第11話「海は出席」
朝、海は、あまりにも静かだった。
波の音はする。遠くで砕ける低い響きは、確かに耳に届く。けれど、怒鳴るでもなく、吠えるでもなく、ただ淡々と、息をするみたいに寄せては返しているだけだった。
屋上の床は、もう濡れていた。
夜のうちに潮位は淵を越え、コンクリートを薄く覆っている。澪たちが机と椅子で作った教室のうち、端の列の脚は、すでに水に半分沈んでいた。
黒板は、倒れていた。
外壁にロープで括りつけていたはずの板は、固定していた金具が外れたのか、うつ伏せに倒れ、その周囲に淡い白い粉を広げている。粉は水を吸い、青とも白ともつかない色で溶けていた。
「黒板、終わったな」
矢代空が、濡れたローファーのつま先で、そっと粉をつついた。
足元の水は、くるぶしの上まで来ている。冷たい。けれど、もう誰もそれを大げさには言わなかった。
「あまり蹴るな。最後のチョークだ」
百瀬真帆が、倒れた黒板を見下ろしながら言う。
「粉になったって、文字の残りかすだよ。無駄にしちゃもったいない」
「そう言っても、もう書く場所がないだろ。板ごと沈むぞ」
空が肩をすくめると、真帆は小さく笑った。
「書く場所がなくても、書いたこと自体は消えないよ。紙も粉も、けっこう頑固だから」
「また紙の味方してる」
久遠つぐみが、苦笑を漏らした。
誰も、澪の名前を出さない。出したら、何かが壊れてしまいそうで、言葉が喉で止まる。
その代わりに、誰もが動いていた。
山城拓は、名簿を抱えて立ち上がる。
最後のページ。
そこには、青い粉の輪がひとつだけ、濃く、濃く残っていた。
輪の中心は、すでに紙の繊維ごと失われている。誰の名前があったのか、もう思い出せない。けれど、その輪だけは涙の跡みたいにくっきりと、紙面に焼き付いていた。
「出席を取る」
山城は、いつものように宣言した。
声は震えていない。
代わりに、少しだけ低く、重くなっていた。
「一番」
屋上の空気が、その声を受け止める。
「はい」
返事。
少し遅れて、誰かの笑い声。
出席のリズムが動き出す。
そのころ、放送室では、別の静けさが始まっていた。
◆
放送室の窓は、まだ水に届いていない。
外壁のコンクリートが、ぎりぎりで海を受け止めている。硝子ごしに見える水面は、鈍い銀色で揺れ、時おり飛沫が窓を叩いた。
卓の上に、鍵束がある。
長良教頭が持っていたもの。
そして、最後に澪が握りしめていたもの。
今はもう、触れる手はない。
湿った空気のなかで、鍵束の鉄は少しずつ色を変え始めている。金属特有の艶が鈍り、ところどころに茶色い斑点が浮かぶ。
「……本当に、もう動かないんだな」
早乙女律が、ミキサの電源ランプを指で押しながら呟いた。
「電源を入れようとしても、反応しない。床下の回路も、ほとんど海に埋もれてる。昨日の“合成音”を最後に、この橋は切れた」
テープデッキのメーターも、沈黙したままだ。
何か音が入ればぴくりと動くはずの針は、ずっとゼロの位置を指している。
「それで、これが気になるわけ?」
真帆が、律の手元にあるカセットテープを指さした。
放送室の棚の奥、古い台本と録音テープが詰まった箱のなかに、それはあった。
白いラベルに、青いペンで、乱れた字が書かれている。
「出席は救い」
そして、その隅に、小さく「三崎」と署名があった。
「三崎が残したテープ……多分、最近録ったやつだ。ラベルに使ってるペンも新しいし、インクのにじみ方もほかと違う」
律は、テープデッキの蓋を開け、慎重にカセットをセットした。
電源は死んでいる。
だが、電池ボックスにはまだ乾電池が残っていた。床下のテープレコーダを回していたのと同じタイプ。
山城が屋上へ戻る前に、ここまで付き添ってくれた海斗が、その電池を見つけてきたのだ。
「動くかどうかは、やってみないと分からないけどな」
律は、テープデッキの再生ボタンを押した。
カチ、と小さな音。
ガリガリという巻き戻しの音に続いて、鈍い回転音がする。
そして、ふっと、声が流れ出した。
「……聞こえてる?」
澪の声だった。
少し息が上がっていて、どこか照れたような笑いが混じっている。
「えっと。出席は救い。欠席は海。これはずっと、そうだと思う。琴葉先輩も、長良先生も、島の昔の人も、そう信じてたんだろうし」
窓の外で、波が小さく跳ねた。
テープの中の澪は、少しだけ言葉を選ぶように間を置いた。
「でも、今はちょっとだけ、違う言い方もできる気がしてる」
律と真帆は、無意識のうちに息を詰めた。
「だって、欠席した人たちも、どこかにはいるはずで。名簿から消えても、紙から剥がれても、どこかの深いところで“いる”って信じたいし」
澪の声は、少し笑いそうになりながら、でも真剣だった。
「だから――出席は救い。欠席は海。でも」
そこで、テープに一瞬だけノイズが走る。
律の指が、無意識にボリュームを上げた。
「海も、出席」
短い、その一文。
意味は、分からない。
ただ、声だけはくっきりしていた。
海のノイズにも、テープの傷にも消されずに、その言葉だけが浮かび上がっている。
「……どういうことだよ」
空のいない放送室で、海斗がぽつりと呟いた。
「出席は救い。欠席は海。ここまでは分かる。じゃあ“海も出席”ってなんだよ」
「欠席した人間たちが、全部海のどこかに溜まってるって話なら……それはそれで救いじゃないかもだけど」
真帆が、テープデッキを見つめたまま言う。
「でも、“いる”ってことだけは確かになる。いないんじゃなくて、たまたまそこにいるだけってことになる」
「出席してる場所が、名簿や教室じゃなくて、たまたま水の向こう側なだけ、ってことか」
律の声は、普段より少し柔らかかった。
「どこにいるかは変わるけど、“いるかいないか”で言えば、全部“いる”。だから海も出席。三崎らしい屁理屈だ」
「屁理屈って言うな」
真帆が笑う。
「でも、信じたい屁理屈ってあるじゃん。理屈として完璧じゃなくても、心がそれを選びたがるときがある」
テープの中の澪は、まだ何か話していた。
「もし、聞いてるのが私じゃなかったら、ごめんね。これ、本当は自分用のメモだから。怖くなったときに、自分で聞く用のやつ」
少し照れた笑いが混じる。
「でも、もし誰かが聞いてくれてるなら、お願い。最後まで、出席とってて。名簿が海に浮いても、声だけは続けてて。……私がいなかったら、代わりに“澪も出席です”って言っといて」
そこで、テープは途切れた。
メーターの針が、静かにゼロへ戻る。
放送室に、長い静寂が落ちた。
「……意味、分かるような分かんないような、だな」
海斗が頭をかきむしる。
「分かってるふりしてると、あとで怒られそうなタイプのやつ」
「分からないまま信じていい言葉もある、って、さっき自分で言ったじゃない」
真帆が肩をすくめる。
「海も、出席。……全部沈むなら、それごと“いる”ってことにしちゃおう。少なくとも、そのほうが気が楽」
律はテープを取り出し、ラベルを見つめた。
青いインクで書かれた文字。
三崎、という署名。
「屋上に、持っていこう」
律は言った。
「あいつの声は、もう橋を渡り切った。だったら、残った言葉くらいは、こっち側で回してやらないと」
鍵束のそばにテープを置き、放送室を出る。
扉を閉めるとき、誰も振り返らなかった。
鍵は、開けたまま。
中の空気は、ゆっくりと錆を育てていく。
◆
昼になっても、海は静かなままだった。
光が変わった。
雲の隙間から差し込む陽光が、水面で跳ねる。
無数の光の粒が、鏡を砕いた破片みたいに弾け、校舎の窓を通って廊下に揺れる波紋を描いた。
三階の廊下は、まだ完全には沈んでいない。
壁の半分ほどまでが濡れ、そこから上はまだ乾いている。
壁に掛けられた写真がある。
歴代の卒業生。
運動会の一コマ。
文化祭の集合写真。
どの写真も、水に濡れ始めているのに、顔が滲んではいなかった。
色は少し落ちた。
紙も波打った。
それでも、笑っている口元も、ピースサインをする指も、はっきりと見て取れる。
「……消えないんだね」
つぐみが、写真を眺めながら言った。
「簡単には消えないよ」
真帆が、その隣で頷く。
「インクも、薬剤も、作ってる人たちがちゃんと“残るように”って考えて作ってるから。紙だって、そう」
名簿を開く。
最後のページ。
青い粉の輪は、じわりと広がっていた。
輪郭はまだ濃い。
けれど、その青は少しずつにじんで、ページ全体に薄く染みていく。
まるで、欠落の跡を隠すように、紙全体を守るように。
「これ、消えてるんじゃなくて、“覆ってる”よね」
氷見が、不思議そうに覗き込む。
「輪っかが広がって、ページそのものを青くしてる。穴を大きくするんじゃなくて、穴の周りを塗りつぶしてる感じ」
「海で薄まった塩が、最後は全部同じしょっぱさになるみたいに」
つぐみが、指先で紙を撫でた。
「誰がどこにいたかは分かんなくなっても、『ここに人たちがいた』ってことだけ、ページごと覚えてる」
放送は、鳴らない。
昨日までは、夜になるたび嫌でもあの声が響いた。
「欠席者は、一名」。
今は、スピーカは濡れたまま、ただ黙っている。
テープは止まり、針は静止した。
代わりに、風だけが校舎を吹き抜けている。
水面を渡ってきた風は、冷たい塩の匂いを運び、窓から入り、廊下を駆け抜け、屋上へ抜けていく。
◆
夕方、光は橙色に傾いた。
屋上の教室では、最後の点呼の準備が始まっていた。
倒れた黒板は、そのままにしておくしかない。
かわりに、壁際のコンクリートに直接チョークで名前を書いた。
水を吸いにくい冷たい石は、チョークの粉をはじく。
それでも、強く押しつけて書けば、白い線が残った。
「壁に落書きなんて、先生に見つかったら怒られるね」
つぐみが言うと、誰かが笑った。
「ここまで来たら、怒られたっていいだろ」
海斗が、柱に自分の名前を書きながら答える。
「どうせ、海に全部持ってかれるしな」
澪の席は、そのまま残されていた。
机の上に、青い栞が置いてある。
神野琴葉の筆跡で、「声は橋」と書かれていた。
その下に、見慣れた字が書き足されている。
「橋は人」
筆圧は強くない。
けれど、線は迷いなく伸びていた。
「……やっぱり、あんたはそう言うんだね」
真帆が、栞をそっと撫でる。
「橋は道じゃなくて、人。声を渡す人。本当にそう思ってたんだろうな」
「だったら今、ここにいる全員が橋だな」
山城が、ゆっくりと言った。
「出席を取る人も、返事をする人も、名前を呼ぶ人も。全部、どこかへつながる橋だ」
「橋、やたら多いね」
空が笑う。
「沈んでも、どっかに引っかかっててくれたらいいけど」
「引っかかるさ」
氷見は空を見上げる。
「星だって、ずっと上にあるのに、こうやって見えるんだから。声と名前くらい、どっかに引っかかっててもおかしくない」
全員が席につく。
水は、足首を越えて膝に届きかけている。
机の脚の下で、波が小さく揺れた。
山城が、名簿の最後のページを開いた。
「これが、最後の点呼だ」
誰も、異論を挟まなかった。
「読み上げるのは、俺がやる。でも――途中のひとつだけは、矢代。お前に任せたい」
「……澪のとこか」
空が、息を飲む。
「頼めるか」
「頼まれなくてもやるよ」
空は、少しだけ笑った。
「どうせ、ずっとそのつもりだったし」
夕陽が、海の向こうに傾いていく。
光は水に砕け、屋上の教室に赤い揺らぎを落とす。
最後の点呼が、始まる。
◆
夜。海は、校舎を呑み込み始めた。
潮位はさらに上がり、屋上の水は膝を越え、腰に迫る。
冷たい水が制服の裾を揺らし、机と椅子の脚を浮かせようとする。
それでも、誰も叫ばない。
山城が、名簿を胸に抱えたまま立ち上がる。
「出席をとる」
声はいつもと同じだった。
ただ、少しだけ張りがあった。
「一番」
「はい」
水の上で、声が跳ねる。
「二番」
「はい。三番も一緒に」
「三番」
「はい。四番もいます」
連鎖が回る。
名を呼ばれた者は、自分の名だけでなく、必ず誰かの名も一緒に口にする。
まだ呼ばれていない誰か。
もう呼ばれた誰か。
ここにいない誰か。
名前が紐のようにつながり、屋上の教室をぐるぐると回っていく。
ロープは、全員の腰を繋いでいた。
滑って倒れても、流されても、手が離れても、すぐに引き戻せるように。
でも今は、誰も立ち上がろうとはしない。
皆、水の中で膝を抱え、机に手をかけて座っていた。
息は白く、空は深い紺色で染まり、星がちりばめられている。
「……次」
山城は、最後のページの一番下を見た。
そこには、もう文字は残っていない。
青い粉の輪が、ページ全体に広がっているだけだ。
それでも、口は名前を覚えていた。
「三崎」
屋上の空気が、きゅっと縮まる。
空は、自然と立ち上がっていた。
水が腰まで跳ね上がり、制服が冷たく張り付く。
それでも、膝が震えるのも構わず、空は声を出した。
「はい」
少し間を置いて、もう一度。
「はい。三崎澪、出席」
それから、空は続けた。
「……あと、矢代空も出席」
笑いが、少しだけ生まれた。
「お前、自分で自分の名前呼ぶなよ」
海斗が水を跳ね上げながら言う。
「いいだろ。連鎖だよ、連鎖。澪から俺に回ってきたってことで」
「じゃあ次は俺も三崎の名前呼ぶ」
つぐみが微笑む。
「ていうか、全員で呼べばいいんじゃない?」
山城は一度だけ目を閉じ、息を吸った。
「……三崎」
もう一度、名字だけを呼ぶ。
水の音。風の音。心臓の音。
「せーの」
空が合図をした。
「澪、出席!」
屋上に、十数の声が重なる。
それは、澪の返事とは違う。
でも、その全部が確かに「はい」と同じ重さを持っていた。
海は、冷たく膝を抱く。
水面は、ゆっくりと上がり続ける。
机が浮き、椅子の脚が床から離れ、黒板代わりの壁の文字に波紋がかかる。
それでも、点呼は続いた。
「次」
「はい。あいつも出席」
誰かが、澪とは違う誰かの名前を呼ぶ。
呼ばれた誰かが、隣の誰かの名前を呼ぶ。
その名前を、さらに別の誰かが受け取り、返す。
声は、順番に、ゆっくりと、穏やかに重なっていく。
息が苦しくなっても、誰もやめようとはしない。
水が胸に届き、肩に届き、顎に触れる。
それでも、「出席」は途切れない。
最後の数人分の点呼は、ほとんど囁きのような声になっていた。
唇から離れた言葉は、すぐに水に溶ける。
それでも、波の下で、確かに誰かが「はい」と言った。
最後の一人まで、声は続いた。
「……以上」
山城は、なおも紙を握りしめたまま、かすれた声で言った。
「全員、出席」
その瞬間、屋上の教室を満たしていた何かが、すっと軽くなった気がした。
誰も叫ばなかった。
誰も泣き声を上げなかった。
ただ、全員が手を繋ぎ、ロープで結ばれたまま、星を見上げていた。
海が、冷たく、静かに、彼らを抱きしめた。
◆ エピローグ ◆
静かな海があった。
空は高く、雲は薄く、風は弱い。
波は、ただゆっくりと、決まったリズムで寄せては返している。
海の表面に、ごく小さな青い紙片が浮かんでいた。
どこから来たのかは分からない。
校舎の破片かもしれない。
ノートの切れ端かもしれない。
青い薄紙の一枚かもしれない。
紙片は、波間でくるくると回りながら、やがて静かに沈み始めた。
水が、青を包み込む。
光が弱まり、音が遠ざかる。
ある深さで、紙片はふっと開いた。
青い粉が、周囲の水に溶け出す。
薄い光を帯びて、ゆらゆらと揺れた。
紙に書かれた文字は、まだ読めた。
「出席は救い」
潮で角が丸くなった字が、それでもはっきりと残っている。
その周りに、小さな泡がいくつも弾けた。
上へ昇る泡、横へ流れる泡、すぐ傍で消える泡。
そのひとつひとつが、小さな声で何かを言っているように見えた。
聞き取れない。
聞き取れなくても、分かる。
それは、きっとこう言っている。
「はい」
海は、静かにそれを受け止める。
波の上でも、波の下でも、どこかで誰かが呼び、どこかで誰かが返事をしている。
出席は救い。
欠席は海。
そして、海もまた、出席だった。




