EP-EX1:案内人の苦悩
消毒液の臭いに羽虫が飛ぶような不快な機械音。長くいるのも気分が悪い。そんな部屋の中で木製のイスに座っている少年は、その場所から早く出たいと思った。
しかし、どうしても出られない。ドアには鍵が掛かっていないはずなのに、開けようという気力が起きない。
何故だろう、どうしてだろう。いろんな疑問が少年の脳裏に浮かぶ。しかし、どの疑問も一つとして解決策が出てこない。
なんだかけだるい。目の前にはよく分からない機械と、一人の人影が映る。何か言っているのだが、理解したそばから何を言っているか忘れてしまう。
「……今日も、一人殺さないと……」
誰かが殺される。やめてくれ、誰になるのか分からないが、殺さないでくれ。
少年の心の声は、まるで届かない。届いたとしても、恐らくその人影は頼みなど聞いてくれないだろう。
「……君達が悪いんだ……」
誰が悪いというのだろうか。分からない。こんなにも頑張っているのに。悪いのは自分たち? 悪いのは……
「……やめてよ、マスター……」
ようやく声に出すことができるようになった時には、少年の視界は暗く、黒く塗りつぶされていた。
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「ちょっとアマミヤ、いい加減起きなさいよ!」
暗闇の中で、女の声が聞こえる。そう思いながらアマミヤはゆっくりと目を開ける。目の前には開いたノートパソコンに机に置かれた数冊の本、壁掛けのカレンダーがある。事務机にうつぶせになったまま、いつの間にか眠っていたようだ。
「……おはよう、クロミナ。何かあった?」
目をこするアマミヤは、声の主の女、クロミナに声を掛ける。
「いや、別に用ってほどでもないけどさ。仕事サボって寝てるのかと思って」
「はぁ……サボり、ね。君は、徹夜で書類を作っていることを『サボり』と言うのかい?」
アマミヤが机の上の紙を手に持つと、パンパン、とそれで机を軽く数回たたく。
「わ、分かってるわよ、冗談だって。ここ一ヶ月ほど、まともに寝てないんじゃない?」
「……別に構わないんだけど」
アマミヤは立ち上がると、近くの水道で顔を洗う。夏とはいえ冷たい水が、起きたばかりの身体を冷やす。
「まあ、あんなことがあった後じゃ、ゆっくり寝ていられない……か」
「君よりはマシだよ。まったく平気と言えば嘘になるけど」
「え、わ、私よりマシ? そそ、そんなことないわよ」
「一日中泣き声が聞こえてきたようだけど?」
「う、うなー! 言うな! 言うんじゃない!」
クロミナは「きぃぃ!」と謎の声を出しながらアマミヤを威嚇する。それを無視して、アマミヤはタオルで顔を拭いた後、コーヒーを淹れ始めた。
「大体、コノルーが悪いのよ! 何で変なのばっかりしか連れてこないのよ!」
「知らないよ、そんなこと。で、当の本人はどこに行ったのさ?」
アマミヤは「飲む?」と空のカップを取りだそうとしたが、クロミナは首を横に振った。
「知らないわよ。殺人鬼が女の子を殺す様子を見て、倒れて病院行ってからはね」
「……一応、ショックは受けていたんだ」
消毒液の臭いを打ち消すかのように、コーヒーの良い香りが部屋中に漂う。アマミヤはインスタントコーヒーの香りを楽しむと、一口だけ口にした。
「あ、そうそう、言い忘れてたけど、あいつらクオンの所に行ったみたいだよ。何話したか知らないけどさ」
「ふぅん、そう」
「ふぅん、って。気になっているんじゃないの?」
「まあ、多少は」
事務机のイスに座ったアマミヤは、コーヒーをすすりながら紙の書類に目を通す。しかし、見ているだけであまり理解しようとはしていない。
「……それに興味を持ったところで、手を貸すわけにも妨害するわけにもいかない。これは仕事だ。それくらい分かっているだろう?」
「それにしては随分肩入れしているようにも見えるけど?」
「それは君も同じだ」
「私は麻衣ちゃんだけよ、ひいきにしているのは。別に非リア充一人くらい、特別扱いしてもいいでしょ?」
「マスターが見ているんだ。あまり軽率な行動はとらない方がいい」
「そっちこそ」
ふっふーん、と相変わらず長い髪をかき上げながら、クロミナは病室にあるようなベッドに座り込んだ。
「でもさ、あいつらがマスターのところまで着いちゃったら面白くない?」
「……めったなことを口にするものじゃない。マスターに知られたら、また『制裁』が来る」
「……分かったわよ」
そう言うと、クロミナは部屋から出ていった。
「……」
残されたアマミヤは、一人コーヒーを飲みながら資料を読む。そして、パソコンで作業の続きを始めた。
「……本当に、マスターのところまでたどり着けるなら、その時は……」
うわごとのように呟きながら、コーヒーを飲み終える。しばらくすると、また消毒の臭いが戻ってきた。




