼吸をするたび、喉が焼けるように痛い。

 それでも、最後の番号まで読み上げた。


 「以上──全員、出席」


 その瞬間、屋上の照明が一度だけ強く光って、すぐに暗くなった。


 インバータのランプがちかちかと瞬き、やがて沈黙する。

 バッテリは、ほぼ使い切ったのだろう。


 校舎全体が、低く唸るような音を立てた。

 風が吹き抜け、雨が横なぐりに叩きつける。

 海の音と風の音と、どこかで崩れるような音が混ざり合う。


 欠席の声は、最後まで「一名」を言い切ることはなかった。


 ただ、喉の奥でくぐもったまま、波と一緒に引いていった。


                ◆


 翌朝。


 雨は上がっていた。


 雲の隙間から、薄い光が降りてくる。

 海は、さらに近い。校舎のすぐ下まで、水面が迫っているのが、屋上からでもはっきり分かった。


 「……あんま、きれいって言いたくないな」


 空が苦笑する。


 「でも、きれいだね」


 つぐみが素直に言う。


 屋上の手すりの向こうに広がる海は、静かで、光を反射して白く揺れていた。

 その静けさが、かえって不気味でもあり、優しくもあった。


 澪たちは、三階の仮図書室へ向かった。


 名簿を、確かめるために。


 青い薄紙を挟んだページをめくる。

 昨日までの欠損の近くに、また新しい欠落が生まれていた。


 「……やっぱり、止め切れてはいない」


 山城が低く言う。


 その言葉に、誰も反論できなかった。

 出席で満たそうとしても、潮は勝手に引いていく。欠席の数は、やはり増え続けている。


 「でも」


 真帆が、指をそっと縁に触れた。


 「見て。青い輪」


 澪も顔を近づける。


 新しい欠落の周囲には、これまででいちばん濃い青が残っていた。

 薄紙の繊維と、チョークの粉と、何か他のものが混じり合って、深い色になっている。


 「昨日も輪はあった。でも、ここまで濃くはなかった」


 氷見が呟く。


 「出席の声、黒板の粉、ラミネートの膜……全部が、ここに溜まってる感じがする」


 「上書きは、完全には無力じゃない」


 律が言った。


 「欠落は起きた。でも、その周りを囲む輪は確かに濃くなってる。……橋の向こう側まで届いた声が、何かを削り返してる」


 澪は、ページの端をそっと撫でた。


 誰の名前が失われたのかは、もう思い出せない。

 だけど、「誰かがここにいた」という形だけは、くっきりと残っている。


 青い輪の中に、昨日の夜の風と雨と声が、まだかすかに揺れている気がした。


 「屋上、どうする?」


 空が尋ねる。


 「とりあえず、今日もあそこで授業ごっこ続けよう。出席も、あそこでとる」


 澪は答えた。


 「名簿は、海に近い。でも、声は空に近い。……両方に橋をかけながら、最後まで出席とる」


 誰かが小さく笑った。

 誰かが、うなずいた。


 海は近い。

 屋上の床も、じきに水に触れるかもしれない。


 それでも、黒板に名前を書く余白はまだある。

 声を乗せる橋も、まだ折れてはいない。


 澪は、鍵束をポケットの中で握りしめた。


 長良から託されたもの。

 琴葉から教わったもの。

 そして、自分たちで選んだ「出席」の言葉。


 屋上の教室で、今日もまた、点呼の声が空へ向かって上がっていく。

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