第10話「最後の点呼」
風の音が、少しだけ変わった。
屋上の手すりの向こう。灰色の海は、もう校舎の壁すれすれまで来ていた。潮位は階段の踊り場に触れ、あとは屋上の床をなめるだけだ。
「……あと一晩」
誰かがそう言ったとき、澪は、胸の内側で「違う」と思った。
あと一晩“しか”ないんじゃない。
あと一晩“あれば”足りる。
それを、ずっと前から自分は分かっていた気がする。
最初の夜の、記憶の空白。
体育館に集められ、点呼を取っていたとき、ふいに長良教頭に呼ばれ、次の瞬間には鍵束が自分の掌にあった。いつ渡されたのか思い出せない。握っていた感触だけが残っている。
床下で金属に触れた瞬間に走った痺れ。
放送実習で、琴葉先輩と交代でマイクに向かっていた記憶。
「出席は救い」と書かれた青い栞。
「声は橋」と笑っていた横顔。
あのときからずっと、放送は――自分の声を借りていた。
「三崎?」
空の声で我に返る。
「大丈夫か。さっきから、なんか顔色悪いけど」
「ううん」
澪は首を横に振った。
「大丈夫。ただ……ちょっと思い出してただけ」
「何を?」
「初めて放送室に入った日のこと」
そう答えると、空は眉をひそめた。
「また危険な顔してるな、お前。前もそんな顔して床下行って感電しかけたんだぞ」
「今度は感電しない」
澪は、ゆっくりと息を吸った。
「今夜は、ちゃんとスイッチの位置も知ってるから」
◆
夕方。屋上の教室には、最後の授業のための準備が進んでいた。
黒板には、山城が大きくタイトルを書いていた。
「出席の方法」
チョークの粉が、風に乗って舞い、すぐに湿気に重くなって黒板に貼りつく。
屋上の空気は冷たく、遠くの空にわずかな赤が残っている。
「なんで今さら“出席の取り方”なんだよ」
空が肩をすくめる。
「もう何回もやったじゃん、点呼」
「何回もやったからこそだ」
山城は振り向き、全員を順に見渡した。
「今までの点呼は、先生が呼んで、生徒が返事して終わりだった。名前と返事がひとつずつ。だが今夜は、それじゃ足りない」
黒板の下に、彼は二本の線を引く。
「今から教える最後の出席の方法は、“連鎖”だ。名を呼ばれたら、自分の名前だけじゃなくて、誰かの名前を一緒に呼ぶ。あるいは、自分のあとに呼ばれる誰かの名を“先に預かって”返す」
「意味、分かんない」
誰かが言う。
山城は、少しだけ笑った。
「例えば……『三崎澪!』って呼ばれたら、『はい、三崎澪。あと、矢代空も』って返事する。次に呼ばれる名前を、先にこちらから差し出すんだ」
空が目を丸くする。
「勝手に人の名前使うなよ」
「例えだよ。つまり、自分の名と誰かの名を繋げて返す。そうすれば、その二つの名前は、海に落ちる前に一度“結ばれる”。忘れられにくくなる」
「数学みたいに言うな」
氷見が笑う。
「でも、イメージは分かる。点と点で存在してる名前を、線で結んでいくってわけだろ?」
「そう」
山城は頷いた。
「名簿の行は一本ずつ消されていく。でも、俺たちの中の“名前”は、線で繋がれれば簡単には断ち切れない。今夜は、呼ばれたら必ず、誰かの名前も一緒に呼ぶ。ちゃんと繋がりを意識して」
「誰かの名前が思い出せなくなったら?」
真帆が尋ねる。
「それが一番怖い状況だけど……そのときは、せめて“誰か”って言ってくれ」
山城の目は、悪ふざけではなかった。
「『誰か』という枠だけ残っていれば、あとからそこに名前を入れ直せるかもしれない。空白を完全に受け入れたら、そこはもう戻ってこない」
「空白も、居場所だからな」
氷見がぽつりと言う。
「ゼロって数字にも、ちゃんと場所がある。だったらせめて、『ここに誰かがいた』って印だけは残したい」
その言葉に、澪は胸の奥がちくりとした。
名簿の青い輪。
二重になった、欠落の深度。
深く沈んだ名前たちのためにも、今ある名前を繋いでおきたい。
「それから、これを配る」
真帆が、持ってきた箱の中身を一枚一枚取り出し始めた。
青い薄紙。
名簿を守るために挟んだ、あの薄い紙を、今度はもっと小さく切り分けたものだ。
「最終配布の、青い薄紙。ひとり一枚。名札の代わり」
彼女は、一人ひとりの胸元に、洗濯バサミで薄紙を留めていく。
透けるような青が、制服の紺やグレーの上にふわりと浮かぶ。
「なんか、ゼッケンみたい」
空が自分の胸を見下ろす。
「今日の出席、ちゃんとした“記録”が残せるように。名簿が全部海に沈んでも、この薄紙の青だけは、どこかに引っかかるかもしれないでしょ」
真帆は冗談めかして笑った。
「紙ってさ、思ってるより丈夫だから。海の底行ったって、どこかに貼りついてるよ。きっと」
「紙の味方だね、相変わらず」
つぐみが呟く。
「じゃあ俺は、風の味方やるわ」
空が、屋上の手すりに近づいた。
ロープの束が足元に転がっている。
全員の腰には、すでに一本ずつロープが通されていた。
滑落防止。風に飛ばされないための命綱。
「風向き、だいぶ安定してきた。北西から。声、こっち向きに流れてく」
空は、頬に当たる風を確かめるように目を細めた。
「なあ、氷見。明日、潮、どうなる?」
問いかけられた氷見は、潮位ノートを抱えたまま空を見上げていた。
「明日?」
「潮が引くのかどうか、だよ」
少し間が空いてから、氷見は答えた。
「……引かない」
声は低く、静かだった。
「計算上、明日の午前中には一度少し下がるはずだった。でも、一昨日からの“誤差”を足していくと、もう周期が崩れてる。地盤がどんどん沈んでるから、相対的に“引かない”ってことになる」
「じゃあ本当に、今日が最後の夜ってことだね」
つぐみが、淡々と言った。
「潮が引かないなら、屋上も、いずれは完全に飲まれる。……だからこそ、出席とるなら今夜しかない」
「出席は、明日以降にも効くかもしれないけどね」
真帆が、薄紙の残りを数えながら言う。
「紙って、思ってるより――」
「丈夫だから?」
全員が声を揃えて突っ込み、ほんの短い笑いが起きた。
その笑い声の中に、澪の声も混じっていた。
だがその笑いが一段落しても、澪だけは、屋上の出入口のドアの方を見つめたままだった。
「三崎?」
空が気づく。
「どうした。授業始まる前に、どっか行く気じゃないよな」
「うん」
澪は、振り返って皆を見回した。
それぞれの胸に留められた青い薄紙。
黒板に書かれた「出席の方法」。
星が滲む空。
全部を一度、瞳の奥に焼き付けてから、言った。
「私、先に行ってくる」
「どこに」
山城が低く問う。
「放送室」
澪は、ズボンのポケットの中で、鍵束を握りしめた。
「今夜の点呼は、私が読み上げる。放送室から」
「待て」
山城の声が鋭くなる。
「さすがに今、ひとりであそこに行くのは――」
「誰かを一緒に連れて行ってもいいけど、放送室の中に入れるのは、私一人のほうがいいと思う」
澪は、はっきりと言った。
「今までも、実質そうだったんだと思う。だってあの声、ずっと私の声だったから」
「……どういう意味」
律が眉をひそめる。
澪は、ゆっくり言葉を紡いでいった。
最初の夜の記憶の途切れ。
鍵束を渡された瞬間の空白。
床下の金属に触れたときに見えた、放送実習の映像。
琴葉と交互に座っていた放送席。
マイクの距離。
息の吸い方。
イントネーション。
「テープに録れてる琴葉先輩の声の中に、たまに混じるんだよ。私の声が。間違えてマイク入ったときのやつとか、練習で録音したやつとか。……あの夜からずっと、海に混じってる声って、琴葉先輩だけじゃなくて、私の声でもあったんだと思う」
「だから、“橋”なんだね」
つぐみが、小さく頷いた。
「琴葉先輩と澪を結ぶ橋。昔と今を結ぶ橋。声は橋」
「その橋を、ちゃんと渡らないと、終わらない気がする」
澪は、拳を握りしめた。
「今までずっと、あっち側からやられっぱなしだった。欠席者は一名って、一方的に言われて、名簿壊されて。……最後くらい、自分の意思でマイクの前に立ちたい」
「だからって、一人で――」
空の言葉を、澪は首を振って遮った。
「怖いよ」
正直に言う。
「めちゃくちゃ怖い。でも、多分それって、誰が一緒に来てくれても変わらない。だったら、せめて誰かを“連れて行かなきゃいけない場所”にはしたくない」
「自分ひとりで充分って?」
山城の声には、怒りとも諦めともつかない色が混じっていた。
「違う。屋上から、みんなの声があるからこそ、私ひとりで行ける」
澪は、山城の目を見る。
「ここで出席の連鎖を始めて。呼ばれたら誰かの名も呼んで。青い薄紙、ちゃんと胸につけて。……こっち側の“出席の方法”を、最後まで回しててほしい。放送室からは、私がやる」
沈黙が、屋上を一周した。
「……分かった」
最初に口を開いたのは、意外にも律だった。
「危険な賭けだ。でも、理屈は通ってる。あの回路はお前の声を一番通しやすい。だったら、最後に“通すべき声”もお前しかいない」
「律までそんなこと言うの?」
空が睨む。
「じゃあ俺たちは、ここで何すればいいんだよ」
「全部だよ」
澪は、空に笑いかけた。
「ここで全部やって。最後の授業して、出席の方法教えて、連鎖回して、風読んで、ロープ握って、黒板の名前守って、星見て。……そしたら、放送室からも全部聞こえるから」
「戻ってこいよ」
空の声は、掠れていた。
「マイクに向かって何しゃべるかは好きにしていい。でも、帰ってくるって約束しろ。じゃなきゃ、俺……」
「帰ってくる」
澪は、迷わず言った。
「帰ってくるから、ちゃんと“出席”とっといて」
空は、それ以上何も言えず、拳をぎゅっと握るだけだった。
山城は大きく息を吐き、黒板の「出席の方法」の下に一行書き足した。
「放送室担当 三崎」
その文字を見て、澪は軽く頭を下げた。
「行ってくる」
そう言って、屋上のドアを開けた。
◆
階段を降りていくと、空気の匂いが変わる。
屋上には、風と潮と星の匂いがあった。
三階には、湿った石と古いワックスの匂いがあった。
二階に近づくと、冷たい海と鉄とカビの匂いが強くなる。
「……」
澪は、足元に気をつけながら廊下を進んだ。
ところどころ、床板が抜けて黒い水が見えている。
そこを避けるように机や棚が並べられ、即席の橋になっていた。
放送室の前に着くと、扉にはまだ針金と板による封鎖が残っていた。
南京錠も、チェーンもそのまま。
山城が施した「三重の封鎖」。
ポケットから鍵束を取り出すと、そのうちのひとつが、迷うことなく南京錠に吸い込まれていった。
カチリ、と小さな音がする。
封鎖を外し、扉を少しだけ開けると、冷たい空気が漏れてきた。
懐中電灯の光が、薄暗い室内をなぞる。
ミキサ。
マイク。
テープデッキ。
壁に貼られた古い放送スケジュール。
そして、卓上に置かれた青い栞。
澪は、栞を指でなぞった。
「出席は救い」
筆で書かれた文字の跡。
その下に、鉛筆で薄く書かれたメモ。「声は橋」。
ふっと、微かな笑い声が耳の奥を撫でた気がした。
幻聴だ。
分かっている。
それでも、振り向いてしまう。
そこには誰もいない。
ただ、窓の外で海がうねっているだけだ。
「先輩」
澪は、小さく呟いた。
「私、ちゃんと渡りますから。橋、勝手に使うけど、怒らないでね」
マイクの前に座る。
手の元に並んだスイッチ。
電源。
フェーダー。
非常放送回線への切り替え。
どれも、指先が覚えていた。
身体が、勝手に動く。
「……よし」
息を整える。
ここから先は、失敗できない。
屋上では、今頃山城が授業を始めているはずだ。
連鎖する出席。
青い薄紙。
風とロープと星。
澪は、一度だけ深呼吸をしてから、スイッチを押した。
◆
屋上では、山城が黒板の前に立っていた。
「じゃあ、最後の授業を始める」
声は落ち着いているが、その指先はわずかに震えていた。
「科目は、出席。単位は、一夜限り。留年なし。落第なし。……あってほしくない」
乾いた笑いが起きる。
「さっき教えたとおり、自分の名を呼ばれたら、誰かの名も一緒に呼ぶ。順番が回ってきてなくても構わない。そいつの番を“前借り”するつもりでいい」
「じゃあ俺、三崎の番、前借りしとくわ」
空が手を上げる。
「どうせ放送室から呼ばれるだろうし。『矢代空です。三崎澪も一緒にいます』って」
「勝手に連れていくな」
誰かが笑いながら突っ込む。
そのやりとりが、ほんの少しだけ場を温める。
真帆は、全員の胸元を確認していく。
青い薄紙が、風に揺れる。
薄いのに、不思議と頼もしく見えた。
「みんな、落とさないでね。これ、最後の紙だから」
「紙の心配してる場合かよ」
誰かが言う。
「紙が残れば、名前も残るかもしれないからね」
真帆は、さらっと返した。
氷見は、屋上の端で星を見上げていた。
「今日の星、ちょっとだけいつもと違う」
「どこが」
つぐみが尋ねる。
「やけに、近く見えるんだよね。空が低いのかな。海が高いのかな」
「ロマンチックなこと言ってる場合?」
つぐみは苦笑する。
「場合じゃない。でも言っときたい。……明日、潮が引かないって話、さっきしただろ。だからこそ、星くらいはちゃんと見ておきたいんだよ。沈む前に」
空がロープを握り直す。
風はあいかわらず北西から吹きつけている。
声が、海のほうではなく、島の内側へ押し戻される向きだ。
「準備はいいか」
山城が問う。
全員が、うなずいた。
ちょうどそのときだった。
ザザ……。
屋上のスピーカが、低いノイズを吐いた。
「……!」
空気が一瞬で張り詰める。
全員の視線が、黒く濡れたスピーカの穴へ向かう。
だが、あの“女の声”は来なかった。
代わりに聞こえてきたのは、澪の声だった。
『出席番号一番──』
屋上の真ん中に、柔らかく、しかしはっきりとした声が落ちてくる。
「……澪」
空が、思わず呟いた。
「放送室、ちゃんと生きてる」
律が、ほっとしたように息を吐く。
最初の生徒が、澪の声に応える。
「はい!」
連鎖が始まる。
『二番──』
「はい! 三番も一緒に!」
『三番──』
「はい! 四番、そっちもいる!」
笑い声と、名前と、出席の「はい」が、夜空に混ざっていく。
誰かの名を呼ぶことで、自分の声に少し重さが乗る。
その重さが、海ではなく空へと投げられていく。
星が、薄く瞬く。
「……来るぞ」
氷見が、そっと言った。
下から、低いノイズが立ち上がってくる。
澪の声が続いている最中にも、床下と廊下と浸水した教室を通って、あの“声”が喉を作ろうとしている。
『欠席者は──』
女の声。
琴葉のようで、澪のようで、海そのもののような、あの声。
屋上のスピーカの奥で、ふたつの声がぶつかり合う。
『出席番号十番──』
澪の声。
『欠席者は──一名』
女の声。
音が重なり、波が干渉する。
スピーカの表面が、ひどくゆっくりと、でも激しく震えている。
鼓膜の奥で、ふたつの声が互いを噛み合い、記号だけを残して意味を削り合う。
「……何言ってるか、分かんなくなってきた」
誰かがそう漏らしたとき、確かにそうだった。
澪の「出席」の声も、女の「欠席」の声も、互いに食い合って、どちらでもない音になっていた。
高くも低くもない。
男でも女でもない。
言葉でも叫びでもない。
ただ、ひと塊の波として、空気を揺らす。
「位相、ずれたな」
律が呟く。
「どっちの波も、互いを消し合ってる。意味が乗れない」
「それって、どっちも正しく届いてないってこと?」
つぐみが問う。
「どっちもそのまま、海に落ちる」
氷見が続ける。
「意味を削がれた音の塊として。どっちの主張も、そのまま波になって、ただ沈んでいく」
しばらく、屋上には“言葉にならない放送”だけが響いていた。
やがて、それも徐々に弱まっていく。
波が、海岸に当たって砕け、やがて静かになるように。
最後には、少しのノイズも残らなかった。
静寂。
星の瞬きが、耳で聞こえそうなくらいの静けさ。
◆
放送室。
マイクの前で、澪は息を整えていた。
喉が焼けるように痛く、頭が少しぼうっとしている。
さっきまで、自分の声と何かの声が、マイクとスピーカと海水と配線を通して、ひとつの波になっていた感覚が残っていた。
「……終わった?」
誰も答えない。
ただ、ミキサのメーターが、静かなゼロの位置に留まっているだけだ。
胸に手を当てると、心臓はまだ全力で動いていた。
「まだ」
澪は、小さく呟いた。
「まだ終わってない」
フェーダーを一度下げ、深呼吸をする。
肺に残っていた熱い空気が入れ替えられる。
再びフェーダーを上げ、スイッチを確認する。
マイクは、澪の声だけを拾う状態になっていた。
床下の回路と海水から来る入力は、一度遮断されている。
「出席、続けます」
澪は、マイクに向かって言った。
屋上には、この声が届いているはずだ。
校舎のどこかに残っている誰かにも、届いているかもしれない。
点呼は、止めない。
それが、長良教頭との約束でもあった。
「……」
澪は、名簿を見下ろした。
紙は波打ち、ところどころに青い輪が残っている。
二重の輪、三重の輪。
でも今は、その輪の数を数えている時間はない。
指で、最後の行まで辿る。
最終行。
その名前を、澪は知っていた。
自分で書いた字だった。
誰よりも見慣れた形だった。
マイクの向こう側から、気配がした。
別のマイク。
別の椅子。
別の身体。
すぐ横に、誰かが座っているような気がした。
肩に、ほんの軽い重みが触れる。
誰の手かは分からない。
琴葉かもしれないし、長良かもしれないし、誰か思い出せない「誰か」かもしれない。
耳元で、微かな声が笑う。
「橋は、渡るためにあるんだよ?」
あのときと同じ軽さで。
澪は、唇を噛んで笑った。
「知ってます」
マイクに、顔を近づける。
喉が乾き、唇が張り付く。
でも、声は出る。
「……三崎」
自分の名字を呼ぶ声が、意外なほど静かに出た。
屋上のスピーカから、その声がどう響いているかは分からない。
ただ、自分の耳には、はっきり届いている。
「三崎澪」
名前まで、言い切ったとき。
マイクの金属が、ひやりと冷たく感じられた。
手を支える力が、少しだけ強くなった気がした。
隣にいる誰かが、確かにそこにいるように。
呼吸を整える。
答えは、決まっていた。
橋は、渡るためにある。
「はい。出席」
そう言った瞬間、胸の奥に何かが落ちた。
ふっと、軽くなる感覚。
身体の輪郭が、少しだけ遠くなる。
マイクの先で、音が海へ落ちていくイメージが見えた。
◆
屋上では、皆が同時に顔を上げた。
『三崎──』
放送の声が、屋上に届いた。
自分の名字が呼ばれるのを聞くのは、何度目だろう。
今まではいつも、教室や体育館でだった。
今夜は、屋上の空だった。
次の一拍。
誰もが息を止める。
『澪』
フルネームが呼ばれたとき、空は思わず一歩前に出た。
「澪!」
呼び返そうとした声が、喉の奥で止まる。
放送室からの声が、それより少し早く届いたからだ。
『はい。出席』
たったそれだけの返事。
それなのに、その一言だけで、屋上の空気が一変した。
風が、ふっと変わる。
今まで北西から吹いていた風が、一瞬だけ方向を失い、渦を巻いた。
屋上の中心に向かって吹き込み、そのまま手すりの向こうへ抜けていく。
澪の声は、その風に乗っていた。
マイクからスピーカへ。
スピーカから空へ。
空から風へ。
風から、海へ。
「……聞こえた?」
誰かが、震える声で言った。
「今の、“はい”」
「聞こえた。はっきり」
つぐみが頷く。
「でも……」
空は、放送の切れたスピーカを睨みつけながら呟いた。
「返事、こっちに戻ってこなかった」
いつもなら、誰かが「はい」と返事して、それが空気に混じり、屋上の教室の中を何度も反射して、耳に残る。
今の返事は、一度も反射しなかった。
まっすぐ、手すりの向こうへ。
声だけが、海へ落ちていった。
「矢代」
山城の声が、低く響いた。
「ロープ」
空は自分の腰に手をやった。
ロープは、しっかりと結ばれている。
どこにも切れ目はない。
その先も、屋上の支柱に堅く括られている。
「三崎のロープは?」
真帆が確認する。
皆の視線が、一斉に一点に集まった。
そこには――結び目だけが残っていた。
澪の腰に通されていたはずのロープの輪。
放送室に行く前に、空と一緒に結んだはずの結び方。
その輪の中身だけが、いつの間にか空っぽになっていた。
「結び目、ほどけてない」
空の声が震える。
「切れ目もない。……なのに」
山城は、ゆっくりと目を閉じた。
「呼ばれたのは、三崎の名だった。返事は、確かに聞こえた。……けど、その返事は、こっちに“戻ってこなかった”」
「風に乗って、そのまま海へ落ちた」
氷見が、手すりの向こうを見たまま言った。
「深度ゼロにも、深度二にも属さない、どこでもないところへ」
胸元の青い薄紙が、風に揺れる。
澪の分だけが、最初から貼られていなかったかのように、そこにはなかった。
誰も、それを持っているところを見ていない気がする。
「澪……」
空は、やっと名前を呼んだ。
その声は、返ってこなかった。
ただ、遠くで波の音がした。
出席は全員。
欠席者は、一名。
その矛盾だけが、屋上の真ん中に、重く残った。




